見出し画像

蚊と命と共同体

蚊が多い季節になってきた。
モスキート音が不快に感じるのは遺伝子に刻まれた本能なのだろうか、あの音に悩まされて寝付けない日が誰しもあるだろう。
緑の多い場所に行けば絶え間なく襲いくる無数の蚊が耳に嫌な音を残していき、闇雲に手を振り上げて見えない敵と戦い続けることになる。
僕はベジタリアンとはいえ蚊の不快さは我慢できず、血を吸われるのを見過ごすわけもなく、見つけ次第叩き潰そうと躍起になっていた。

しかし改めて考えてみると、蚊は勇敢な生き物だよなとしみじみ思う。だってわずか2mgの身体で、数千万倍も重い人間から血を吸うために刺しにいこうというのだから、命懸けにもほどがあるではないか。
『虎穴に入らずんば虎子を得ず』の諺をまさに体現する生き様は、僕にはとても真似できない真の勇者の姿だろう。虎穴どころか怪物の根城に財宝を盗みに行くような、あるいは銃撃戦の渦中に丸腰で出向いて敵の本陣に潜り込むような、命がいくつあっても足りない危険な生き方を文句一つ言わずにしている健気さに心打たれて少しの血くらいなら吸わせてあげてもいいかと一瞬思うが、不意にあのモスキート音に耳元で囁かれると憐憫の情はすっかり雲散霧消して、いつの間にか叩き潰そうと躍起になっている。

***

もし人間が蚊のように勇敢で恐れ知らずな動物だったとしたら、果たして人類は今日のように繁栄できたのか疑問に思う。
生命が種の保存と繁栄という本能を備えて存在していると仮定するならば、寿命と繁殖力が異なる人間と蚊では個体の死が種にとっての損失に影響する重大さが違うのではないか。
諺では『一寸の虫にも五分の魂』とあるが、実際のところは種全体における個の役割に基づいて命の価値は決まっているのかもしれない。我が子を愛おしそうに肌身離さず抱え続ける猿の母親が子に抱く献身的な愛と、一度に3億の子どもを産むマンボウの母親が一匹の子に抱く愛情とでは大きな差があることは言うまでもない。寿命が短く繁殖力が強い昆虫種の生存戦略は、周囲も自身も個体の死のリスクを厭わず活発に活動範囲を広げていくことでその数を増やしてきた。

では、人間の場合はどうだろう。
まず人間の身体は、安心と幸福の中だけで過ごすように作られてはいない。人類は命の危険を感じれば恐れ慄き、時には不安や恐怖から逃げ出すことで命を守って生き延びてきた。蚊のように一度や二度追い払われても数秒経てばまた血を吸うために巨大な怪物の皮膚を果敢に目指すほど、我々は無謀な生き方を選べない。
なぜなら人間の命は貴重だからだ。一人の人間は母胎で40週過ごし、立ち上がって歩き始めるまで一年以上を要し、生殖適齢期まで20年近くを要するほど、一人あたりに多大なコストをかけてようやく次世代へと命を繋ぐことができる。
さらに大抵の場合は一度の出産で一人しか産まれず、育児に費やす時間や労力を考慮すると一人の女性が生涯で子を産む人数が二桁に達するのは歴史的にも稀なのではないだろうか。

そんな貴重な人間の命であるが、人類は有史以来瞬く間に勢力を拡げて世界の覇権を握り、遂には世界人口80億人に到達した。野生の大型哺乳類の大半が数万〜数十万程度しか生息していないにも関わらず、人類だけはとてつもなく数を増やしている。
本来、個体の寿命が長く繁殖までに多大な時間とコストがかかる貴重な命ゆえに、人間一人ひとりは周囲から尊重され大切に守られながら育ち、不安や恐怖を感じながら危険を回避しつつ後生大事に自分の命を守って生きてきた。命のサイクルの新陳代謝が緩やかな動物ほど個体数が少なく、それだけ大事に育てられる傾向がある。しかし現在80億人にまで膨れ上がった人類は一人ひとりを大切にする生存戦略の合理性に乏しくなり、種の繁栄戦略と個の生存欲求の間で不均衡が起こっている。猿の群れが代わる代わる交代で産まれたばかりの赤ちゃん猿の面倒を見ているようには、人間は産まれてきた赤ちゃんを社会全体で歓迎する空気が薄れているように感じる。

