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新今宮に訪れてから、129日間で学んだこと

お読みいただく前に

 この文章は私、島田彩が、自身の表現の反省および改善を目的として執筆いたしました。インターネット上のご意見や、新今宮エリア内における方々からお話を聞くことで学び、その内容を綴ったものであり、あくまで個人の見解です。PRを目的とするものではありません。また、「新今宮ワンダーランド」「新今宮エリアブランド向上事業」からの公式見解ではありません。
 なお、本稿のインタビューについては、新型コロナウイルスの感染拡大防止に配慮し、原則一対一でおこないました。



はじめに

 4月7日に、新今宮について書いたエッセイが、インターネット上で「炎上」をしました。

いただいた意見には、
・PR表記がわかりづらいというご指摘
・エッセイの表現や体験内容への疑問
・行政事業の一環としては不適切ではないか

というものがあり、他にも、「スラムツーリズム、貧困ポルノではないか」「ジェントリフィケーションに加担しているのではないか」などの声がありました。


 大阪市西成区は、「新今宮ワンダーランド」「新今宮エリアブランド向上事業」の広告表現について、メディア取材等で「記事についての様々なご意見・ご指摘は、今後の事業運営の中で検討してまいります。また、本事業に関するご意見については、島田さんではなく、事業主体である本市に頂戴したいと考えております」との見解を示しており、その上で、「広告物としての権限と責任はすべて当区に帰属します。島田さん個人が、それについて表明をする立場にはありません」と言ってくださいました。

 私も、その通りだと思いました。そして同時に、文章表現として世に出た以上、書き手である私に責任があるとすれば、それは、表現の責任だ、とも思いました。実際に、私宛には今も、直接いろいろなご意見が届いています。これからも書く仕事を続けていく自分にとって、今回の件をどう考え、今後どうしていくのかという点において、以下より、「島田彩個人としての表明」をしたいと思っています。

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 みなさんから届く、本件に関するご意見を読んだ上で、改めて自分のエッセイを読み直してみると、自分の書いたものにもかかわらず、みなさんが怒ったり悲しんだりした理由が、今ならすごく分かり、読み進めることが苦しくなりました。

(以下、エッセイに合わせて、新今宮で出会った、野宿生活をされていた方を「お兄さん」と表記します)

 私は、あの日お兄さんと一緒に過ごしたという選択自体や、書く立場としてその思い出を文章にしたこと自体には後悔はありませんが、エッセイの中には、「何故こんな言葉の使い方をしたのか」「何故もっと他の表現を考えられなかったのか」「何故もっと丁寧に説明しなかったのか」と思う部分が、至るところにありました。
 生活に困っている方に対しても、貧困問題そのものに対しても、軽視していると捉えられてもおかしくない表現があり、また、不特定多数の方が読むエッセイとして、読み手それぞれが大切にしているあらゆる価値観や倫理観、社会に対する課題感への想像力が、不足していたと感じています。4ヶ月前の自分に会いに行き、頬を叩いて、このことを伝えたい気持ちです。

 お兄さんがあの日、どのような気持ちで私の言動を受け取り、最後まで一緒に過ごしてくれたのか、私には想像することしかできず、本当のところは、お兄さん本人にしか分かりません。しかし、お兄さんにとって、無神経な言動をしていたかもしれないこと、お兄さんの言動を自分の都合の良いように解釈していたかもしれないことを、重く受け止めています。
 さらに、それらを「楽しかった出来事としてエッセイに綴ること」や「行政事業として引き受けた仕事にあの内容を綴ること」は醜悪だと感じる方がいること、また、PR表記が不十分だったことにより、純粋にエッセイの内容を楽しんで読んでくださった方に対して不信感を与えてしまったことに、真摯に向き合っています。

 こうして自覚して本稿に記したからといって、私の表現は絶対に許されるものではないと考えています。本件を踏まえて、書くことでもそれ以外のことでも、これからも生きていく上で、あらゆる人の尊厳をもっと考えた言動ができるよう、日々努めていきます。

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 このあと個人として、何ができるのかを考えるために、私はもう一度、新今宮に足を運ぶことにしました。ネット上や、人づてに聞いた情報だけではなく、そこで暮らすまちの人々の意見はどうなのか、現場では何が起きているのか。そのためにまちの人達はどんなことを考え、何に取り組んでいて、今後どうしようとしているのか。次はこれらを、自分の目や耳で知るべきだと考えたからです。

 そして、新今宮に1ヶ月ほど滞在し、たくさんのまちの人と触れ合う中で、「自分もこのまちで働きたい、まちの人達とこれからも何かをしていきたい」と感じました。とはいえ、1ヶ月の滞在と聞き取りでは、知ったうちに入りませんし、私はまだ何もこの街に生み出せていません。
 だから、新今宮に住むことにしました。

 しかし私は、普段は奈良に住んでいて、そこにも自分の生活や活動があり、その場所で取り組んでいることも、これまで通り続けたいと思っています。そのため、まるごと移住というわけではなく、2拠点生活というかたちですが、もっとこのまちの人、このまちのことを知るために、新今宮でも暮らしていきたいと思っています。

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 本稿では、その2拠点生活に至る背景にもなる、4月7日に公開したエッセイに対する反省と、そして今回のことに関して様々なまちの人達から聞いた意見や、まちの現状、そのために今、まちの人達が考えていることや取り組んでいること、それらを受けて私が考えたこと、今後の島田彩はどうしていくのかについて、まとめて、公開します。

 まずは、本稿から読まれる方もいることを想定して、時系列で、今回起きたことを以下に記します。

①2月:エッセイの受注
代理店(電通関西支社)より「大阪市の『新今宮エリアブランド向上事業』の取り組みのひとつとして、新今宮にまつわるエピソードを書いてほしい」という依頼を受ける。その時点では、私には新今宮にまつわる具体的なエピソードがなかったため、相談の上、これまで書いていたエッセイの書き方に倣って、「新今宮駅周辺に数日間滞在し、起きたことや感じたことを書く」という進め方に。なお、プロジェクトにおいて、まちの文化や歴史、現状、どういう人達がどんな活動をしているのかを伝えるものなどが既に制作進行されており、数ある企画の中のひとつとして、私が執筆するエッセイがあった。
②3月半ば:新今宮に訪れ、執筆する
プロジェクトのキャッチコピーである「来たらだいたい、なんとかなる。」が決定され、共有を受ける。どこに行って何をするのかを事前に計画するのではなく「ノープランで身一つで行ってみて、過ごした時間の中で体験したことを書く」という進め方を提案し、合意する。新今宮駅周辺のいくつかのエリアをまわり、いろいろな出来事があったが、その中でも、釜ヶ崎周辺地域での出来事が印象的で、かつ依頼の趣旨とも一致したものだったため、その部分をエッセイに綴った。
③4月7日:エッセイの公開
関係各位が確認をおこない、いくつかの修正を経て、エッセイの本文が完成。その後、プロジェクトの紹介方法や、noteの慣例に基づいたPR表記の指示を受け、全体の完成へ。島田彩 個人のnoteにて、エッセイを公開。公開当初から数日間は、好意的な意見が多かった。
④4月13日前後:エッセイの炎上
約6日後、公開したエッセイに対する批判的な意見がTwitter上にあがる。それに伴い、Twitterのリプライや引用RT、DM等で、私自身にも様々な意見が寄せられた。その中には、PR表記への配慮不足に関する指摘や「フィクションではないか」という意見も含まれていたため、関係各位とも協議をおこない、4月13日に以下の文言を追加。
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①このエッセイは、大阪市の「新今宮エリアブランド向上事業」の取り組みの一貫としてご依頼いただいた、街のPR記事です。
②このエッセイは、私が「新今宮」に足を運んだ際に、実際に起きた出来事を、綴っています。
③この枠内の文章は、読んでくださった方々からの大切なご意見を受けて、タグだけでなく冒頭にも、4月13日に追記しています。
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その後、批判的な声がさらに大きくなり、いくつかのニュース記事にもなった。これを受けて、他の仕事や、自身の生活に影響を及ぼす状況になってきたため、関係各位に、SNSで謝罪するなど、何か一言発信したい旨を相談。タイミングや投稿内容は、関係各位との調整のもとでおこなうことになった。
⑤4月19日:ツイートでの謝罪
SNSにて、謝罪の気持ちと「次の行動まで時間がかかります」という旨を投稿。
⑥4月下旬:本稿の構成づくり、まちの人へのアポイントメント
本稿の具体的な内容を構成する上で、問題点や改善内容を自分で考えることや、インターネット上の意見を聞くことは大切だが、当事者であるまちの人々や専門家からの意見も、自分の目や耳で、確かめるべきだと思った。知人にもご協力をいただきながら、様々な方からのお話を聞くためのアポイントメントを随時おこなう。
⑦5月〜7月:まちの人の意見のヒアリング、執筆
お話をうかがう対象は、当事者性や専門性を重視し、エッセイに綴った場所である「釜ヶ崎およびその周辺」に関係する方(居住者、勤務者など)に限定。1ヶ月ほどかけ、それぞれの方に、きっかけになったエッセイの見解や問題点をうかがった。こちらからお声がけをした方もいれば、今回の出来事をきっかけに、声をかけてくださった方もおり、時間は一人あたり1.5時間〜最大2時間ほどだった。
それまでは、ネット上で起きていることだけに目がいってしまい、振り返って反省する気持ちばかりが前にあったが、それぞれの方が、それぞれの分野で、批判を恐れず、大きな覚悟を持って現場で活動し続けてることを知り、「自分もまちの人達のように覚悟を持って、できることをしたい」という気持ちも生まれた。そのはじめの一歩として、今回の件に対する自身の反省や改善点と共に、このまちの人達からうかがったお話や、批判から学んだものを文章にし、世の中に発信したい、発信すべきだと感じ、まちの人への相談や交渉をおこないながら、インタビューとしてまとめ直すことにした。なお、4月19日の投稿から時間が経過していることもあり、関係各位に相談の上、5月14日、6月23日に、途中経過をツイートした。
⑧7月22日:本稿を公開
意見を聞いたまちの人との調整と、関係各位への共有を経て、本稿を公開。なお、私があずかり知らないところでご迷惑がかかってしまう可能性があることから、お話をうかがった方へは、団体名や個人名を伏せたい旨を伝えた。だいたいの方が「名前も団体名も出していい、好きにしていいよ」と言ってくださったが、団体の宣伝と捉えられることを防ぎ、発言内容をフラットに読んでいただきたいため、全員伏せさせていただくことを決めた。ただし、会話の内容より必要だと判断したものについては、団体名を記している場合もある。


