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「解像度」は上げるものではなく、上がるもの

1つの料理を食べるだけで、ここまでの情報を得られるのか!と驚いた。

解像度って、同じ景色に触れたときに、他のひとが1の情報だけを得るところを、自分だけ10の情報を得られることを指す。


上の鳥羽さんのnoteを読みながら、ぼくもなにかを食べたときにここまでの情報を得ることができるかなと想像してみたけど、結論として、少なくともいまのぼくでは絶対に無理だなと思った。

解像度とは『よし、いまからこの目の前の風景を見て、めっちゃ色んなことに気づくぞ!』という気合いでなんとかなるものではない。

どちらかというと『気づく』というより、『気づいてしまう』という表現のほうが近い。


それで、結論から先に言ってしまうと、解像度を高めるために必要なのは『気合い』ではなく『知識』だ。

この前のnoteとは、まったく逆の話。

補足しておくと、全く逆というより、『言葉(=知識)を獲得することによって解像度が上がる』というところまでは一緒で、それによって不幸せな事態に気づいてしまうこともあるよねというのが、上のnoteの趣旨。


今日のnoteは、言葉(=知識、概念)を獲得して解像度が上がることによって、どちらかというと幸せになるという話。


例えば、ぼくは2~3ヶ月前くらいから、服について勉強し始めた。


まだまだまだまだまだまだまだまだ大変だけど、最近ようやく出てきた専門用語に『あぁ、あのことね』っとなる回数が増えてきた。

それで明らかに変わったのが、町中を歩いているときの景色だ。

3ヶ月前と同じ道を歩いているはずなのに、明らかに目に飛び込んでくる景色が違う。


『あぁあのひとの色使いがいいな』とか『あの組み合わせオシャレだな』とか、逆に『このひとの服は微妙だな』とか偉そうなことまで思うようになった。


これを踏まえて上の話にもどると、ぼくは食についての言葉(知識)をあまりにも持ち合わせていない。

最初のnote中に出てきた『甘じょっぱ酸っぱい』なんて言葉、ぼくは初めて聞いた。

だから、鳥羽さんのnoteを読んで『よーしぼくも食についての解像度を高めるぞ!』と気合いだけ入れても、今日明日でどうにかなる話ではないのだ。


じゃあどうすればいいのかということで、知識を獲得するというのは即ち勉強するということなのだけど、勉強することとセットで大事にするべきは『アウトプットの機会』を確保すること。

これによって、劇的に効率が上がる。


出口を意識しながらインプットをしたほうが、絶対『この知識はこんなふうに使ったら良さそうだな』と想像しながら頭に入れるので、圧倒的に吸収率が高くなる。

実際、ぼくは『服の勉強をしよう!』と思ったときに、セットで『月に1万円は絶対に服代に使おう!』と決めた。

そうすることによって、ただボーっとインスタを眺めるだけでなく、『おおこれは今月買おうかな!』となって、一気に集中力が上がる。


ただ、ここまで言っておいてなんだけど、解像度を高めるのに『知識』や『アウトプット』はあくまでも効率を上げるための補助装置だなと思うこともある。

効率に唯一対抗できるもの、それは『量』だ。


よく、体系的にその分野についての知識を学んでないのに、ものすごく解像度の高いひとがいるけど、あれはその裏に補って余りある量が隠れている。

莫大な量を経るなかで、昨今流行りのディープラーニング的な感じに、自分自身で特徴量を抽出していく。

これをぼくたちは『好きこそものの上手なれ』と呼んだり、はたまた『天才』と呼んだりするのだと思う。


だからぶっちゃけ、ひとに言われなくても勝手にやってしまうような分野に関しては、知識もアウトプットも解像度を高めるための必需品ではない。

それらに勝る『好き』という最強のインセンティブがあるから。

アウトプットも、インプット量と解像度がある閾値を超えたタイミングで、大半のひとが自動的に始める。

『これくらいなら自分でもできる!』という感情が、自然とひとを情報の発露へと向かわせる。


だからまあ、『好き』が結局強いなというすごいありきたりな感じになってしまうんだけど、これはあまりにも再現性が低い。

自分のある種先天的な『好き』以外の分野でも解像度を上げていくための手法として、『知識』と『アウトプット』は効果的なんじゃないかというお話。

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