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フリーランスになって感じた「理由」の脆さと大事さ

会社を辞めてから、1ヶ月くらいが経った。

正確に言うと、在籍自体は11月30日までしていたから、そこから数えると2週間強くらいなのだけど、最終出勤日は11月16日だったから、そこからだと約1ヶ月ということになる。

時の流れは、本当に早い。

辞めてから、何人か会社の人たちに会った。

「フリーランスの生活はどう?」と異口同音に聞かれるのだけど、ぶっちゃけ生活リズム自体はそこまで変わっていない。

朝型だから、目覚ましをかけなくても6時か6時半くらいには勝手に目が覚めるし、独立した途端、酒豪になって夜の街を闊歩するようになったわけでもない。

変わったとしたら「日報」を書かなくなったくらい。

その分、多少Twitterで呟く頻度が上がったけど、やっぱりまとまった考えをじっくり時間をかけながらほぐしていくのは、noteのほうがいい。


独立して感じた一番の変化

独立して感じた一番の変化は「意思決定に理由を求められない」ということ。

例えばぼくが独立したあと、Twitterを眺めていたら、とあるメディアの「ライター募集」のツイートが流れてきた。

ぼくが興味ある分野のメディアだったから、応募しようと思った。

でも、結果的にはしなかった。

理由は「なんとなく」。

直感的に「いまこのタイミングで、俺はこのメディアに応募するべきではない」と思った。

ぶっちゃけ、フリーライター1ヶ月目の若造に、そんな偉そうに仕事を選んでいるお金の余裕はない。

これがもしぼくが会社員だったら、絶対に上司に怒られていたと思う。

まあ実際は、その「なんとなく」にたどり着くまでに、頭のなかでありとあらゆるシュミレーションをしたり、メリット・デメリットの検討を重ねたりしている。

そのうえで、どうしても「論理」では結論を出せなかったから、最後は自分の心の声に耳をすませた。

そうすると「応募しない方がいい」という声が聞こえたから、応募しなかったという流れだ。


「理由」は脆い

ぼくは文章を書くとき「なぜタイトルでこの言葉を使ったのか」、「このメッセージを伝えるにあたって、なぜこの構成にしたのか」、「なぜここは漢字ではなくてひらがなにしたのか」など、その一言一句全てに対して「理由」を話せるようにしている。

「文章」といった「正解のない世界」で、複数の人たちで納得感を持ち、且つ精度の高い意思決定をしていくためには「理由」が必要だからだ。

この話は、いま例に出した「文章」以外の場面でも当てはまる。

もちろん「理由を明確化する」意義は、他にも「再現性をもたらす」や「その事象に対する理解を深める」など色々とあるけど、やっぱり「他人に納得してもらいやすくする」という意義は、けっこう大きいと思う。

あえて極論を言ってしまえば「理由」なんてものは、結局「複数人数で合意形成を図るための建前」でしかない。

究極の場面において「理由」そのものに「意味」なんてないのだ。

ぼくが最近ハマっているアニメ『進撃の巨人』で、主要人物の一人であるアルミンが、兵士たちに向かって突拍子もない作戦を命令するシーンがある。

そこで兵士たちは、そのあまりの突拍子のなさに「根拠は?」と問う。

そこでアルミンは「勘です」と答える。

そのシーンが、ぼくはけっこう好きだ。

「理由に筋は通っているけど、あんまり上手くいかなさそうなアイデアA」と「理由に筋は通っていないけど、なんか上手くいきそうなアイデアB」があった時、ぼくたちが選ぶべきは「B」だ。

その時、ぼくたちは「B」という結論で合意形成をとるために、後付けの理由でそれっぽいロジックを組み立て直して「理由に筋が通ってるふうを装っている、なんか上手くいきそうなアイデアB」に仕立て上げるなんてこともある。

それくらい「理由」は脆い。


そんなきれいに毎回「論理」が成立するわけじゃない

ただ、ぼくがきょう話したいのは「理由はショボい」ということではない。

実際、ぼくも冒頭の例で言うと「そのメディアに応募して実際に受かった時の、メリットとデメリット」を整理したり「そのメディアに応募しなかった場合、自分は今後こういうパターンになり得そうだ」といったシュミレーションをしたりした。

そういった言語化を通して「自分が目指すライター像」や「今後のフリーランスとしての生存戦略」などが、多少なりとも明確になった恩恵もある。

「理由を言語化すること」にも、たくさんの意義があるのだ。

ただ「フリーランス」の場合、考えに考えて究極的に「論理」で結論を出せなかった時に「なんとなくの直感が決め手になった」と、自分に対して正直に言える。

なんで「直感」を決め手にできるのかというと、この意思決定に関わっているのがぼく一人だし、この選択がうまくいこうが失敗しようが、責任をとるのは「ぼく自身」だから。

その意思決定の仕方をした瞬間「あ、俺はフリーランスになったんだな」と実感した。


「自分の選んだ道を正解にする」も理解はしている

ちょっとだけ話が逸れるけど、よくこういった「意思決定」や「選択」に関する話に出てくる言葉で「世の中に正解の道なんてない。自分の選んだ道を正解にするだけだ」というものがある。

その言葉自体には、めちゃくちゃ賛同する。

ただ一方で、この言葉を意思決定の「過程」に持ち込むのは、自身の意思決定に対してやや無責任な気がするのだ。

どうせ成功するなら、少しでもリターンの大きい選択をしたいし、どうせ失敗するなら、少しでも進んだステージで失敗したい。

ゲーム『スーパーマリオブラザーズ』に例えるなら、どうせ倒すならクリボーよりもクッパの方がカッコいいし、どうせライフポイントを削られるなら「ステージ1」より「ステージ8」に挑戦して派手にやられた方が、面白いし次に繋がる。

「結果」なんて、誰にも分からない。

ただ、分からないからこそ、その結果を出す「ステージ選び」は、頭がちぎれるくらい考え抜くべきだと思う。

頭がちぎれるくらいまで考えて、それでもどうしても結論が出なかった時は「直感」。

そして、それくらい考え抜いて、覚悟を決めて選んだからには、その選択を正解にするために全力を尽くす。

「世の中に正解の道なんてない。自分の選んだ道を正解にするだけだ」という言葉を持ってくるのは、意思決定をした「後」でいいのだ。


「理由」を求められなくなったからこそ「理由」を考えるようになった

独立して、ぼくは他の人から「理由」を求められることが少なくなった。

それは一見、すごく「楽」な気がする。

でも経験してみて思ったのは「理由」を求められないというのは、すごく「怖い」ことでもあるということ。

極論すると、めちゃくちゃ適当な意思決定をしても、誰からも怒られない。

めちゃくちゃ考え抜いた意思決定で失敗しても、誰かも怒られない。

どんな「過程」を踏もうが、どんな「結果」を出そうが、全部「自分自身」に跳ね返ってくるだけだ。

人から「理由の説明」を求められることは少なくなったけど、結果的にぼくはこれまで以上に、自分の意思決定の「理由」を考えるようになった。

「この選択によって、俺は何を捨てて、何を得ようとしているのか」
「ここに自分の時間と労力を割くことが、本当に未来の自分に繋がっているのか」

このヒリヒリ感を、ぼくは求めていた。

すごく不安だけど、すごく楽しい。

フリーランス1年生、いまのところは楽しく元気にやれています。

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