 今、4月7日に公開したエッセイについて、好意的な意見と批判的な意見の両方あったことが、何故なのかということも考えています。自分自身の未熟さが、そういう状態をつくってしまったことを踏まえた上で、本稿では、それらについて考えるために、様々な方の意見と、自分を客観的に振り返る目線をなるべく多く入れました。

 以下からはじまる本編は、まちの人達への「インタビュー」と、それを受けた「コラム」で構成しています。コラムでは、インタビューの後記的なものや、話を受けて考えた自身の思い、日常と重なる部分に触れながら、改善のためのアクションや今後についてを綴っています。

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「白か黒かは、グレーを許さない。それは、恐ろしいことだなと思っています」 
──釜ヶ崎地域に50年在住、元日雇い労働者、釜ヶ崎地域史研究家、70代男性

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 このまちに50年以上住んでいるAさん。元日雇い労働者であり、野宿生活の経験者でもあります。様々な活動を経て、現在は、釜ヶ崎地域史研究家として、まち歩きをしたりイベントに登壇しています。

 そんなAさんはこのまちで、すれ違う人、すれ違う人に話しかけられるほど顔が広い方です。「Aさん! どうもこんにちは」と丁寧に挨拶する人もいれば、「今から病院いくところやねん」と声をかけるおばあちゃんも。「釜ヶ崎の生き字引き的存在」そんな風に呼ばれているところも、見たことがあります。

 Aさんとはじめて会ったのは、2021年3月下旬でした。その日は、数人の知人と新今宮駅前に集合して、Aさんから、新今宮駅周辺地域の一部である「釜ヶ崎」のことを学ぶ日でした。半日ほどかけてAさんと釜ヶ崎を歩いて回り、さまざまな話を聞きましたが、Aさんはこのまちのことを「いいまちですよ」とも「大変なまちですよ」とも言わず、これまでの歴史や、今の現状の、ありのままを俯瞰して話してくださいました。

 まち歩きが終わり、家に着いた私は、すぐにパソコンを開き、数日前に新今宮を訪れて書いた、自分のエッセイを見返しました。まちでのエピソード部分とあわせて、前職時代の就労支援を通して感じたことや、変容していくまちと貧困問題について綴っている18000字の生原稿。そこから、8000字ほど削除しました。それらは、「自分がまだまだ語れる部分ではないな」と思った箇所でした。

 炎上後のある日、知人からメッセージが届きました。「Aさんがあなたのことを心配している。これがAさんの携帯番号だから、いつでもかけて、とのことです」。そこで、まずはAさんに会いに行きました。お会いした瞬間、「このたびはご迷惑をおかけして、申し訳ございませんでした」と頭を下げ、そこからしばらく、何も言えなかったのを覚えています。

 Aさんの隣には、Aさんのパートナーの方が座っていて、一緒に話を聞いてくださいました。パートナーの方は「なぜ謝るの? そんなことしなくていいわ」と、そのまま少し雑談をしてくださり。私はそれを聞きながら、お茶を何口かいただいて。そして、やっと言葉が出てきました。
「何が問題だったのか、反省すべきところはどこなのか、ずっと考えています。ただ、まちの人の声を聞けていないので、今日はAさん達が、今回の出来事について感じたこと、エッセイについて問題だと思ったことを聞かせていただきたくて、来ました」

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ー何が問題だったのか、反省すべきところはどこなのか、自分だけで考えず、まちの人達が感じていることも聞きたいと思っています。今回の出来事について、Aさんが思っていることを聞かせていただきたいです。


 僕は、釜ヶ崎で、ホームレス支援ではなくて、外国からの移住者の方々の支援をしていたときがあってね。そしたら、「どうしてこの人は、このまちに来てホームレス支援をしないんだ」っていう記事が出た。でも、公開される前に、編集部の人が問い合わせてきてくれて。「こんな原稿がありますが、どうですか、大丈夫ですか?」って。僕以外にも、もうひとりの人の名前が出てたんだけど、その人は「消してくれ」って言ったみたい。でも僕は「いいですよ」って言った。だから、公開された。自分に対する批判の文章が出たわけだけど、実際の生活や現場には、何も起こらなかった。

 あとは、過去にイベントに出たことがあって。そのときに出会った人が、男性はこう、女性はこうっていう、あまりに偏った見解をしていて、頭に来ちゃって、強めに言い返してしまったことがあってね。そしたら激怒させてしまって。ネット上でいろんな誹謗中傷を書かれてしまった。けれど、反論しなかった。友人達が心配をしてくれて、「言い返した方がいいんじゃないか?」「このままだったら、周りはあなたのことを悪者だと思ってしまう」と連絡をくれたけれど、僕は「いやいや、いいんです」って。
 僕のスタンスだけど、僕は、聞かれたことには答えるけど、意見に反論はしない。反論にも、反論しない。

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ーAさんは、エッセイが炎上した後に、記事を読んでくださったとお聞きしました。感じた問題点は、どんなところですか。

 今回のことは、ニュースで知りました。で、文章探して、読みました。……正直言うと、「なんでこれが、炎上するの?」って思った。借りを、借りた人に返すんじゃなくて、次の人に返すというところ。あれがすごく印象的でしたね。「労働者に借りを返すということか」って、批判している投稿があったけど、僕は「面白い」と思った。「いいな」って思ったんです。借りたものは、本人に返す必要はない。実際にこのまちには、そういう文化があるから。釜ヶ崎には。そういう風にして、成り立ってる。この感じが、分かる人は少ないと思うんだけども。

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ー今回、インターネットを通して、経験内容や文章表現についての意見、制作する上での体制や、PR表記に対する意見など、いろいろな軸での意見をいただきました。そのあたりをひとつずつ振り返る文章を書こうと思っているのですが、長年このまちで活動されているAさんとして、何か、気をつけるべきことはありますか。

 ……うーん。僕は、あんまり書かない方が良いと思うけどね。また炎上するから。あなたが何を言おうが、誤解する人は誤解するし、婉曲する人は婉曲する。あと、今回のことを振り返ったり、分析する文章を書くことには賛成しないけれど、このまちについて新しいことを書くとか、あのエッセイの続きを書くなら賛成。振り返りや分析は理性。書くなら、理性で返すよりは、物語で返すほうが賛成かな。