***

人類が手に入れた平和と繁栄は、確かに人間の死亡率を極端に下げ平均寿命の上昇に大きく貢献した。しかし代わりに社会は産まれてくる命への尊重と歓迎の心を失い、人々を競争へと駆り立てるようになった。
愛は勝ち得るものになり、孤独を埋める術は自分で身につける必要があり、不安や恐怖は新たな火種を作り出す。社会が人間一人ひとりの生存欲求による感情を満たすものではなくなっているから、一人ひとりの心を満たすために先進国から次々と出生率が低下しているのではないだろうか。
日本でも出生率の低下に歯止めがかからず、令和に入り出生率は過去最低を加速度的に更新し続けている。たとえ平和と安全が約束されていても、愛のない場所で子どもは育たない。弱くて臆病な存在である人間は、愛を求めずに生きてはいけない。ここに現代社会の共同体を悩ます崩壊の亀裂があるように思う。
では、人間の社会はどうあるべきなのだろうか。

蟻や蜂といった一部の昆虫種は、規則性の高い緻密な社会システムを構築している。わずかな脳しか持たない昆虫が築いているとは考えられないほど高度な規律のある社会に感嘆するが、裏を返せば融通が効かない社会だということでもある。個々の命は最初から最後まで割り振られた役目を全うするためだけに生存し、与えられた使命を不満に思う個体は存在しない。それを踏まえて考えれば、規則通りに動かないこともまた人間らしさか。
人間にもっとも近いとされる種、チンパンジー。チンパンジーもまた人間同様に社会的動物であり、リーダーであるアルファオスを筆頭にした縦社会を形成している。そのチンパンジーであるが、この前眺めていたらあることに気づいた。オスのペニスがタケノコ状になっている。人間のペニスのように亀頭がないのだ。それは何故か、自分なりに調べてある仮説を立ててみた。
チンパンジーの群れはアルファオスを筆頭にした序列の厳しい縦社会だ。繁殖ができるのは上位のオスのみであり、下位のオスは交尾をするチャンスに恵まれない。その下位のオスであるが、アルファオスとつがいのメスが発情期を迎えているのを見ても興奮が抑制されて勃起しないのだという。この状況を人間で例えるなら、ヤクザの親分の愛人に子分が誘われてもバレたら詰められることを想像して絶対手を出さない、みたいな感じか。
人間の男のペニスにある亀頭は、女の膣内に既に入っている別の男の精子を掻き出して自分の精子を種付けするためにあるらしい。これは女が複数の男と性行為をしている可能性を意味している。つまり人間はチンパンジーほど序列の厳しい社会システムを築かずに、自由恋愛によって繁殖活動に勤しんでいたということではないだろうか。

蟻、蜂、チンパンジー、人間と、同じ社会的動物でも社会システムの厳密さは種によって違ってくるんじゃないだろうか。規範と統率は計画の合理性を上げ、社会のゆるさは自由と個性の幅を広げる。自由と個性が機能する社会では独創的な発想を生みやすい。人類が繁栄してきた鍵は、この独創性の土壌にあったのではないだろうか。歴史を彩る偉人達の世紀の大発見も、厳格な秩序と役割の中にあっては生まれていなかったはずだ。
人間が人間らしく生きるための社会に大切なのは愛と自由ではないだろうか。

***

人間には愛と自由が必要だと思うのだが、膨れ上がった世界人口の影響で全ての人に愛と自由が行き渡る社会を維持することは困難になっている。反出生主義には心情的に僕が賛同することはないが、人口問題の解決策は綺麗事ばかりでは一向に見えてこない。
今後、人間社会はどうなっていくのだろう。そして人間は、科学の進歩と足並みを揃えて幸福になれるのだろうか。
先のことはわからない。わからないけど、でも未来は明るくなると、もう少しだけ信じていたい。

この記事が参加している募集

#創作大賞2024

書いてみる

締切:

サポートしていただくと泣いて喜びます! そしてたくさん書き続けることができますので何卒ご支援をよろしくお願い致します。