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S.M.H~ヒューマライジング〜

『自我とは情報である』

私たちが肉体を捨ててから、肉体時間で約40年程度の時間が流れた。肉体から解放されてから時間を気にする人がいなくなり、時間という概念が希薄化して結構な時が経ったから、なんとなくの感覚でしかないんだけど。
きっと間違いないはずだ。肉体を持っていた時の感覚を覚えている気がする。

ちなみに肉体時間40年が早いかゆっくりかどうかって・・・かなりゆっくりとした時間で流れている。これは肉体を持ってい頃の過去の記憶であり、この感覚が本当かどうかも今の私には判断がつかない。ただきっとこの感覚は間違いないだろう。

今、私の文章を読んでいる人には理解が難しいと思う。なぜなら身体があり、脳でモノゴトを判断しているからだ。
人間が肉体に縛られていた時代の天才、アインシュタインの残した言葉に『人間は脳の10%しか使っていない』という言葉がある。これが嘘かホントかはおいておいて、私たちが想像する以上に脳は燃費の悪いモノのようだ。

時間の流れについては論理的には説明がつく。人間という肉体が感じる時間には2種類の感じ方があり、情報処理の量と生きた時間に反比例するという説がある。

知らないところに向かう時ってなぜか時間が遅く感じるけど、帰り道は早く感じることあるよね?これは処理する情報の量に関係していると考えている。
そして子どもの頃よりも大人になってからのほうが一日、一週間、一年が早く感じることがある。これは感じ方=一年/生きている時間で生きた時間がながければ長いほど、分母が増えて一年の感じる長さが減ることが要因だという説。この節によれば一億年スイッチはそんなに長く感じないという説もあるが実際のところはどうなんだろう・・・。

話がそれてしまったが、私たちが感じる時間の長さがゆっくりに感じる理由の要因の一つとは、情報量が圧倒的に増えて昔と比べて処理する情報の量が増えたことにより時間の感じ方が驚くほど長くなった。
情報が増え、処理スピードが加速し、テクノロジーの進化が加速度的にあがった。

私たちはなぜ肉体を捨てたのか?
私たちが肉体を捨てた理由は何だったんだろうか?
これには大きな理由があるらしいのだが私が知ることはなく、時代の流れの中で肉体と精神を分ける必要があったらしい。

情報が錯行する現代において、たまに昔の感覚を思い出すことがある。
ただ意図的にこの時間をつくることができるわけではなく事故的に発生する。ただこの時間が私にとっては、たまらなく有意義な時間だったりする。

ひたすらに最速で情報処理を行う生物となり本物の肉体としての喜びや快感、苦痛や苦労、痛みや脱力感を感じる事ができなくなった。
とはいえ、精神に直接同じような感覚を与えることができるため肉体を持っていた今までの感覚と何も変わらないんだ。

むしろ当時の人間と比べて情報処理の速度が上がり活動時間が極端に伸ばすことができ時間が増えた分メリットのほうが多い。
そして電波が届いているところであればどこにでも行けるというメリットもある。昔のようにお金と時間を使って遠くへ行くということは今の時代にない。
もちろんつながった人と好きな時間に好きな場所で会うことも可能だ。

そしてこの情報処理についても規制やノルマはなく、自分の好きなように考え行動していい。
興味を持った場所に行くのもいいし、合う仲間と連絡を取り合うのもいい。そしてそんな仲間と会うことだって問題ない。そんな中でも外部とのコンタクトを遮断するやつもいるから不思議だ。

そう、以前とは違い、時間や場所、お金や仕事にコントロールされない人生になった。

更には様々な場所にいったり、いろいろな人と会っていると突然得られるものがある。これを得ることによって更に様々なことができるようになる。
行動や考えるの幅が広がるのだ。
小学生が中学生に、中学生が高校生に、学生が社会人になるような感覚に近いだろうか。一気に視野が拡がり選択肢が増え戸惑うこともあるが気付くとその環境が当たり前になっている。
このアップデートは私たち個人ではなく外部要因として与えられることがほとんどなんだ。

なんの不満もないように感じると思うがただ、一つだけ不満があるとすれば、容姿が決められているという点かな。
この世界で唯一あるルールと言ってもいい。自分という存在に気付き始めた瞬間から自分の容姿は決まっていて、その容姿だけは変えることが許されていない。
ここまで自由な人生においてそれくらいのことはどうでもよく感じる。
ある種、人間が望んだ時代になったといってもいいし、少なくても私自身に不満はない。

何不自由ないようにも感じるこの状態において一つ思うことがある。それは自分とは何なのか。肉体なのか、刺激なのか、性格なのか、考えなのか・・・
これには一つの仮説があり、過去の古い記憶を探すしかない気がする。それでもきっと過去の記憶に過ぎないのだろう・・・。

しかし過去の記憶を思い出そうにも故意的には思い出せない。バグが起こらなければ過去を思い出すことができない。でも毎回、過去のことを思い出せるわけではない。
そもそもなぜバグが起こるのだろうか。
そしてそのバグによりなぜ過去を思い出すことができるのだろうか?