 まあ、どっちにしても、時間を置いたほうが良い。しばらくは。今すぐ書いてしまうと、「またネタにしている」って思われてしまうんじゃないかな。何かにツッコミを入れようとしている人達は、みんな待ち構えているから。嫌なところがひとつでもあると、それだけでワーっと感情が上がってしまう。振り返りや分析を書くことは、第三者がすることは反対しないけれど、当事者であるあなたがするのは、あまり賛成できないかな。

 ただ、そもそも誤解は生まれるもの。誤解しない人なんて、いない。「誰ひとりとして誤解を生みたくない、悲しませたくない、困らせたくない」と思うなら、そもそも、書かないほうが良いと思うけどね。それを考えたら、あなたの作品はつまらなくなる。新しい、いい作品をつくっていくには、「いい人」になりすぎないほうがいい。特に、このまちは。「いい人」になりたいんだったら、あなたはもうこのまちに関わらないほうがいい。いろいろ言われるのが嫌だったら、書かない。このまちに、誰がどう関わろうが、どう書こうが、反論や文句を言う人は必ず存在するからね。

 でも、住んでいる身としては、こんなにも面白いまちはない。でも、反論されても、言い訳はしない。もうね、私なんかほんと、開き直ってるから(笑)

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 このまちの人達だって、大したもんだよ。元々、特区構想が始まったときから、このまちのこととか、施策のことは、ボロクソに言われてるからね。打たれ慣れてる。

 でも、一番難しいのは、「白か黒かしかない人達」だな、と思ってる。白か黒かの人は、間がないんです。だから、難しい。この世界は、限りなくグレー。二者択一的な発想は、したくないと思ってる。野宿者もいろいろだからね。逆に、灰色がなければ、このまちは、ここはとんでもないことになる。

 これもまた、昔に呼ばれたイベントでの話なんだけど。「○」という意見のグループと、「□」という意見のグループがいて。そのグループ同士がすごく戦ってたんですけど。「○」のグループのとある人が、「僕、○が大好きなんです。○が大好きな僕を殺さないで下さい」と言ったんです。もちろん、「殺さないで」というのは表現のひとつだけど、みんな唖然として。どっちが正しいかでやってるグループ同士だったから、びっくりしていて。「意見が違う人同士、殺し合いをしないでいきましょう」って。

 白か黒かは、グレーを許さない。敵か味方か。それは、恐ろしいことだなと思っています。

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 「もう書かない」

 その日、私はそう思いました。はじめて体験した炎上。インターネットでは、日々炎上が起きているけれど、自分自身がそれを体験する日が来るとは、思っていませんでした。
 この炎上を体験したことで、自分の心身にいろんなことが起きました。今からそれを記そうと思います。
 この経験を記すことと、私がエッセイに対して反省すべき点とは、直接関係のないものです。もちろん、同情を誘う意図も全くもって、ありません。ただ、これを記すことは、どう書いても、そのように見えてしまうだろうと思います。だから、最後まで書こうか迷ったところです。
 しかし、この経験が、釜ヶ崎というまちに向き合う、大きなきっかけであり、このあとに続くたくさんの方々からのお話にも繋がるものになるため、やはり、書いていこうと思います。

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 まず、朝起きてTwitterを開きます。そして、通知画面で数え切れないほどのリプライやRT等が来ていることを知ります。通知のマークをタップして、一覧が表示されたとき、スクロールせずに見える最初の画面から、日常生活ではなかなか言われることのない、強い言葉が目に飛び込んできます。ゆっくりスクロールすると同時に、心臓が異様にバクバクして、血の気が引いていきます。そこから何分かは、取り憑かれたようにそれらのリプライを読んでしまい、スクロールする指以外の、自分の体がカチコチになっていきます。スクロールしてもどんどん通知が増えていくので、追いつかなくなり。そのうち「ちょっと今は、これ以上見ると、自分の身体が危ない」と感じて、一度Twitterを閉じました。

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 そのあと、日常生活でのいろんな出来事、たとえばごはんを食べたり、誰かと話したり、お風呂に入ったり、何かを選んだり。今までできていたことが、できなくなりました。

 何かの電話予約で、「お名前フルネームでお願いいたします」を聞かれるとき。そんな訳ないのに、「え、島田彩って、あの?」となって、その電話口の方が、あの記事に対してものすごく怒っている人だったらどうしよう、となったり。「絶対そんな訳がない」と言い聞かせても、やっぱり怖いと思ってしまったり。

 車の走行中にクラクションの音が異様に怖くなり、駐車場まではなんとかたどり着いたけれど、そこからは意識がなくて。次に目が覚めたのは、なかなか帰ってこない私を心配して見に来た家族に起こされたとき。暑い日でもないのに汗でぐっしょりしていて、脱水症状みたいになっていたらしいです。

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 「脱水症状になっている」という体の状態に対することだけなら、まだ対処がしやすいけれど、それを引き起こした原因である精神の状態を回復させるには、多くの時間がかかりました。

 Twitterに反応できないでいると、「どうして何も発信しないのか」「リプライをずっと無視して、不誠実だ」そんな声も届きます。ただ、自分自身にも反省すべきところがあると認めつつも、実際のところ、いただいたご意見にお返事をできるような心境と体調ではありませんでした。膨大な数のリプライやDMが届く中で、あれだけの非難や敵意を向けられる経験がはじめてで。言葉をちゃんと読み取って、意見を受け取りたくても、まともに考えられなくなっていました。その状態で不用意に答えることも怖く、もっと批判されたらどうしよう、と考えてしまって、反応ができませんでした。

 それが続くと、「何を信じたらいいか分からない」という状態になりました。自分の身近にいる、大好きな人達ですら信じられなくなります。一緒に住んでいる人達が、お水やお茶を持ってきてくれるそのことすら、「こんな自分に申し訳ない」「また迷惑をかけた」という気持ちになり、涙が出ていました。その状態にもまた「怖い」と感じたりします。今振り返って考えると、正常じゃなかったなと思います。

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 自分の表現した言葉がきっかけで、たくさんの批判をいただき、炎上が起きている中で、どのように向き合えばいいものなのか判断ができなくなっていったのですが、最終的には「もう書きたくない」となり、そして「もう生きたくない」とまで考えてしまうこともありました。

 時間が経ち、落ち着いた今なら、ある程度は俯瞰して見ることができるのですが、炎上直後は暴力的な言葉も多く、インターネットに対して、他人に対して、萎縮してしまいました。批判的なご意見をくださる方に向き合い、真意を受け取るためには、結果的にたくさんの時間が必要となりました。

 そういう状態から、さらに次のアクションができるようになった決定的なきっかけが、Aさん達をはじめとする釜ヶ崎の人達との出会いでした。

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 50年以上活動しているAさん達には、未だに、批判や差別的な意見が届くことがあるそうです。それでも覚悟を決めて、活動を続けています。

 「白か黒かは、グレーを許さない。敵か味方か。それは、恐ろしいことだなと思っています。」

 Aさんのこの言葉が、3ヶ月経った今でも、強く残っていて。いつでも、どこでも、この言葉が浮かんできます。私の書きたいことに、もし色があるとしたら「グレー」だろう、と思っています。ただ、私が今回の書いたエッセイは、きっと「グレーのつもり」になっているだけで、その文章の中には、まだまだ「白」があったり「黒」があったり。それらの齟齬も、炎上を引き起こした理由のひとつとしてあるかもしれない、と考えています。

 これまでのエッセイやインタビューでは、自分の文章について「日常の中の非日常がテーマです」と言ってきたけれど、やっぱり今でも、そういった「グレー」の話を表現して伝え続けたい、と感じています。白か黒かではなくて、その間を行ったり来たりして、グレーでつなぐ。その力を磨きながら、これからも表現を続けていこう、と思います。

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「僕は、書くのを辞めました」
──就業や福祉分野において野宿生活者支援をおこなう、70代男性

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 「まちのことを聞いて回ってるの? あの人のところは行った? まだだったら会ったほうがいい」そう言われてお会いしたのが、Bさんでした。50年以上このまちで暮らしながら声を上げ続け、野宿生活者や生活困窮者の雇用を生み出す国の施策を立ち上げたり、一時的な宿泊場所を提供する施設の立ち上げに携わってきた人でした。

