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「科学」と「宗教」の距離感

科学革命はこれまで、知識の革命ではなかった。
何よりも、無知の革命だった。
科学革命の発端は、人類は自らにとって最も重要な疑問の数々の答えを知らないという、重大な発見だった。

「サピエンス全史(下)」より


「サピエンス全史(下)」を読みました。


今回はその感想、第2回です。


きょうは、「科学」と「宗教」との関係について書きます。

一般的に、「科学」と「宗教」って真逆の存在として扱われることが多いですよね。

なんかあんまり論理的じゃなかったり、科学の法則を無視していたりするような話を聞くと、「ちょっと胡散臭いなあ」って思ってしまうこと、あると思います。


16世紀から17世紀にかけて「科学革命」が起こったとき、それまで「神様の仕業」だと認定されていた事象が、どんどんと「数字」と「論理」で語られるようようになっていきました。

つまり、世の中が「宗教→科学」へと転換されたのです。


というのが、世界の変遷に対する、一般的な見方だと思うのですが、、、

本著の筆者であるユヴァル・ノア・ハラリさんは、「科学と宗教はグラデーション」というかもはや、「科学も宗教のひとつ」といった見解を示します。

近代の社会秩序がまとまりを保てるのは、一つには、テクノロジーと科学研究の方法とに対する、ほとんど宗教的なまでの信奉が普及しているからだ。

「サピエンス全史(下)」より
(※以下、この囲いがあるものは、全て「サピエンス全史(下)」からの引用です)


ぼくなりの解釈で、ハラリさんの主張を言い換えると、「科学革命」の最大の特徴は、いままでぼくたちが理解できなかった事象を「神様の仕業」で片付けるのではなく、ちゃんと「理解できない」と認めたことだったんじゃないかなと思います。

ソクラテスの言葉を借りるなら、「無知の知」的な。


(本当はなにかしらの自然法則がその裏に隠されているのに)理解できないと認めたからこそ、理解しようという姿勢が生まれ、それが結果的に「科学革命」を呼び起こしました。

近代科学は、最も重要な疑問に関して集団的無知を公に認めるという点で、無類の知識の伝統だ。


ただ、とはいえ、というか、むしろここでは「だからこそ」という接続詞のほうが正しいのかもしれないですが、科学革命から約500年たった2020年現在でも、世の中にはわからないことがたくさんあります。

500年前までは全て「神様の仕業」として済ませていたものが、少しずつ「数字」と「論理」によって書き換えられているのですが、とはいえ、逆にまだまだ「神様の仕業」でしか記述できない出来事も、ごまんとあるのです。

そう考えると、これまで「対極」として考えてきた「科学」と「宗教」の距離がグッと近くなるというか、もはらグラデーションでしかないなと、少し両者の関係性に対する見え方が変わってきます。

ギリギリまで「科学」で記述した現象も、最後の最後が「神様の仕業」として記述すると、それは途端に「宗教」的な色合いが強くなるくらい、両者の距離は近いのです。

科学自体さえもが、研究を正当化し、必要な資金を調達するには、宗教的な信念やイデオロギーの信念に頼らざるを得ないのだから。


というか、近いというよりも、この論理を突き詰めると、きょうのnoteの前半で少し書いたように、「科学も宗教のひとつ」という考え方にたどり着きます。

いまぼくたちが「論理」と「数字」で片付けている現象も、もしかしたら実は全く違う力が働いている可能性も、ゼロとは言い切れないので。

いまからまた500年後くらいになったら、「相対性理論はナンセンスだよな〜」みたいな世界がやってくる、かもしれません。




★「科学」と「宗教」の関係性について書いた、別のnoteもぜひ!


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