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聖地巡礼記-西安 楊貴妃の悲しき宿命

世界三大美人の一人と称される女性 
楊玉環こと楊貴妃(ようきひ)

一度は聞いた名前ではないだろうか
彼女が生きた時代が唐の時代
唐の都、長安が世界の中心だった頃の
華やかな時代

西安旅行に行く目的の一つに
華やかな唐の時代の長安に想いを寄せて
町を散策するのも楽しい

秦の始皇帝陵を後にしたら
西安市内に戻る前に立ち寄っりたいのが華清宮!
ここは温泉が出て冬になると
当時の皇帝、玄宗と楊貴妃が過ごしていた場所
他にも、ここは1936年の西安事変でも有名な場所

僕が過去にタイムスリップできるなら
全盛期の楊貴妃が居た唐の時代にとにかく行ってみたい 

あの日、
玄宗が命じ李白が詩「清平調詞」を読み
李亀年が歌い楊貴妃が舞を披露したかもしれない
華やかな宴を想像してしまう

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彼女が生きたのはわずか38年間 西暦719年~756年

735年に当時の唐の皇帝 玄宗の息子の妃になるが
父親の玄宗が楊貴妃を気にいり奪う形で
楊貴妃は玄宗の妃へとなり貴妃となる

楊貴妃一族も入閣を果たし高い身分を得て政治に介入してくる

その過程はかなり慎重に行われて
強引に奪ったという体ではなく数年をかけ用意周到に
進められていた

父親が息子の嫁に手を出す
いつの時代でも
こんなドラマは起きている

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時の皇帝 玄宗は絶大な権力をも持ち
統治能力に長けていた人物であったが

楊貴妃と出会い
一人の女性に翻弄されていく中で
国の政(まつりごと)は徐々におろそかになり出す

国の政は楊貴妃一族が動かすようになり
玄宗の政治は徐々に狂いだしていく

楊貴妃が玄宗の政治を狂わせたとして
楊貴妃や、その一族の批判も増え
内部から分裂が始まる

そして運命の時を迎える

755年 安史の乱である

部下の安禄山が反乱を起こし
玄宗たちは追い込まれ都の長安を捨て
逃げる事になった

玄宗皇帝を狂わせた楊貴妃と
その一族への恨みは膨らんでいた

そして西へ避難し逃げる途中の
馬嵬駅(ばかいえき) という場所で反乱を抑える為にも
楊貴妃は命を絶つように迫られる中
玄宗は止められず死を承諾し
部下の高力士の手により首を絞められて
楊貴妃は人生の最後を迎える

最後の言葉として

「国の恩に背いたため恨みはしない、最後に仏を拝ませてほしい」
と言った話が史実として伝わっている

しかし幾つかの謎がある

楊貴妃を愛する玄宗が
死を承諾したとは考えにくく
実は身代わりと入れ替わり
生き延びた説がある

当時、この馬嵬駅での出来事の
一部始終に関係していた日本人がいる

なんと、
日本人がこの歴史的事件を目撃していると言われてる

その人物は 阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)

唐の時代に長安では
最も有名な日本人
こんな国際的な人がいたんです

案外日本では、そこまで知られてないが
彼の事を有名にしているのは
彼の詩が百人一首でに登場するからかもしれない

第9次遣唐使により唐に渡り、留学し
唐の難関な国家試験に合格し
なんと外人である日本人の阿倍仲麻呂は
皇帝に仕えるほどの地位まで登りつめ
大出世を遂げた人物

このことからも、当時の長安ではの
能力があれば国を動かすポジションに
外国人でも出世できたという
今よりも合理的なシステムがあったのに驚く

日本に帰国するチャンスを何度か逃し彼は
その生涯を外国にささげる事になるのだけど
その阿倍仲麻呂と共に楊貴妃は
日本に逃げたという伝説がある

これがただの伝説ではなく
なんと山口県にある長門の向津具(むかつく)半島に
二尊院というお寺には
楊貴妃の墓が存在する
これまた日本と深い縁で結ばれる話である

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そして玄宗は楊貴妃と別れ
もう会う事が叶わなくなる

ある日、玄宗の枕元に楊貴妃が現れる
夢の中で楊貴妃は玄宗皇帝に日本で死んだので
魂を沈めて欲しいとお願いをする

玄宗は楊貴妃の魂を沈める為に
釈迦如来と阿弥陀如来の二尊仏を日本に送っている
当時、唐から像を持ってきた者は
楊貴妃の墓がどこか解らず、京都の寺に
像を預け唐に帰ってしまったが、その後
墓が天請寺にあるとわかり、届けようとするが
京都のお寺がご利益があるとして譲らず
もう一体、同じものを作り分けて京都と
山口県の天請寺に存在する

楊貴妃は日本とも関わりがあり
今も伝説として、そういう話が残っている

もし長安の少し西にある馬嵬駅で
最後を迎えていたら、こんな伝説にまでならなかったのではと
日本との縁に不思議な想いを感じる

今でも馬嵬駅には楊貴妃の墓が存在する
しかし、その中に眠る人物が本当に楊貴妃かは解らない

今の西安で、そんな面影を見る事は難しいが
玄宗と楊貴妃が愛した華清宮は温泉が出て冬の期間過ごす場所として
今でも温泉跡が残されている

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楊貴妃の死後50年程たった頃
806年 白居易が長編の詩 「長恨歌」で
玄宗と楊貴妃の物語を題材に詩を残し
楊貴妃の悲しき運命と愛の物語は広く庶民に知れ渡る事になる

この唐の時代は政治的に安定していた時代でもあり
文化に花開いた時代でもあった
そしてインドから流れてきた仏教が花開いた時代でもあった

長安には仏教、イスラム教(回教)、ゾロアスター教(祆教)
ネストリウス派(景教)、マニ教(明教)など
多様な宗教が入り乱れていた

シルクロードの都でもあり文化、物、交易が盛んで長安は
世界の中心だった時代が唐の時代


生涯を愛の為に生きた人物 
楊玉環 こと 楊貴妃

その愛と美貌は 大唐 長安を滅ぼしかけた

彼女が好んだ果物にライチがある
当時ライチは遥か南方より運ばれていた
内陸の長安では貴重な果物
中国では今でも楊貴妃ライチと呼ばれている

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中国の歴史って面白い!

まだまだ世界は不思議に満ちているんだ!

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