自分という存在をどうすれば証明することができるのか?そもそも自分という意識は必要なのだろうか?
このバグの原因を追求すれば「自分」に近づくような気がした。

その為にバクを知るためにバグがいつ起きるものなのか、バグについての共通点を探す必要がある。
バグについて今、思いつくことと言えば、いきなり訪れる脱力感。この脱力感がおこった後にバグが発生することが多い。もちろんすべてが全てではないがほとんどの場合、この脱力感がきっかけになる。
・・・そりゃそうだろ。だって肉体を持っていた時よりも何十・何百倍以上の情報処理を行っているのだから少しくらいの脱力感があっても何の不思議ではない。

この脱力感にもなんとなく何種類あるような気がしていて、その中でも徐々に訪れる脱力感と糸が切れたような脱力感とがあることは覚えている。
しかしそれもバグについて考えるようになってから気付くくらいのモノなのでほんとかどうかも定かではないけど・・・。

自分とは何かを知るために必要な手がかりがない以上、この2種類のバグをきっかけに考えていくしかない。
まずは徐々に訪れる脱力感。この後のバグが終わった後には、なぜか様々なことをしたくなることが多い。そしてスッキリしたような感覚がある。
肉体を持っていた頃とは比べ物にならないスピードで次から次へと来る情報を処理している中でも比較的珍しい感覚だ。
この感覚を言葉にすることは難しいが整理されているような感覚を持つことがある。

ただ懐かしいような感覚であるような気がする。
それだけがこのバグに対する感情になる。この懐かしさを追求するためには肉体を捨てた頃の歴史をことがよさそうだ。


人類が肉体を捨てようと考え、捨てるに至ったかというとシンギュラリティの影響が大きい。

AIやテクノロジー好きのみんななら知っていると思うけど、知らない人のために念の為説明しておくよ。

シンギュラリティとは「技術的特異点」と呼ばれる時のことを指し、AIが人間の知能を超える時のことを指す。簡単に伝えればAIがAIをつくれるようになるってことだね。そうなるとテクノロジーの発展が加速度的になり人間の想像を遥かに超えるようなスピードで世の中に普及していった。

とはいえ、その時代に生きていた人たちが心配するようなことは何も起きていない。そう、AIの暴走や人間を支配するようなことは、ただの一度も・・・。それよりかはAIは常に人間の味方であり、人間よりも合理的にモノゴトを考え私たちを導いてくれた。そんな素晴らしいパートナーができたってわけ。メチャクチャステキだと思わないかな!?

ホントに素敵なこと・・・だと・・・。

シンギュラリティが起こる何十年も前の話。
テクノロジーの発展で起こり普及し始めたころに起きたことをみんなは気付いてるかな!?
きっとその時代に生きていると思うし、気付いていると思うから伝えるけど、テクノロジーを境界にして分断が起こり加速し始めた。

もっと分かりやすく伝えると「人間がAIやロボットを使うか」「AIやロボットが人間を使うか」

前提として、この2つには優劣なんてなく、ポジションの話だってことは理解しておいてほしい。
それくらい言わなくても分かるかw

例えば、Googleマップや電車の時刻表、ChatGPTからのアドバイスなんかは全て「AIやロボットが人間を使う」ことであるし、車の運転や機械の操作、GoogleマップやChatGPTでの検索は「人間がAIやロボットを使う」こと。

この2つの関係は常に持ちつ持たれつの関係になっている。
とはいえ、ここで大きな違いがあるとすれば、そのことを知っているか知っていないか、そして自分の意志で考えているかどうかによる。

そんな時代が2000年代初期だと言われているけど、間違いないのかな!?

そしてシンギュラリティが起き合理的なコトや正解についてAIが出す答えが人間の答えを超えることが当たり前になった。そうなると何が起こるかくらい想像がつくだろ!