 そんなBさんが釜ヶ崎に来たのは1970年代。「70年代 釜ヶ崎」で調べるとすぐに出てきますが、この頃は暴動が起きていた時期です。今回、お話をおうかがいした方の何人かからも、「西成区に対して今も語られるネガティブなイメージには、この頃の出来事が根深く残っているところがある」という話が出ました。Bさんも、釜ヶ崎のいろいろな歴史を文字通り、目の前で体験してきた人。紙切れ一枚残せなかった時代を越えて、Bさんはインタビューに応じてくださいました。

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 僕は、書くのを辞めました。

 理由は、まあ、まあ……まずはしんどいということやね。あとは、元々物書きではないし、書いて何かを表現するというか、そういう意識を、文章にまとめようという活動よりも、具体的につくり出していく、その状況を現場でつくっていくほうを選んだというか。たとえば、建物の話だったらね、建物の話を書くよりも、ビルを実際につくる、そういうほうが、僕にとってはずっと楽しかったし、つくったものが揺るがないんだよね。

 言葉っていうのはね、やっぱり風に揺られてしまう。ふわふわ浮いてるようなものだから。それでも文章で勝負してる人は、いっぱいいはるし、素晴らしいなあと思う。書くって、ものすごい労力もいることやしね。僕の場合は、自分の状況が、そういったことを許してくれんかったってのもあったけどね。毎日たくさんのいろんな人が、助けを求めに来たり、何かを伝えに、僕達のところに来る。だから、文章で何かを伝えていくというのは、他の人に任そうと思ってね。

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ー今回のことを振り返る文章を書こうと考えています。「やめておいたほうがいいんじゃないかな」という意見もあるのですが、Bさんはどんな風に考えるか、聞かせていただきたいです。

 なんでも、いざというときに一緒に動いてくれる仲間を、どうつくっていくかやなと思う。その方法が文章で、ものを書いて「この指とまれ」でな、それもひとつのやり方やと思う。
 僕の場合は、文章だけやったら動かへんのよな。それだけでは人間、なかなか動かない。日常的に接する上で、何かを共有して、血が通って、一緒に汗も流す上で、やっとかたちになっていく。僕の場合は、そういうかたちでしか、仲間をつくれなかったから。

 あと、分かるように伝えるには、噛み砕くことが必要で。どれくらい分かりやすく、その人達の言葉として、理解してもらうか。という、通訳的なことをやってた時期もあったけど、やっぱりかなりしんどかったよね。あるいは、喋らなくても通じることもあるしな。結局、僕のような人間は、体を張ってやるしかなかった。

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 でも、文章化してインターネットに公開すると、世界中を駆け巡っていくことができる。それが、ネット上にずっと残っていくわけだから。我々の現場は、その場で言ったことも、その場でパッと消えちゃうこともある。だから、その場その場の積み重ねをどう共有してくか。その延長線上で、何人か動いてくれる人達が生まれて。人ひとりができることは限られてるからね。ケンカすることもあるけどね、そういったのをどうつくっていくか。

 だから、ものを書いて、その内容を共有することも必要。けれど、それだけでは人は動かない。それに加えて、文章に書いたことと、同じ生き様を……その言葉を、血肉化していく作業も必要だしね。汗をかくことと、言葉で伝えたいこととが、重なるのがいいやろうね。
 ただ、両方をいっぺんにやってたら体がもたないからね。僕の場合は、どつかれるのは苦にならんかったから、体を張るほうをしたわけやけど。習慣づけてないと、にわかでできるもんでもないからね。

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ーBさんは50年以上活動されてきて、野宿生活者の方と過ごした時間もとても多いと思うのですが、エッセイの中での表現について、感じたことがあれば聞かせてください。

 ああいう状況って、そこに至った人じゃないと分からないわけさ。でも、なまじ、綺麗に美しく書いちゃうとね、それに腹が立つ人、許しがたく感じる人もおるだろうな、と思った。感情の領域やから、しゃあないな。どこで折り合いつけるか。

 寄せられた意見の中で、「野宿させてるのが許せない」というのは、どうかなと思う。野宿という生活の仕方を選んでいる人もいる。あいりん労働福祉センターの周辺で寝てる人達の中で、(支援があることを伝えたとしても、)「今、飯食えたらええ」「ここでおれたらええ」という人もおる。それを、本人をむりやり畳の上に上げさせるなんてことはできないわけで。けれど、「野宿者おるから商売できないねん」って言う人もいて。商店の気持ちも分かる。商店の前で飲んで酒盛りして、小便して、ゴミもそのままで……ってなったら、確かにたまらんわな。

 「野宿生活者を排除するな」という意見。これについて私達は、大雑把に言うと、「野宿しなくてもいいまちを」ってやっていて、「対策なき排除はだめ」と掲げている。野宿されることで困ってる人もおるけれど、強権的に排除するのは、見るほうも嫌だしね。

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ー「対策なき排除はだめ」……こちらについて、もう少し詳しく聞かせていただきたいです。


 昔の釜ヶ崎は、1962年まで、行政は何もできてなかった。というか、そこまで手を回せなかったんだよね。まずは梅田とかなんばとか、当時でいう「浮浪者対策」というような中心街の整備があったから。でも、1961年の暴動がきっかけで、なんとかせなあかんとなって、1962年に、生活相談や医療福祉の相談窓口、保健所、小中学校が入った「大阪市立愛隣会館」ができた。それから、悪しき労働環境をどう変えていくかってことで、「あいりん労働福祉センター」もできた。それまでは、日雇い求人は「闇求人」といわれるような路上手配だったからね、これを健全化しよう、と。

 日雇い自体についてもいろんな見方があった。戦前からの歴史では、「浮浪者=犯罪人」というイメージがあって。だから、「釜ヶ崎の労働者=犯罪人」と見られていて、行政は世間に対して、1990年代までは「近寄らないでください、大変なところですから」という政策をとっていた。

 今、そのイメージがあってか、未だに、ここに若い人達が来たがらない。昔は「ここ来たらなんとか仕事にありつける」ってことで、若い人達もよく来ていたんだけど。こっちには1000円代で泊まれるところがある。体が休まるし、日雇いの仕事も行きやすいし。それでも、今でも「嫌だ」と言う人が多い。今、釜ヶ崎に対する表現を変えようとしてるけど、社会意識はなかなか変わんないだろうなと思う。でもなんとか変えていかなあかんな、と思う。

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 根底には、失業の問題がある。産業構造が転換していく中で、どんなに景気が回復したとしても、雇用は回復しないだろうと見込まれた。だから、「新しいセーフティーネットをどうつくるか」。そのためには、野宿の問題を社会化して、顕在化される諸課題を政策的に押し上げて、新しい仕組みをつくっていく。これが、僕らの活動です。

 生きるために働く……生きるためにというのは、ただ単純にお金を稼ぐだけじゃなくて、いろんなひとと関わりを持って、お互いに働き合うこと。この、本来の「働く」を取り戻していく、僕はそういう活動をしていきたいんです。

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ー「働き合う」ということを考えたときに、反対意見との向き合い方で、気をつけることはありますか。

 僕はこのまちに、50年近く関わり、暮らしてきました。その中で思うのは、ここは元々屈折したまちだということ。そういうまちやから、今回のことは、まあ、仕方ないな。いろんな批判があったけど、その人達がゆうてることも考えていかなあかんし。「それはおかしいな」という部分は、おかしいなと思ったらええし。嫌だなあという状況に置かれているということは、自分も相手も一緒だからね。その人のやり方、生き様がある。

 みんな貧しい気持ちがあるから、奪い合いになる。みんながご飯を食べられて、豊かに働き合い、生きられる、そういったことを、どう社会の仕組みにしていくか。
 だからあなたも、今回のことは社会的に捉えて、どうしたらいいのかを問いかけて。「自分はこう思うけど、みなさんはどうでしょう」という感じでね。そこで、本質的な議論を深めて、どう具体化していくか。そうやってこれからの社会をつくっていく。どう問題を喚起していくか。揚げ足取ってるだけじゃあ変わらない。悪くなることがあっても、良くならない。でも、揚げ足とってしまう本人だって、そう歪んでしまう背景がある。世の中みんなしんどい状態。言う人も、最後のほう、辛くなってくると思うけどな。

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 あと、やっぱいろんな人に話を聞くことはいいよね。いろいろ深めていけば、面白い。で、そっからどうしていくか。

