外部からローカルに関わるということ、その欲望について

※2021年9月11日にFacebookに投稿した文章をnoteに持ってきました。

2021年9月5日。『関係人口の社会学』や『みんなでつくる中国山地』で(ぼくのなかではすっかり)おなじみのローカル・ジャーナリスト田中輝美さんと、学生のころに夢中で読んだ『新復興論』の増補版を上梓した福島県いわき市のローカル・アクティビストの小松理虔さん、大阪・釜ヶ崎をフィールドとして地域と貧困の研究をされている白波瀬達也さんのオンライントークイベントがあり。かなーーり、ドストライクな人選だったので迷わず視聴しました。あまりにも問題意識どまんなかな話題だったので、備忘録的に書きます。

まず、話は『新復興論』の増補版で語られる「共事者」という概念についてから。2011年以降の福島をめぐる言論状況は、住む・住まない、避難した・してない、食べる・食べない、スイシン・ハンタイ……さまざまな分断が交錯し、複雑化したまま硬直し語りにくいものとなってしまっていました。「被災」といってもその内実は100人いれば100通り。外部から状況を理解するのは一筋縄ではいかない状況で、差別や偏見にさらされていた「当事者」から無知な外部の人に対して、「理解できない人間が外から関わってくれるな、ありがた迷惑だ」という声があがっていました。

2018年の『新復興論』は、そのような凝り固まった状況から脱するために、データで正論を語るだけでなく、食や観光・文化芸術の力を起動しようという内容が評価されました。一方で、当事者性の強さを解体するために用いた「原発事故の本当の当事者なんていない」という旨の表現については批判があったことが、イベントの冒頭で小松さんから語られます。「この災害は当事者だけで背負うものではない」という意図だったと思うのですが、たしかに、「当事者だけしかわからない苦しみ」も存在します。

興味があるからゆるく関わりたいな、という西日本在住の人と、当時、双葉郡で被災した人。どちらが当事者かと言われれば、それは間違いなく後者だということになるでしょう。でも、前者のような人を排除してしまうと、課題を抱えた現場はさらに凝り固まってしまいます。専門外だから、当事者じゃないから……まじめな人ほど外部から語ることをやめてしまい、それゆえに議論が広がっていかない。そういった状況を超えるために小松さんが編み出したのが「共事者」という言葉です。

直接、「事に当たっている」わけではない。でも、たまに来たり、話したり、手伝ったりして「事を共にしている」とはいえる。そういうあり方。

田中輝美さんの最新著『関係人口の社会学』では、観光でも定住でもない、「特定の地域に継続的に関心を持ち、関わるよそ者」、つまり関係人口について、はじめて学術的な視点から光を当てています。ここで示された主張のひとつが、関係人口の機能は、外から関わることで内の人が地域再生に主体的になっていくことにある、というもの。その意味で、関係人口はこの「共事者」の機能と重なる部分があると田中さんは言います。

外からわざわざ事を共にしたいという人があらわれることによって、事に当たっている人がその価値に気づいたり、新しい視点をもらったりする。それは単に、田舎にIT業界出身の人が来て、そのノウハウを活かして活躍している、みたいなスキルの話だけでは説明できません。もっと、よそ者と出会った人との相性とか価値観の違いとか思いとか、そういう人間的な要素がかなり大きい場合もある。そんな話が展開されていきました。

このおじいちゃんの話ずっと聴いてられる!とか、このおばあちゃんめちゃくちゃオモロい!とか、そういうのって行政の人材募集要項にはなかなか書ききれない。けれども、スキルマッチングよりむしろそういう人間同士の相性みたいなものが重要なのだ、という話に、とても希望を感じました。東京の大企業やベンチャーでゴリゴリやったあと、移住しました!という話ばかり取り上げられるイメージがあります。しかし、そういう人じゃないとローカルで活躍できないかというと、そういうわけではない。ちゃんと価値観や思いみたいなものがピタッとハマれば、可能性はそこから拓かれる。そんなイメージでしょうか。

特定の地域や課題領域に外部から関わろうとするとき、無知や想像力の欠如ゆえに、どうしても「地雷」を踏んでしまうケースがあります。福島問題の「ありがた迷惑」もそれに対する警告といえますし、最近は釜ヶ崎でも、外部から訪れ個人の体験を綴った「新今宮ワンダーランド」のPR記事が炎上したことがありました。このような事例をみていると、外部から内側へ入っていって、感じたことを率直に発信することが怖くなってしまいます。