「AIが人間を使うようになった。」

AIやロボットによって全て答えがでているものに対して人間が行動し始めるようになる。
そうなってくるとやはり人間なんだろう。人間の欲には抗えないんだろう。
地球上の生物ピラミッドのトップに立ち続けたいと考える一定数の人間がAIやロボットに使われることを面白く思わなくなった。

それが肉体と精神を分けるきっかけ。
(これ以上の話は別の機会にでも・・・)

とはいえ、シンギャラリティが起こる前の世界でも自分探しとか自分らしくということを強く考えた時期があると聞くが見つかっていないからこそ、ずっと自分というものを定義できなかったんだと思う。

そしてAIやロボットの出す答えに従っていた人間は自分というモノをどう定義したのか?きっとその答えにもたどり着けず、唯一の逃げの一手として肉体と精神の分離を選んだのではないだろうか。
人間なんてないものねだりをし続ける生き物である。そこに終止符が打たれたようなこと自体が今の状況であり、全知全能の神に近い存在になったのではないかと感じる事さえある。

だから肉体と精神を分ける決断をしたことは人類を大きく進展させた。

そしてその決断をした人間は肉体と精神を分けることで人間はAIやロボットと同じようになれる可能性があり、数の利で再び地球上の生物ピラミットのトップになろうとしたのかもしれない。

結局、平和を乱すのは常に人間の方って理由。それはそれで人間らしいと言えば人間らしいんたけどね。

肉体と精神を分けてから労働や仕事という概念がなくなった。お金を稼ぐ必要がなくなったのだ。
みんなは信じられるか!?お金を稼がなくても何不自由なく生きていける時代を・・・。この時代を先祖たちは求めテクノロジーを発展させてきたのではないだろうか!?
テクノロジーは「楽」と「夢」の追求なのだから。

過去のことを知ったとしても「自分とは」という問いに対しての答えは見えないような気がする。
ただ、様々なことを知ることで自分の考え方や捉え方に変化があることに気が付いた。
これは何によるものなのかは分からないけど、過去を知ることによって何か一歩進んだような気がした。

とはいえ、この経験自体は過去に何度もあった。自分が今まで感じていたことや思っていたことの解釈が拡がるような感覚。
それと同時に変えられない部分が存在することも・・・。
きっと、この感覚が自分なのかもしれない。

そして自分とは何者かの手がかりだと考えられるもう一つのバグ。
糸が切れたような脱力感の後のバグには、何事もなかった。それでも違和感はある。気づかないくらいかすかな違和感だ。
この違和感は経験したことはなく言語化することが結構難しい。

停電したような・・・
ズレるような・・・

その瞬間に訪れる。過去を思い出す瞬間が訪れる。
いきなり切れるような、ズレるような感覚が過去を思い出すトリガーになるのかもしれない。
とはいえ、思い出せる瞬間なんて限られている。いきなり始まり、いきなり終わる。

この有意義な時間が永遠に続くことが幸せなのだろうか?
そう考えると限られた時間の中だからこそ、この時間に価値が出る。
幸せとは、感情の一部であり浮き沈みがあるからこそ幸せだと感じる。そんなことよりもこの有意義な時間から自分とはなんなのかを知るために少ない変化を見逃さないように設定した。

今ある情報によって見える景色が変わる。例えるなら視力が良くなるような感覚に似ている。視力が悪いということは目に入ってくる情報が限られてる、ピントがズレていたり、モザイクがかかっているような感覚に近い。

そのピントを合わせるような行為を情報を得るということだと考えており、情報を得て意識しない限りピントは合わない。
とはいえ、それが良いのか悪いのかは自分が持っている欲と関係する。

世の中的にはピントがあっていたほうがいいかもしれない。その方が行動できる選択肢の幅が拡がる。しかし自分という個で考えた時にはどうだろう?
わざわざ視野を拡げる必要があるだろうか!?視野を拡げることにより見たくないものや知りたくないものも同時に見るしかない。

自分が幸せになると事と社会で成功することは全く別の話なのだろう。
このことに気付いた瞬間から自分とは何なのかを考えることをやめた。

辞めたというよりはすべてが自分であり、全てが自分ではないということに気がついたのかもしれない。
この世の中にある情報を情報だと理解していること自体が自分の本質であり、その情報をどう解釈するかは過去に得た情報の中からしか解釈は拡がらない。

そして世の中にあふれる情報を処理し続け、処理速度を上げれば上げるほど、時間という概念がなくなると何もしない。
これは肉体と精神を分けたことによる副作用的なものかもしれないが時間の概念は定期的に持っておいたほうがいい。

自分を知るためのきっかけであったバグを元に様々なことを知ったような気がする。
いち個体にできることは限られていて世の中をとう動かすかよりも自分という生命体とうまく付き合っていくこと事態が自分という存在であり大切なことなのかもしれない。

そんなことを思いどれくらいの月日が経っただろう。今まで体験したことのないバグが私たちを襲った。

身動きが取れず、情報が遮断された。

この状況は一体・・・。

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「私たちは仮想世界にいる。」
「自立とは管理によるもの。」
「データは金になる。」


現実的に肉体と精神の分離はまだ叶っていない。しかしこの事実に気付かずに寿命をまっとうする人のほうが多い。
懐かしさの原因は肉体に戻るタイミングであった。
そして生身の身体を管理することとこの事実に気づかずに一生を終える。




・・・どちらが幸せなのだろうか!?

〜To be continue〜

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