 だからあんまり、非生産的な批判に囚われなくてもいい。生産的な批判については、「そうだな、ここらへん力つけていかなあかんな」と考えたら良い。それ以外は、あんまり気にせんと、「これからどうしていったら良いか」に集中してね。人の顔色をうかがってやってたら、眠る時間がなくなっちゃうからね。慌てなくていい。慌てて、すぐにできるもんでもないから。
 「一緒に手を取りあってやっていこうか」という人をつくるために、頑張ってほしい。現状をよく見てね、「こういう意見を聞いた」とか。「これはいいんじゃないかと思った」とか。そういうことも、社会に発信していったらいいかな、と。

 自分が体験して、苦労して、書く。誠心誠意って言葉があるけれど、その誠意に、事実に、真摯に向き合って。そしたら、拡がって行くと思う。良いものを書いていけば、拡がる。あとは、自分の気に入る書き方してるかどうかも大切やしね。ものを書くっていうのは、正直にならざるをえない。書くって、自分を切り刻んでいくことだからね。怖さもあるよね。

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 Bさんが釜ヶ崎に来た時の時代について、ある人からこんな話を聞きました。

「あの頃は、何かを書くなんてこと、できなかった。人によってはメモだって、紙切れ一枚だって残せなかった」

 暴動が起きていた時代。まちの中で、日頃の生活が監視されることもあった時代。文章を書いて、言葉を使って自分の思いを表現し、伝えることすら困難だった、という時代。つまり、何かを書くとそれが証拠になってしまうから。

 どこまでも自分の知らない世界の話だから、憶測でものを言うのは良くないし、出来事に対して肯定しているわけでも否定をしているわけでもないけれど、当時の人々はやりきれない思いに対して、集団で体を張って、声を上げるしかなかったのかな、と思いました。そして、そんな時代を見てきたBさんだからこそ、「批判をする(声を上げる)」と「そのための行動をする」がセットになっていなくては、何も良くならない、変わらないということを、強く伝えてくださったのかな、と想像しました。

 そのことに気づいてから、Bさんのお話をもう1回読み返すと、「僕は書くのを辞めました」という言葉が、「具体的につくり出していく、その状況を現場でつくっていくほうを選んだ」という選択の意味が、自分の中に、より深く落とし込まれていきました。

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 批判に関する考え方について、Bさんのこんな言葉もあります。

「嫌だなあという状況に置かれているということは、自分も相手も一緒だからね。その人のやり方、生き様がある」「揚げ足とってしまう本人だって、そう歪んでしまう背景がある。世の中みんなしんどい状態」

 Bさんのような就業支援や福祉の領域で働く人達は、何か批判的な言動を向けられたとき、その内容を読み取る試みはもちろん、「この人がこれを言う背景には、一体何があるんだろう」という視点を持つ人が多いな、と感じています。自分がかつて働いてきた就業支援の現場でも同じように、その人からの言動そのものにとらわれ過ぎず、その人のバックグラウンドに向き合う文化がありました。

 その人自身がこれまで生きる上で体験してきたこと、たとえば家庭、学校、職場での出来事だったり、そこから生まれた価値観や倫理観だったり。もしくは、自分ではなくても、身近な人が当事者だったり。それらは批判の背景と、必ず紐付いていると思っています。その人個人だけに何かがあるのではなくて、そのまわりには必ず、そうなった理由がある。社会課題がある。それらのバックグラウンドに思いを馳せるところが、Bさんのような領域で仕事をする人達に共通する視点だな、と思っています。

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 言葉がどれだけ強くても、その批判の裏に、どんな真意があるのかに向き合うこと。そのために、その人の大切にしているものや、バックグラウンドを想像すること。これらを、今回の出来事に当てはめて考えています。
 たとえば、「はじめに」でも少し触れたのですが、自分のエッセイに対して、好意的な意見と批判的な意見の両方あったのは何故なのか、という部分について。

 それは、読み手がこれまでどんな人生を歩み、そのときどんなことが起きて、どんな考え方の軸を持ったか。そしてどの分野の、どの範囲の目線で、何を求めて読んでいるのか。これらがすべて異なっているからだと思っています。どんな意見も、正解や不正解に分けられるものではないもので。

 そうした、読み手の文脈に違いがあり、意見が分かれるようなものを、私はどうして書いたのか。何故、グレーな世界を表現したいのか。それこそ、自分のバックグラウンドに繋がるものなのだろうな、と思っています。
 そして、そのグレーなものを書くときに、今回のようなことを二度と起こさないためには、どんな表現でおこなうべきなのか。どんな発信の仕方をするべきなのか。今回、お話を聞いて学んだこともたくさんあり、この文章で少しは実践できているといいけれど、きっとまだまだ足りていません。これからも、Bさんをはじめとした相手のバックグラウンドに目を向け続ける釜ヶ崎の人達と、このまちで暮らす中で、学んでいきたいです。

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3.
「ここに来たら、絶対になんとかなる。そういう方向で、俺達はやってるわけだ」
──日雇い労働者のサポートをおこなう団体にて、臨時夜間緊急避難所を運営する、60代男性

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 どちらかというと肯定的な意見が続く中で、「批判的な意見を聞きたい」と思いました。そこで、話を聞かせていただいたのが、Cさんです。

 Cさんは、40年以上労働に関する運動をおこない、現在は「臨時夜間緊急避難所」の運営を管理する60代男性。この臨時夜間緊急避難所は、一度に約500人分の寝場所を提供することができます。1日単位で使用することができて、シャワールームや洗濯機、談話室も無料で使用でき、生活保護や給付金の申請などのサポートも受けることができる場所です。

 Cさんとは、その建物内の事務所で、お話を聞かせていただきました。ピリッとした空気感が流れていて、Cさんは話しながら何度か机を拳で叩き、時折声を大きくすることがありました。でも、過去にしたことに対して怒りが溢れているわけではなく、私、あるいはまちや社会の未来に対する改善に向けた意見を、労働に関する課題感を日々、目の当たりにしている視点で、強く伝えてくださいました。

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ー今回の件について感じた問題点は、どんなところですか。


 ……なんとも言えねえな。あれなんていうんだっけ、「ブログ」?  読んだけどさ。このまちを紹介する意図のあるブログを書くならば、せめて、もうちょっとまちを知ってから書くべきだ。あんたが仕事として、そういう世界に慣れていようが、慣れていまいがね。「なんであんなんになるのかな」と思ったね。意味がよく分からない。
 あれって、一応仕事でやったわけでしょ? 代理店側の意図はわかる。発注された内容に対して、その通りの仕事をしてると思う。注文に対して、間違ったことをしてるわけじゃない。けれど、ただ、このまちで働いている俺からすると「なんだこりゃ?」ってなる。

 「なんで行政の金を使って、こんなことやってんだよ」と。「もうちょっと違うものを書くべきなんじゃないかな」と思う。俺は、「新今宮ワンダーランド」は、現実を美化するためにつくられていると感じた。もちろん、世の中が見落としているような、新今宮の良さみたいなものも表現してるとは思う。ただし、そういうところだけを切り取って強調すると、危険だ、ということ。どんな歴史を刻んできたのか。どういう人達がいるのか。あんたにも「あんたも仕事でやってるんだからちゃんとしろよ」って思う。まあ、これはあなただけの問題ではないし、誰が悪いのか……もうわかんないけどさ。

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 ただ、ここが「人情のまち」ってのはほんとだから。まあそれをこっちから「人情深いです」って強調するのは、なんか気持ち悪いんだけどさ。あれを読んで、「面白いな」と思って来る人は、当然いると思う。
 でも、ここにその人が訪れた時に、あなたと同じような言動をして、同じことが起きるわけではない。通用しないかもしれない。ここにいる人達は、生きづらさがある人。あなたは、いろんな判断ができる人で、あの言動でやっていけても、あなたじゃない女の子が来て、あれと同じことすると……下手するとだいぶ痛い目に合うと思う。

 あなたが知り合った人は、偶然に、それほど危なくない人だったってのがあるけど、危ないやつも多いからね。あなたはきっと、いろんなことを理解した上で対応したんだろうけど、文章だけ読んでここに来る人との差は大きい。文章からは、それはわからないし。だいぶ、つけこまれちゃうと思ったね。

 女の子だけじゃない。男性だって危ない。男女関係ない。「一緒に酒飲もう」ってなって、仲良くなって……それで、たとえば「うち人手足りてないから働かないか」って引っ張り込むとか。で、それが普通の仕事だったらいいけどさ、悪事に繋がってしまうことだって、可能性としてはあるかもしれないわけで。だから、あんな風に、あの部分だけを切り取って、そこだけを見て書くのは、どうなんだろうな、と。

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 あのさ。「女の子ひとりがあのまちを歩いて危ない」ってネットでも書かれてるでしょ? あれについて、どう思った?

