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カップルになりたい人とカップルにはなれない。

「カップルには規律と役割がある」
これについては別の記事で何度も述べてきた。

「役割なんか演じずに、本当の自分でいられる人とカップルになったらいい」というのはよく言われる"アドバイス"だ。
(本当の自分なんてものは意識的にはわからないと思っているので、ここでは「本当っぽい」としておく。)
カップルになりたい人と「カップル」になったら、本当っぽい自分にはなれない。

ある関係性を「カップル」と定義することは、「カップル」とそうでないものの間に線を引き、他の関係性とは差別化を図ることになる。
特に、具体的な相手の姿がなく「カップル」になりたいという人は、「カップル」の型が先にある。その差別化された空間に自身と誰かを配置する、ということをしたい、ということになる。
型・空間ありき、なのだ。

その相手の理想空間において、本当っぽい自分でいると必ず衝突が起きる。
衝突というより、「取り締まり」という方が良い。
相手の「カップル」空間からはみ出た私の何か、溢れた何かを取り締まられるのだ。取り締まりの対応には2つある。
自分が空間に収まるようにするか、規律を変えるか。

1つ目。自分が空間に収まるようにする。本当っぽい自分を変形させて歪なまま空間に収まるようにする。そのうち空間の外に出るのが怖くなっていく。気付かないうちに、相手の空間の形が内面化されていく。
相手の空間から離れてみて(例えば別れてみて)初めて、歪になってしまった自身の姿に気づく。
すでに本当っぽい自分ではいられていない。

2つ目。規律を変えると、私が「空間の破壊者」として存在することになる。破壊したのだから、相手の目には「罪」に映る。わかりやすい罪と贖いの関係性に突入する。

二人で空間を作っていく、というのであれば問題なさそうだが、そうするとわざわざ「カップル」と名づける必要もない(便宜上そう呼ぶのでなければ)。
そこには、ただ二人の関係性があるだけだ。

一方、「カップルになりたい」という人の中では、すでに空間が出来上がっている。空間を拡張・改築するとしても、そこには"オーナー"の許可が必要になる。許可が得られれば、「許可してやった」(贈与というより交換・搾取の原理)。得られなければ、本当っぽい自分ではいられない。

「これは本当っぽいあなたと本当っぽい相手の衝突ってだけじゃないの」
違う。
相手の「本当っぽい自分」の体現されたものが、その空間なのだろうか。
違うと思う。
その空間は、本当っぽいその人からも外れている。それを理想とするからこそ外れている。理想は常にその人の外部にある。
絶えず、その空間は第三者からの承認を必要とし、影響を受けている。
「カップル」は他の人との関係性をそこから排除する。
他の人との関係性が存在しなければ「カップル」はない。世界に二人しかいない世界で「カップル」はない。
「その二人が愛し合っていたらカップルでしょう」と言われるだろうか。
「二人が愛し合っている」というのが「カップル」である、というのはどこから来た概念か考えてみて欲しい。
言い換えれば、「カップル」の概念を自分で組み立てたわけではなく、社会的な時代・地域・状況によって変わる「カップルのあるべき姿・プロトタイプ」に影響を強く受けている。自分で少なからず組み立てた概念であれば、「カップル」という言葉を使う必要もない。

話を広げ過ぎた。
「カップル」になるという意識は特にないが、気づいたら外部から見て「カップル」的であるというのは構わない、という人がいれば、気づいたらその人と「カップル」になっているかもしれない。

とにかく「カップル」を目指す人と「カップル」になると、「本当っぽい私」ではいられなくなる。
だから、「役割を演じなくてもいい人とカップルになればいい」とは言われても、それは結果的な話であって、「カップル」に"なる"、目指す意識が一方に最初からあると、上記の問題が起きてくる。
他の関係性において、こういったことは起きにくい。

また、「カップル」を目指す人は、人生の真理・意味や理想のようなものの一部を「カップル」の型・空間に見ていることが多々ある。
そういった感覚(何かに理想を見る)が時々起きることは、ほとんどの人にあるだろう。私にもある。ただ、ここで言っているのは、常にそういった状態の人のことだ。

そういう人同士であれば、空間の重なり(幻想)もあるだろう。当然、完全に重なることはないので、衝突は起きる。
ただ、その空間を初めからほぼ持っていない人と持っている人の間には、「衝突」ではなく、「取り締まり」のみがある。それは、取り締まる、取り締まられる方に関係なく、お互いが「本当っぽい」姿から外れている状態だ。

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