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「科学的」とは、絶対的ではなく相対的なもの

『多くの人のいう科学とは、実は、明治啓蒙主義のことなのである。』

昨日のnoteでは、『(世の中の大半の)人は論理的な説得では動かない。そしてその先で待っているのは、論理的に思考できる(一部の)人とできない(たくさんの)人の二極化が進んだ世界だ』ということを書きました。

そこで今日は、昨日の話とも関連して『論理的』の兄弟みたいなもんである『科学的』であるということについて、書いていきたいと思います。


いまの一般的な「科学的」は、科学的ではない

ぼく、4日ほど前から「空気」の研究の感想をちまちまと書き続けてるんですが(たぶん今日が最終回です!)、使ってる単語が『空気』とか『水』とか『アニミズム』とか、一見すると全部すんごいスピリチュアルっぽいですよね...

言い換えると『科学的ではない(≒論理的ではない)』ということなんですが、著者の山本七平は、いまの多くの日本人が抱いている『科学的なもの』の定義のほうが、よっぽど『科学的ではない』と言います。

それで、いまの多くの日本人が抱いている『科学的なもの』というのが、冒頭で引用した『明治啓蒙主義』のことです。

明治啓蒙主義とは、明治政府が日本国民に対して海外からの教えをこうだ!と押しつけたやり方を指しています。

本書中の具体例をそのまま引用させてもらうと、

石ころは物質にすぎない。この物質を拝むことは迷信であり、野蛮である。
文明開化の科学的態度とはそれを否定棄却すること、そのため啓蒙的科学的教育をすべきだ、そしてそれで十分だ

という考え方のことです。

では、山本七平にとっての『科学的』とは。

これも本書中の言葉をそのまま引用すると、

日本人が、なぜ、物質の背後に何かが臨在すると考えるのか、またなぜ何か臨在すると感じて身体的影響を受けるほど強くその影響を受けるのか。
まずそれを解明すべきだ

という態度を指します。

この態度を山本七平は『探求』と表現して、『彼のみでなく明治のすべてに、先進国学習はあっても、「探求」の余裕はなかったのである。従ってこの態度は、啓蒙的といえるが、科学的とは言いがたい』と、バッサリ切り捨てます。

(『彼』というのは、福沢諭吉のことです。本書中で、山本七平は福沢諭吉のことをすごい批難してます)

つまり真に『科学的である』というのは『ぼくたちの言動の背景にありそうな空気や水といった概念は、一体どんなものなのだろう』と『探求』することなのです。

決して『空気や水なんてそんな概念で人間の言動を説明するな!』と、その存在を無視することではありません。


「科学的」とは絶対的な概念なのか?

しかし現状として、多くの人にとって科学的とは『啓蒙的』であることです。

それでぼくは、この啓蒙的な態度の弊害のひとつに『科学的という概念が相対性を持ち得てしまった』ことがあるんじゃないかと思ってます。

もっとややこしい言い方をすると、『みんなが科学的を絶対的なものだと思っているからこそ、科学的というものが相対的な概念になった』ということです。

先述したように、科学的を『分からないものを探求する態度』として定義するのであれば、科学的に絶対も相対もないんですが、科学的を『啓蒙的』であるとすると、そこに絶対性が生じ、そして結果的に相対性をもたらします。

なぜこんなことが起こるのかというと、その絶対的なラインが『自分に理解できるかどうか』だからです。

つまり、自分に理解できるものを『科学的』で、できないものを『科学的でない』としてしまうことによって、同じ現象を理解できる人とできない人で、『科学的か』『科学的でないか』という相対性が生じるということです。

典型的な例としては、いま日本で意見が割れている『原発の運用方法』だと、『推進派』と『反対派』それぞれが自説の補強に論文やデータ(=”科学的”なもの)を持ち出している一方で、相手の論文やデータは『捏造だ』『調査環境がおかしい』などといちゃもんをつけて受け入れる姿勢を示していません。

もし科学的であることが本当に絶対的なものなら、こんなことはありえないはずなので、これは科学的が相対的であることの証左ですね。

実際、山本七平も本書中にて『科学的根拠をいわれるものはこの空気に適合するごとく再構成されるのが通常であるから』と言っていて、相対的であるがゆえ、人や状況に応じて『科学的』とは移ろいゆくものであることを示唆しています。

要はこの章で何が言いたいかっていうと、『科学的』であることはぼくたちが思っているほど権威あるものではないから、気をつけていこう!ということです。

(引用中の『この空気』については、感想の1回目に詳しく書いたのでぜひそちらを読んでください!)


納得できることを一度立ち止まって考えるのも「探求」

そして、今日のnote全体を通して言いたいことは、常に『探求』し続けることの大事さです。

それは今日ここまで書いてきた、分からないものを『科学的でない!』『スピリチュアルだ!』と否定しないことだけでなく、逆に『おぉこれはいいな!』『新しいぞ!』と安易になんでもかんでも受け入れないことも指しています。

特に日ごろ、Twitterでベンチャー・スタートアップ業界の人たちの言説やプロダクトに触れている身として、本書中のこの言葉はとても印象に残りました。

その場その場の”空気”に支配されて、「時代先取り」とかいって右へと左へと一目散につっぱしるのも、結局は同じく「言必言、行必果」的「小人」だということになるであろう。
大人とはおそらく、対象を相対的に把握することによって、大局をつかんでこうならない人間のことであり、ものごとの解決は、対象の相対化によって、対象から自己を自由にすることだと、知っている人間のことであろう。

自戒の念も込めて、『探求』し続けることはこれからも意識していきたいですね。

・・・

今回取り上げた「空気」の研究は、感想を書いてるぼくもまだ1回読んだくらいじゃ咀嚼しきれてなくて、今日の話もだいぶ手探りで書いてます。

下の最所さんのnoteのほうが分かりやすくまとまってるので、こっちも読んでみてください。

おまけ部分が有料なだけなので、記事の本文は無料で読めます...!


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