ーそういう部分もあるし、そうじゃない部分もあるだろうなと思いました。とにかく自分で確かめないと分からないな、と。それで、足を運んでみたとき、私の場合はそうじゃなかったので、その体験を書きました。でも、それは、このまちに限らず、タイミングにもよるし、道一本それるだけでも違うだろうし……。

 うん。それは100%正しいと思うね。だから、そういう意味では、「なんであんなもん書いたんだよ」とは思わない。別に、そんな話をしたいわけじゃない。「もっと違うようにも見て書いてください」という思いを伝えたい。あんたがこれからも書く上で、「このまちがどういう風な成り立ちでできているのか」「どういう風な人達がいるのか」を見て、もう少しこのまちを理解しておいたほうがいいんじゃないのかなと。
 で、それをきちんと理解するには、このまちに何回も来てもらうしか、ないわけだ。あなたは今、それをしてるんだと思うけど、あのブログの中からは、そういうのは全然見えてこないしね。

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 このまちが、ほんとに犯罪件数が多いのかって聞かれたら、他のまちと比べて、大きく差があるわけではない。西成区がワースト一位というわけでもない。

 このまちに昔からある偏見に侵されていない人達、たとえば、若い学生さんで、外国人労働者の人とか。彼らには彼らのコミュニティがあるから、まちで何か危ないことがあったら、その情報が拡がっていくけれど、そうじゃない。このまちに彼らが住んでるということは、ネットで言われるようなことと実態とは違う、ということ。ネットではいろいろ言われてるけど、「それは違うよ、女の子が一人で歩いてることだって普通だし、普通に生活していく上では危なくないよ」と言いたい。

 人懐っこい人達ももちろんいっぱいいるよ。今回のエッセイみたいに、困ってるところに、声をかけてくれる人とかね。人懐っこい人の中には、やばい人だっているだろうし、「あんまり絡まないようにしてる」という人達も多いし。本人がそれなりに判断しないとだめだね。とにかく、このまちに来て、その目で見てほしい、と思ってる。

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ー今後の私に、「こういうことを期待している」ということがあれば、教えていただきたいです。まちの人達はどう思っているのかきちんと知った上で、アクションをしたいです。

 俺があんたに、これからしてほしいのは、ブログのときみたいにさ、まちの人にああやって触れ合って、話して、「なんでこのまちに来たのか?」「なんでずっと住んでるのか?」「いいところはどんなところ?」「悪いところはどんなところ?」そういう質問を、きちっと聞いて、発信してほしいかな。

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ーCさん自身が、これからのまちをどんな風にしていきたいと考えているかを、聞いてみたいです。

 新今宮ワンダーランドのキャッチコピー、「ここに来たら、だいたいなんとかなる」だっけか。バブル崩壊前までは、この「なんとかなる」っていうのが、「ちゃんと働ける」っていう意味だった。昔は、ここにきたら生活できた。ここで、肉体労働さえ嫌だって言わなければ、それで飯が食えてた。でも崩壊後、みんな食えなくなって、野宿生活をしなくちゃいけなくなって。そして2000年頃、野宿生活者達が声をあげていく中で、特別清掃事業とかシェルターができた。手持ちの金で、月単位じゃなくても日払いで生活できるまちになって。特別清掃事業で月に4〜5万円稼ぎさえすれば、なんとか生きていける仕組みができた。

 だから、このまちを活性化するっていうのにも、いろんな方法があるわけで。俺が思うのは、今もそうなんだけど、かつてこのまちがそうだったように、もっとこの場所が「ここに来たら、だいたいなんとかなる」……「だいたい」じゃない。「ここに来たら、絶対になんとかなる」にしたい。高齢者だけじゃなくて、老若男女いろんな人が、「ここに来たら、絶対なんとかなる」ってこのまちに来てくれて、その人達が働くことができる雇用が世の中にあって、それを紹介する入口が、このまちにあれば、このまちは活性化する。かつては、そうやって集まってきた人達が、商店でものを買ったり、飲食店で飯食ったり酒飲んだりして、お金を落として、活性化してたんだから。

 で、これが成立するには、仕事がきちんとあること。「雇用」があること。そこからスタート。ただね、世の中って、準備して、こうなって、次があって、って、そんなうまくは進んでいかない。やりながらやりながら、やってくしかない。同時にいろんなところ、いろんな分野のところから。

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ー「雇用」というところ、もう少し詳しく聞かせてください。このまちにどんな「雇用」があれば、と考えていらっしゃいますか。

 まず、「若い人」の雇用と、「高齢者」の雇用。歳とった野宿者でも、高齢者用の仕事があれば、働けるわけだ。それから、「女の人」の仕事も紹介できるようになれば、このまちに女性も訪れる。このまちの「男だけのまち」っていう構造が変わる。

ー今、子どもも極端に少ないですもんね。若い人の雇用があれば、若い人の流入も増えそうです。

 このまちはもともと、建設現場とかでも、一所懸命やりさえすれば、助け合えるかたちだったんだよな。だから、例えば、片足がない人でも、スコップ持って、一緒になって働けた。賃金だって一緒だったわけ。そういう風に、いろんな課題や障害を抱えている人でも働けるような、そういう雇用を探せる場所であること。
 あとは……「今はちょっと、働けないんだ。体も心も疲れちゃって、しばらくは生活保護で面倒みてほしい」っていうような人もだし、少し背中を押せば働けるような、そういう人も含めてね。

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 その仕組みをつくることと、行政も実際に、そういう方向で動いてくれれば、このまちに住む人達だって「このまちはなんとかなりそうだな」って思える。新しい資本が入ってくると、その新しい資本目線で言えば、このまちの現状って鬱陶しいままなんだよ。「野宿者、出てってください」という話にしかならないでしょ。

 もちろん、野宿することを肯定してるわけではなくて。失業してるから、野宿生活になってるってことだからね。働ければ、野宿しなくてもすむ。生活保護も必要であればつないで……でも、いろんな人がいるわけだ。「親族紹介されるのはちょっと困る、難しい」だとか「ルールに縛られた生活は向いていない」とかね。

 「ここに来たら、絶対になんとかなる」。断言できるまちにしたい。そういう方向で、俺達はやってるわけだ。ただ、それだけのものが、弾がまだ揃ってないわけだ。

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「もう私、ここに住もうかな」
 まちの人の活動に携わって、現場でできること、したいことが何なのかを見つけていきたいと思ったとき、そう決めました。

 私は、過去10年間、就業支援をおこなっていました。対象者は幅広く、就業に至るまでのステップもさまざまでしたが、野宿生活者に対するサポートではなかったことや、私の担当業務が主に、施策の企画や広報であったことから、今回のエッセイで出会ったような方と触れ合う機会は少ない10年間でした。それでも、支援に携わった人は、生活や住まいに困っている人が圧倒的に多かったし、仕事以外で、自分の身近な人が野宿生活者になることもありました。決して、遠い場所の話ではありませんでした。

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 だからか、Cさんの「雇用」に関する話を聞いているときは、じっとしていられない気持ちでした。机を拳でドン、と叩きながら語るCさんの雰囲気に、それまでちょっと圧倒されていて、椅子に浅く腰掛け、背筋を伸ばして聞いていたけれど、雇用の話になったとき、分かりやすく、椅子を座り直して、言葉通り、前のめりになっている自分がいました。たぶん、テーブルに肘なんかもついてしまっていた気がします。

 自分が文章を書くことを仕事にしてからも、結局すべて、「働くこと、生きること」に返ってきます。そして、私はまだ、このまちをかき回してしまっただけで、まちに対して何にもできてない、と思いました。「何やってんだろう、今回のテーマに対して、私の書く文章が、何になると思ったんだろう。10年間、雇用と就業のことを取り組んでおきながら、あんな文章で、一体何が伝わると思ったんだろう」と思いました。

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 ちなみに、4月7日に書いたエッセイの依頼内容は、まちに対してネガティブなイメージが根強く残っているけれど「必ずしもそうではない」ことを伝えるものになれば、というものでした。これらは、地域へのヒアリングと調査結果にもとづいた課題からの依頼として、お話いただきました。
 数日間、新今宮に滞在し、いろんなエリアでいろんな出来事があったけれど、その中でも、釜ヶ崎での体験を選んだ理由としては、街の人とのふれあいを描きつつも、このまちにある貧困に対する現状と、そのサポート体制をイメージできる、わかりやすい時間だったと考えたからで。文中にある、100円で食べられるラーメンがあること、1000円台で泊まれるホテルがあること、洋服の無料配布があること。

