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求む。志を継ぐもの

荒れ果てた地面が広がる中、ひっそりを生き残っている田んぼがあった。
山のふもとに広がる小さな田んぼ。
齢70を超えて老人がくる日もくる日も世話をしていた。
雨の日も風の日も。
たった一人で戦っていた。
なぜ老人は一人で戦うのだろうか。
何と戦う?誰に戦う?
周りにはもうほとんどいない限界集落。
過疎化著しく、もう辺りには人一人見られない。
孤立無援。
そんな中でも、老人は米を作り続けている。
一体なぜ?

答えは40年以上前に遡る。
当時は稲作に農薬を当たり前のように使っていた。
害虫は稲にとって天敵だった。
消費者に少しでも美味しいお米を届けるために、その一心で農薬を開発し、田んぼにばら撒いた。
朝と昼、ネリコプターであたり一面に農薬を散布する。
そのときは家の中に農薬が入らないよう、集落では家の窓を閉めて、人々は中に閉じこもっていた。
人の体に悪いものをなぜ稲作に使うのだろうか。
農薬を使いすぎると体に悪い食べ物になってしまうのではないか。
実際、田んぼには蛍がこない、メダカがいない。
虫たち魚たちは正直だ。
自然の動物がよってこないということは、体に悪い米ではなかろうか。
一人疑問に思う人がいた。
当時はSDGsなんて言葉は存在しない。
それでも環境のことを考えて、人のことを考えた。
その結果、行き着いた先は農薬を使わないこと。
完全無農薬。
有機栽培だけで稲を育てる。

今でこそ当たり前になった手法ではあるけれども、当時としては異色だった。
周りの農家からはバカにされた。
そんなもの作って売れるわけない。
害虫に食べられる。
売り物にならない。
周りから後ろ指を刺される中、一人無農薬米を作りはじめた。
初めは全くうまくいかない。
肥料を変え、配分を変え、試行錯誤の毎日だった。
けれども10年たち20年たち、ようやく日の目を浴びてきた。
数は少ないものの、有機栽培の米を消費者が求めるようになった。
時代が追いついたのだ。
田んぼを覗いてみる。
メダカが泳いでいた。
夏には蛍の光が戻っていた。
環境に良くて人の体に良い米を作る。
最初は一人で始め、時に周りからバカにされ、それでも自分の信念にもとづいて続けてきた。
その努力がもう少しで身を結びそうになった。

しかし現実は非常である。
販売数が伸びない。
無農薬米を求める市場はあるものの規模が大きくない。
一方で、有機栽培はコストがかかる。
肥料は全て自然のもの。
その種類も膨大。
取り寄せるだけで莫大な資金がかかる。
さらに肥料の配分も天気、湿度、田んぼの水はけ、その時々によって繊細に変える必要がある。
売上が伸びない。
コストがかさむ。
次第に経営は苦しくなる。
さらに周りには若い労働者もいない。
50代が若手と呼ばれる地域である以上、どうしても高齢者に頼らざるを得ない。
インターネットで活路を見出そうにも、時代の流れに取り残された高齢者しかいないからできない。
徐々に規模を縮小しいかざるを得なかった。

そして今、老人は一人で小さな田んぼを耕している。
有機栽培を一人で細々と続けている。
後継者はいない。
いずれ自分も動けなくなる日が来るだろう、その日まで自分の田んぼを耕す。
自分の信念、長年の努力の証である有機栽培の無農薬米を作り続ける。
「せめて心ある若者がいれば」
老人はそう漏らしていた。
「今の若いもんは逆境に弱いからな」
老人はそう愚痴っていた。
「今までのやり方しか自分は知らない。これからは柔軟な発想を持った人に有機栽培を託したい」
老人はそう語っていた。
はっきり言って事業としてはハイリスクローリターン。
仕事のやりがいよりも逆境の方が多い。
けれども、何百年と受け継がれてきた田園風景を守り、田んぼを中心とした日本特有の自然の生態系を守り、さらに環境にも人にも優しい米を作る。
口でSDGsと言うだけなら簡単だけれども、本当に環境や持続可能な社会を目指すのなら、老人の志を継ぐのもありなのではないだろうか。
どんなに企業の会議で美しい言葉を並べていても、汗まみれ泥だらけになりながら、SDGsという言葉が存在しない時代から、既に実践してきた人には敵わない。
目指したい世界を実現しようとしてきた老人が既にいる。
ならば老人の志を受け継ぎ、地に足をついて環境に優しく持続可能な社会を作ることに貢献する。
そんな生き方を目指す人はいないのだろうか。

今まさに一つの志が消えようとしている。
救いの手を差し伸べるのはあなたかもしれない。

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