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「悟る」と、どうなるのか?

人生に信念はいらないという本を読みました。

昨日のnoteでもこの本には触れたんですが、本の趣旨に沿った感想については、今日のnoteの方でいまから書きます。

▼昨日のnoteはこちら


禅は『実践の宗教』だけど、想像だけで書きます...

この本の副題は、『考える禅入門』です。

ここからも分かるように、著者は龍雲寺で住職を務める、細川晋輔(ほそかわ しんすけ)さんという方です。

ということで、今日のnoteでは宗教でよく語られる『悟り』について、考えてみます。

ただ、本のなかで細川さんはさんざん禅について『実践の宗教だ』と言って、頭だけで理解することを否定されていました.........

それを知っておきながら、座禅のひとつも組まずにあえて『悟る』ことについて書こうとしているこのnoteを、もし細川さんが読まれたら『けしからん!』と怒るかもしれません。

ただ、いまのところぼく自身が出家する予定がないので、少なくともしばらくは本当に意味で悟れそうにありません。

なので、現時点で、とりあえず『悟り』を想像だけでもしておこうと思います。


『悟る』とは

とりあえず、本にあった文言を引用してきます。

「悟り」とは「発見」であると言います。新しく生み出すことではなく、今まであったものを、「見つけて」「気づいて」いくことなのです。

もうこれで答えが出たといえば出たんですが、もうすこし他の言葉も引用しながら、噛み砕いていきます。

ぼくたちは、なにか困ったことがあったとき、ついつい『外』にその原因を求めがちです。

「仕事でうまくいかないのは、あの上司が悪いからだ」

「あの人はいつもノラリクラリとうまいことやって、自分はいつもハズレくじを引かされている」

などなど。


ただ、臨済禅師という方は、本のなかでこんな言葉を残しています。

仏や祖師を知りたいと思うならば、決して外に求めてはならない。今この目の前でこの説法を聴いているものだ

これは、仏や祖師のことを知りたいときだけじゃなく、いろんな場面に当てはまる言葉ではないでしょうか。

他責思考ではなく、自責思考。

周りの人がどうだといった制御不能なものに要因を見出すのではなく、自分自身はどうなのか、いま自分にできることはなんなのか?という制御可能なものから考えていったほうが、状況を好転させやすいです。

また、実際になにかアクションを起こす以外でも、受容の仕方を変えるだけで、グッとこの世の中を生きやすくなります。

大事なのは、変えなくてはならないのは、周りの環境ではないことです。
これは変えようとしても、変えることができません。
しかし、受け取る側の自分自身というものは、変えることができるのです。
三分咲きの桜を見て、「桜の花ってこんなに綺麗なんだ」と感動できる自分になれば、人生はより豊かになっていくはずです。

つまり、『悟る』ということは、なにか新しいものに出会うとかそういうことではなく、いま目の前にあるものに、いかに『気づく』ことができるか。

どれだけ色眼鏡なしで、自分の中やいま目の前の出来事に対して、実直に向き合うことができるか。

そういうことではないかと想像してます。


最後に、『禅問答とは』という『悟り』と非常に近い言葉についても触れられていたので、そちらを引用して終わります。

禅問答とは、自分と他人を対立させ、分けてしまうのを捨てて、自分と他とは二つではないことに気づくことから始まります。
我見をなくして平等に物事を見られる眼を持ち、その無心の澄み切った眼で、差別の現実を見ていこう。
そのことが物事を正しく見ていくことにつながっていく、というのが禅の根幹です。

※太字は藤本によるもの


▼お寺の修行生活の詳細など、普段の生活ではまったく触れることのない話がいっぱいあって、面白かったです!


▼細川さんと出会ったフリーペーパー『熱風』の感想note


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