 でも今回、炎上を起こしてしまったことで、インターネットでの様子を通して、若い世代にとって「やっぱりあのまちはややこしそうだな、行きにくいな」となってしまっていたら、元も子もないことで……そういう意味でも、ものすごく悔しい気持ちでした。
 しかし、それ以前に考えなくてはいけない反省点がたくさんあります。意図を全く表現しきれていない自分の力不足さや、そもそもこの考え方にも賛否があると思います。

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 ひとつ前のコラムでBさんが言っていた「言葉を、血肉化していく作業」「汗をかくことと、言葉で伝えたいこととが、重なるのがいいやろうね」とも重なりますが、だからこそ、住んで、まちの人の活動に携わって、現場でできることが何なのかを見つけていきたいと思いました。ネット上での発信も、現場でできることも、両方し続けたい。このあとの記事でもいろいろな人が登場しますが、その人達と出会って、「この人達が好きで、この人達が暮らすまちに私も住みたい。一緒に何かしたい」という、シンプルな感情も湧き上がっていました。

 特に、Cさんが「こういうことを発信してくれたら」と言っていた、目の前にいるまちの人達の「どうしてこのまちにいるのか、暮らし続けているのか」という声を聴くこと、聴き続けて発信することは、すぐにでも取り組めるな、と思いました。ただ、これも信頼関係がないと、成り立たないことだなと強く思っていて。そうなったとき、やはり「住む」という選択肢は、とても自然なものでした。

 その数日後、自分のキーホルダーに鍵が2つ増えました。ひとつは新今宮の家の鍵。もうひとつは、また別のコラムで書きますが、Iさんという方からもらった、このまちで使うための自転車の鍵。この2つの鍵を持ち歩くようになってから、自分の中でのステージが大きく動き始めました。そして、今回の一件について考える上での、大きな覚悟のひとつにもなったのです。

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4.
「このまちに住んでる人がどんな人達なのかは、まちに関わってる人が決めるんですよ」
──新今宮周辺にて建築や文化を遺す活動と不動産業をおこなう、50代男性

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 Dさんは、新今宮駅周辺において、建築や文化を遺す活動と不動産業をおこなう50代の男性。6年前から、このまちで活動をしています。

 これまでの記事では、釜ヶ崎歴が長く、主に福祉の分野で活動する人々のお話をうかがってきましたが、この場所に最近携わりはじめ、なおかつ福祉以外の分野で活動している人にも、今回の件に対する意見をおうかがいできれば、と思い、紹介していただきました。

 この日、Dさんは、参考になりそうな本や資料を並べて、それを見せながら話を進めてくださいました。そして、「それ以外の目線は、他の人がもっともっと深く語るだろうから」ということで、ご自身が専門とされる分野、特に「観光」の目線での見解を聞かせてくださいました。

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 今回の話の中で、僕としては「観光」という言葉が、すごく軽く見られているなあ、と、ものすごく感じたところがある。

 今からの話は、すべて持論なんだけど。日本の「観光」って、これまで、物的欲求を満たすものが多かったかなと思います。あの、ステレオタイプな例だけど、京都や温泉に行って、おいしいもん食べて、いいホテルに泊まって、帰ってくるっていう。癒しを求める旅行だったりね。

 僕も6年前までは、サラリーマンやってて。「なんで今、このまちでこの仕事してるの?」って聞かれるけれど、一言「面白いから」って答えています。面白いってのは、知的好奇心、探究心の意味です。言葉にすると「観光」という言葉かもしれないけど、まちを知ってもらうことはとても大事。歴史や文化をこと知ることによって、このまちというのは、認められていくというか。蔑まれないようなまちになっていくというか。僕は、そう思ってます。これは、僕の信条です。

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 そういう文脈で言うと、このまちは、いろんなことが体験できる場所だと僕は思っているんです。たとえば、記事にも居酒屋さんのシーンを書いてくれてましたけど、B級グルメ。あれも、どうしてできたのかというところ。ルーツを辿っていくと、様々なものがくっついてくるんですよ。このまちには、日雇い労働の歴史があって。汗をかくような職業の人達のために、濃い味で、油っこくて、お酒受けがするようなものが生まれた。近くに安いお肉を仕入れられる場所があって、それを甘辛く炊いて、ホルモンが生まれた。串カツもそうですね。なんか、こういうことをやっぱり、感じてほしいんです。知ってほしい。

 「観光」という言葉を僕は使っているけれど、この「観光」という言葉から想像される意味が、自分の言いたいことに当てはまるのかというと、そうじゃない。言葉がないから、「観光」という言葉を当てはめてるだけで。
 僕の使う「観光」は、その裏側で「文化や歴史を遺す」という意味が大きい。文化は、人間の生活にさまざまな豊かなものを生むじゃないですか。精神的な豊かさも。

 僕も活動する中で、「これは世界に恥じる文化だ、歴史だ。そんなものを遺していいのか」と言われたりします。僕にとって文化は、良いとか悪いとかじゃないですし、もし「悪い」と捉えられる文化や歴史だったとしても、悪いことから学ぶことって多いと思っていて。あの、たとえば、極端な例ですけれども、アウシュビッツ強制収容所も遺してるでしょう。「二度とやっちゃいけねえ」って。人の尊厳を踏みにじることは、絶対にやっちゃいけない。

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ーDさんが最初に言われていた「観光が軽く扱われている」という部分とつなげながら、聞いていました。「観光」が、「消費」という言葉と一緒に使われたニュース記事を読んだことがあったのですが、Dさんが言う「観光」は、消費ではなくて、保存や生産のための「観光」なんですね。これを表現する上で、Dさんは、どんなことに気をつけて、取り組まれているのですか。

 そもそも、表現の受け取り方って、自分の体験から出てくる話で。すごく表面的だったりする状況だからね。非常に浅いんです。知らない分野だったら尚更仕方ないのかもしれない。知ってる分野でワザとやってる人もいるけど。自分の主義、主張を伝えるために、一部分を剥ぎ取って、やってたりする。

 ただ、伝える側としては、やっぱり正確に見せたいものに対しては、どういったもので、何故それがあるのかがわかるように、そのものに含まれる文化、風習を必ず紐付けていく。僕は本つくってるわけでも文章書いてるわけでもないけど、でも自分達がやってく中で、そこは大事にしてます。

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ーエッセイにも、同じことが言えるなと思いました。私が書いたエッセイは、説明がすっかり欠けていた。もちろん、原因はそこだけではないけれど、批判を受けて当然な、大きな要素だったなと思います。

 何人かの方にお話聞いてると思うんですけど、このまちの人達ってどんな感じで、どんな人がどんな状況かって、聞いたりしてます?  あの、このまちに住んでる人がどんな人達なのかは、まちに関わってる人が決めるんですよ。住んでる人とか、仕事してるとか。関わってる人で決まるので。だから、全くまちに関わっていない人達の思い込みで決められるものではないんです。

 (資料を見せながら)これは、釜ヶ崎周辺の、萩之茶屋一丁目から三丁目までの人口ピラミッドなんですけども。こんなまちは、日本に、ほぼない。普通、まちって、男性も女性も両方バランス良くいる。でも、このまちは圧倒的に男性が多く、少子高齢化が恐ろしい状況。子ども達が、ほぼいない。男性にしても、60代70代が多い。一人暮らしされているご老人の集まりが、このまちなんです。これが2015年の国勢調査で、それから6年が経ちます。今からさらに15年後、このままだとこのまちには人がいなくなっていく。それまでに、若い人達を増やさないと、人がいないから、まちがどんどん廃れていってしまう。人が亡くなることはもちろん、文化も途絶えてしまう。

ーなるほど……それで今、行政のみなさんが、社会福祉にもまちづくりにも、力を入れているのですか?