これは、ある意味アウェイな環境にぽーんと飛び込んでいったときに、リアルでもよく感じます。自分以外はある程度顔見知りで、内輪ネタっぽい話も聴こえてくる。そこに関わりたくて来たけれども、何から話していいのかわからない。ただのコミュ障じゃないかと言われればそれまでですが、「地雷」を踏まないようにしなきゃ…とか、値踏みするような目線を感じちゃうな…とか、長期的に関わったら「この地に骨をうずめるの?」的な話になっちゃうのかな…とか、いろんなことを気にしながらコミュニケーションをとるのは、疲れます。

『新復興論』の増補部分で印象的だったのは、県がつくった伝承館よりも、市井の人々がつくったクラウドファンディングサイトのページのほうがよっぽど土地の記憶を伝承していたという話でした。人の内から湧き上がってくる思いが率直にあらわれたものが、結局は一番人の心を動かすのではないかと思います。それに、自分が普段接することのない領域(地域だったり、何か特定の現場だったり)に触れて何かを表現することがなければ、人間は孤立していきます。自分のいる地理的空間や専門性に縛られて、外部との交流が絶たれてしまう。人間は社会的な動物だから、それは原理的に耐えられないのではないでしょうか。やはり、外からわざわざ入っていって何かを感じ、それを表現をするということは、生きる上で欠かせません。

鼎談の後半部分で小松さんから繰り出された「よそ者が持つ欲望に公共性を付与する人が必要だ」という発言は、この問題意識を考えるうえで非常にクリティカルに響きました。当事者が、共事者たろうと関わってくれる人に「何も知らないくせに」と言うのは簡単ですが、あえて「素直にどう思った?」とよそ者の欲望を引き出していく。そして、「そういうの興味あるんだったら、こういうことやってみない?」「え!そう見えるの!?意外でウケるな、なんかの形で表現できないかな」と行動を促していく、そういうコミュニケーション。外から関わっていく人も、絶えず学び想像することで地雷を回避しつつ、自分の欲望と課題を結び付けていく姿勢を意識するとよいのかなと思いました。言うは易く行うは難し、なことだと思いますが…。

ところで、「新今宮ワンダーランド」のPR記事について、白波瀬さんは「問題点は多数あったが、新しい語り方として一定の評価はできる」という旨の発言をされていました。執筆した島田彩さんは、後日こんな記事を公開しています。

記事の炎上を受けて、今後どう釜ヶ崎を語っていけばよいのか、実際に釜ヶ崎の多様なポジションの人々に話を聴きに行き、島田さん自身もその内容を反芻して思考を深めていく。そういう内容でした。

表現は必ず人を傷つけます。それはもう、しかたのないことです。だれ一人として、何を言われても傷つかない人なんていないでしょう。だれでも地雷を持っているし、だれでも地雷を踏むことがあります。

でも、ずっと黙っていて何もしない状態では、人間は生きていけません。だからなにか言ったり書いたり、行(おこな)ったりします。それはしばしば人を傷つけるので、苦しいことです。が、ごくたまに、自分や他人を癒すこともある。そういうものなのかもしれません。

こうして考えてみると、事を共にしようとすること、関係人口として外から関わろうとすることは、ある意味、暴力的だけれども、人間として備わっている社会的な欲望のように思えてなりません。ある意味、東浩紀的「観光客」のような無知ゆえの軽薄さも孕みつつ、でもそれがなければ誤配が生まれない、人間的でいられないということ。ひとりでは癒しを得られないのです。

ダークツーリズムは悲劇を消費する不誠実な観光だという批判がありますが、この島田さんの記事にもあったように、外部から悲しみや困難を覗き見する機会がなければ、人はそれについて考えることすらありません。いろんなローカルや課題の現場について、いかにそういった外から関わる機会をデザインしていくか。大学生だけではなく大人にも、そんな機会が多様に用意されていくべきだよなぁ、とそんなことを思いました。

それぞれが、傷つけ合いを一定程度許容しながら、交流し、癒し合うことを志向する。被災、過疎、貧困、そういうことに関心があるとかないとかは別問題として、御三方の著作にはそれを考えるヒントが詰まっていそうです。SOCIALDIA文庫に期待…!!


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