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彼は「闘わないやつは死ね」と言った

 「若者は社会を変えられるか」(中西新太郎、かもがわ出版)という本を読んでいる。ここ最近、若者が政治や社会に対して声を上げるという動きが取り上げられることが多くなっている。その一方で、18歳に選挙権が下げられたことや、投票率が低いということから、「若者は政治に関心がない」という言説がメディアを通して流布している。この2つの現象を、「若者は政治に関心がない」、あるいは「若者は変わった」という短絡的な見方で片付けるのではなく、ここ30年ほどのタイムスパンのなかで、若い人たちは政治に対してどのように反応してきたのか、そしてその背景にどのような政治社会状況があるのか、ということを丁寧に追い、位置づけようとするのがこの本だ。

「これまで若者たちは政治的・社会的関心が薄かった」という通念を、筆者は不正確だと考えている。社会的関心や政治的関心を持たぬよう、表明しないよう過ごすことを社会の側が若者に対し、陰に陽に誘導してきたことが真の問題だと思っている。
 私たちの社会では、おかしい事をおかしいと言ってもよいことになっている。言論の自由があり、民主主義社会なのだから。ところが、「おかしい」と言いにくい現実もまた強固にある。「言いにくい」という生ぬるい表現では足りぬほど、「黙っていろ」圧力は強大だ。アルバイトでも有給休暇が取れると知った若者がバイト先に「有給下さい」と話し、「ウチはそういうのないから」とあっさり無視されるような例はいくらでもある。一〇〇%違法な「ルール」がまかり通っているのだ。そんな現実が当たり前のところで、子どもだって意見を表明する権利が(「子どもの権利条約」)がある、一八歳になれば高校生でも選挙権がある、民主主義の国だから自由にものを言ってよい等々教えられたなら、そう教えられた権利や民主主義について、若者たちはどう考えるだろうか。「あなたは自分の意見を言える」「自分の意見を述べてごらん」」ーーーいくらそう教えられても、理念の上でそのように保障されていることが現実にはまったくできないと思い知るにちがいない。

 私はこうした文章を読んでいて、ある言葉が頭の脳裏に浮かんだ。

「人権ていうのは保障されているものじゃないし、声をあげればそれが届くなんてものでもないし、なんつーのかな、何かやったら社会が変わるとは思えないっていうのが基本だった世代。人権が欲しければ能力をつけろっていうのは当たり前みたいな世代」

 これは、半年ほど前に取材をさせてもらった、ある過激派左翼組織で活動をする若者が語った言葉だった。「何かやったら社会が変わるとは思えないっていうのが基本だった世代。人権が欲しければ能力をつけろっていうのは当たり前みたいな世代」。彼がそうした思いを持ちながら活動に身を投じていたことが印象に残っていた。それは、まさに本に書かれている内容を体現するような若者の言葉だった。彼はそうした社会のあり方がおかしいと思う反面、一方では、自己責任論の感覚が自身のなかにあることを認めていた。

 しかし、彼の自己責任論は一般的なものとは少し変わっているように思えた。それは、彼が自己責任ということが、能力をつけなかったことへの因果というよりは、不条理なことに対して闘わないという部分にあったからだ。だから彼は、「闘わないやつは死ね」という主旨の発言を繰り返した。

個人的な感覚からすれば、闘わなかった奴が後でボコボコにされて殺されるなんてのは、(会社の)奴隷でいいって言ったんだから、じゃあ奴隷のままでいろよっていう。どうなろうがなんの文句も言うなっていう、おとなしく死ねっていうのは、人としては思っちゃう
例えば過労死しちゃった。いやでも、過労死するぐらい働いたのあなたでしょっていう。どっかで労働組合に相談するとか、そういうのをせずに、死ぬまで行ってしまった、それあなたでしょっていうのは、率直に言うとそれ私思わないわけではないです。

 「若者は社会を変えられるか」の著者の主張に沿えば、しかし、今の社会では、闘うことや異議を申し立てるという回路そのものが、抑えこまれている。あるいは言っても変わらないという諦めによって、無力化させられている。若者が政治に積極的に関わらないのは、生活と政治を切り離す社会を作り上げてきたから。それが著者の大まかな立場だろう。それと対照的な「闘わないやつは死ね」という言葉。彼がこうした意見を持つ1つの理由に、大学時代から始めた左翼活動が、周りの人たちあるいは社会から、疎外・排除されてきたことに対する、ある種の復讐心のようなものがあるのではないかと思う。

2000年代の初期ぐらいに、要は大学で、うちらも含めて、もっと言うとうちらですね、学生自治とかそういうのをボコボコに潰されてる時に、ビラまくとか迷惑だしみたいな言ってた奴らが過労死して大変みたいな、泣き言言ってんじゃないぞって単純に思ったりはしますね。知らないよっていう。あなたが選んだんでしょ闘わないことを。だったら強いやつにボコボコにされるっていうのは当たり前やん。それは泣きごと言うなよ、死んじゃえよって思っちゃいますよね。

 「政治的なこと」が憚られる社会のなかで、実際いまの私たちは、デモなどの政治的な活動を白けた目で見ているし、そうした活動に参加する人たちに「普通じゃない」という眼差しを向けている節がある。そういう話はあちこちで聞く。例えば、2015年に安保法制に反対していたSEALDsの活動を「怖い」と言う大学院に通う女性。LGBTのパレードに対して、「ああいうことをしてもいいんですか(違法じゃないんですか)」というテレビ局のAD。彼自身も、そんな眼差しに晒されてきたに違いない。だからこそ、政治や社会と向き合うことなく、白い目を向けたり、迷惑と言う不特定多数の人間に対して、それならば政治に、社会に殺されたとしても文句を言うなと、彼は言いたいのだろう。

 私たちはどうするべきなのだろうと思う。政治に関心を持たない社会のなかで、その空気を補強しているのは他の誰でもない私たち自身である。そのように働く圧力や権力が背景にあったとしてもだ。

 過激派としての彼の政治思想や活動について、また、「闘わないやつは死ね」という彼の個人的な思いについて、賛同するというわけではないし、理解することは難しい。しかし、この本を通じて、改めて彼が大きなところで何に違和感や怒りを持っているのか、その意味するところが、ぼんやりとわかったように感じた。










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