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ヒトのはなし 村田沙耶香『変半身』

いつからかわからないのだけど、確かに幼い頃、今生きているのは、生かされているのは「期限付き」なのであって、何か悪いことや失敗をすると、「えーと、じゃあ終わりね」と宣告されてしまうものだと、和式トイレにしゃがんでお腹を一人さすっていたのを思い出す。

とうぜん今はどうしてそうなっていたのかわからないのだけれど、その時は「そう」としか言えない、身体で諒解していたわけで、信じるというのはそういうものだ。

村田沙耶香『変半身(かわりみ)』。どう言えばいいのか、言葉に窮する。とてもラディカルだけど、心地よいのは何故なのか。「本当」というベールを何枚も何枚も脱ぎ捨てて、別のベールを被っては信じるの繰り返し。どうしようもない人間が「ポーポー」叫び倒す。その先にあるのは全く同じ構図で、タマネギの皮よりタチが悪い。

村田沙耶香の小説は『コンビニ人間』しか読んだことはないけれど、残酷さをさらりとむきだしにするから、とてもある意味で倫理的な現象を読者に換気する。自分が倫理的な存在なのだと気付かされる。

『コンビニ人間』も『変半身』も人間についてのはなしだ。小説はだいたい、人間についての話だけれど、正確にいうと、人類、ヒトについての話だ。どこか生物学的で、文化人類学的で、種としてのヒトを扱っている。だから、村田沙耶香の描く人間は強い。次々に別のものを信じていくしかないどうしようもなさは「弱さ」ではない、むしろそこにあるのは種としての「強さ」だ。

ひょっとしたら、僕が語ると次々に出てくる「本当」にクラッシュして、皆が手を繋いで海に飛び込む人間を描いてしまうことになるかもしれない。けれど、種としての人間はそんなことをしない。だから、村田沙耶香のこの小説は、「人間を脱ぎ捨てる」にも関わらず、とってもヒューマニズムな小説で、面白い。

ちなみに『人間が終わる』ということについて僕は別の方向があるのではないかと思っていて、それは中沢新一とかそっち側に何かあるんじゃないかと思っている。備忘録ついでに。

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すごいひさしぶりの投稿でした。今日の京都は本当に暑かった。僕の家は学校の屋根しかみえないのだけれど、その屋根がパチパチなってたくらい。出町座で『ワンダーウォール』をみたけど、成海璃子がただただかわいいなぁと。

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