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 ちょっとドライな話になりますけれども、行政というのは、税収を安定的に取らないと、安定的に動けないわけですよね。それによって社会福祉が回していけるので。誰がお金を落とし、誰がこのまちの社会福祉を存続するのか、ということになる。

 昔は、4万人、5万人という日雇い労働者がこのまちにいて。ここで商売してる簡易宿所さん、居酒屋さんとか飲食さんとか、昔は紳士用の洋服屋も多かったんですが、昔はそういうところでたくさんお金が落ちていた。ただ、それは今では消費が落ち込んでいて。ご高齢になるとね、お酒も飲まないしご飯もそんなに多くは食べられないしね。まあ、こういうふうに停滞するわけです。

 たとえば、ニューヨークのようなアメリカの都市だったら、入れ替わり立ち替わり、外の国から入ってくるから活力があるんですが、日本国内の今の状況は、アジアの人達が入ってこないと、経済活動が支えられない。日本人の人口改変がなく、外から来た人向けに文化が変わっていくまちもあるんです。

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ーまちが続いていくには、外からの力も必要な状況だけど、外から来た人向けに価値や文化が変わってしまうことも避けたい。どうしていくのが良いのでしょうか。

 ちょっと話が戻るけど、だから、文化や歴史を遺すことは大事で。それによって、どういうものがここにあったのかが分かる。いろんな分野で、そういうものをたくさんつくっておくことで、遺っていく。いろんなものが遺ることで、もしかしたら、いつか他の文化との融合があるかもしれない。結果、アイデンティティが遺る話になるかもしれないしさ。たぶん、そういうことが必要なんじゃないかなと思う。

 ジェントリフィケーションについて、とある方が「3つの定義がある」と言ってはるんですが……
1つ目に、経済的排除。家賃が上がるとかね。
2つ目に、行政が追い出す、法的なもの施行されたときの排除。
3つ目は、コミュニティが生み出す排除。
 ただ、今、排除されると言われている当事者の人達は、先程、人口ピラミッド見ていただいた通り、15年、20年後には、70代以降の方々の数は減っているはずです。だから、今未来のための動きを進めつつ、今いらっしゃる方々が排除されないように、地元の人達や行政が取り組んでいる。たくさんの方のお話や活動内容を聞いたかと思いますが、排除しようなんて話にならないですよね。このまちは、誰も排除しない方針なんです。

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ー最後に、Dさんの、このまちがどうなってほしいか、どうしていきたいかを、聞かせていただきたいです。

 僕は、簡易宿所の事務局をやってるんで、やっぱ宿の人達に潤ってほしい思いはあります。もっとシンプルに言えば、ここに来て、泊まる人達が増えてほしいなあと思います。コロナもあって、なかなか……コロナが落ち着いても、どこまで復活するかわからないけれど。

 ただ、それはそれで、半歩先の、自分としての思いです。一歩先、三歩先の、このまちにとっての未来を考えると、「ここならではの魅力を発信していかないと、新しい観光をつくっていかないと、このまちの未来はない」んじゃないかな、と思う。それはさっきお話してたように、今我々が気づいていないもの、日本の文化としてまだ受け入れられていないような要素、たとえば、スタディツアーとされるようなものも、どっかで必要になってくるかもしれない。それを求める人が、出てくるような気もするし。

 知らないことを知りたい気持ち、知識欲求と言っていいのかわかりませんが、そのために、「観光」という言葉が持つ意味のアップデートも含めて、必要なんじゃないかなと思った。ここならではのこと、ここでしか知り得ないこと、存分に知ってもらって、その人それぞれの人生の糧にする……っていったら変な言い方かもしれないけれど。でも、先にそこを見ておかないといけない。半歩先を見ることはもちろん、三歩先も見ないと、まちの未来はないな、と思っています。

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ひとつ前の記事、Cさんの発言で、以下のような言葉があります。

「『雇用』があること。そこからスタート。ただね、世の中って、準備して、こうなって、次があって、って、そんなうまくは進んでいかない。やりながらやりながら、やってくしかない。同時にいろんなところ、いろんな分野のところから」

 この発言の「同時にいろんなところ、いろんな分野のところから」に含まれることが一体何なのか、Dさんの話を聞いて、とてもよく理解できました。雇用を整えていくためにかかる時間は膨大で、それだけをやっていると、その間にまちが衰退してしまう。だから同時に、福祉の分野だけでなく、宿泊や飲食などの業界での取り組みを進めたり、文化を遺すための活動をしたり、まちの外からの力も借りて、動かしていく必要があるのだろうなと思う。もちろん、その方法や表現は、慎重に進めるべきだけれども。

 Cさんの次に、Dさんを紹介した理由は、私の中で、そのおふたりの活動が、同じ釜ヶ崎というまちの中で、繋がっているように感じたからです。おふたりには「雇用や福祉」と「観光や文化」という分野の違いがあります。けれど、お話を聞いて、「雇用や福祉」のあるべきかたちに向けた通過地点に、「観光や文化」という分野も存在するのだな、と感じました。

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 5年以上も前の話になりますが、貧困問題のある地域での「雇用」と「観光」について、私にとって、今でもよく思い返す出来事があります。釜ヶ崎のことと同じく、今からする話も部外者からの視点であり、100%正しくは伝えられないと思いますが、そのとき見たことを書きます。

 2016年の5月、場所はイギリス。私はそこで、「Unseen Tours」というプログラムに参加していました。イギリスのまちの様々なスポットとその背景を紹介していくものなのですが、案内役は、それぞれのまちに暮らす、現野宿生活者 または、元野宿生活者。自分自身の体験談を織り交ぜながら、「Unseen(見えざるもの)」という名前の通り、通常のツアーでは絶対に語られないもの、目には見えないものを知り、ホームレス問題の内情を学ぶためのツアープログラムです。ロンドンの野宿生活者支援ネットワーク「The Sock Mob」が立ち上げたもので、ツアー代金のうち6割が、案内役の人の収益になり、案内役の交通費や通信費等の諸経費も団体が支払う、というものでした。

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 私は、いくつかあるまちのコースの中から、「ショーディッチ」というまちを選びました。案内役のHさんは、とってもユーモアのある人でした。

「右手に見えますのが、ロビンソン・クルーソーを書いたダニエル・デフォーの墓です。左手に見えますのが、……ただの木ですね」
「ここの路地を抜けると近道で……(スケーターに乗った少年達が悪口を叫びながら追い抜かしていく)という感じで、まあ、近道ばっかりがいいというわけではないんですけども(笑)」
「この交差点を行き交う人達は、昔は左手に薬、右手に銃……だなんて言われていた時期もあったんですけど。でも今は、左手にワイン、右手にオイスターという感じで」

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 そんなHさんの言葉で、一番残っているのは、以下の言葉。

「私達は、野宿生活者に対する襲撃にとても困っていた。私達がどれだけ警備を増やしてくれと言っても、まちや警察は動かなかった。けれど、このまちに高級なホテルが建って店が栄えたり、環境美化が進んだりして、人が増えた。そしたら、一気に警備も増えた。この流れについてはいろんな意見がある。けれど、それによってこのプログラムが生まれて、私はこの職業に就くことができて、社会復帰をしたうちの一人、という側面もある」

 Unseen Toursは「ソーシャル・ツーリズム」といわれていて、野宿生活者と旅行者の、両者を豊かにすることを目標に掲げています。Unseen Toursが、中で暮らす人達のことも、外から訪れる人も、豊かにしようとしているように、釜ヶ崎のまちの中には、前者側に寄り添う人も、後者側に寄り添う人もいます。それが、私の中では、CさんとDさんのような人達だな、と思っています。

 今回、さまざまな方のお話を聞く中で、こんな意見もありました。「都市は生き物。どんなまちでも、50年前と今とは違う。つまり、まちが変化することは、当たり前のこと。変化は止められない、けれどその中でどうしていこうか、というのがお題だと思う」。

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 知らない世界、遠い世界のことについて、アウトサイドの私がすべてを書けるものではない、と心得ながらも、もう一つ、ショーディッチに行ったときに見た光景を書きます。

 50年ほど続く、地域に愛されるベーグル屋「ベーグルベイク」の前に、野宿生活者のお兄さんがいました。私は、ベーグルベイクの「ソルトミート・ベーグル」がおいしすぎて、滞在中、何度もそのお店に足を運んだのだけど、そのお兄さんとも、日々顔を合わせていました。お兄さんは、ベーグルベイクの店員さんととても仲の良い様子で。友達みたいな感じでした。

 連続で通うこと、3日目の昼。店員さんがお兄さんにベーグルを渡していました。そして、お兄さんがそれを受け取って、食べながら「調子どう?」と聞き、店員さんが「ぼちぼち」と答えていました。「今日、人通り少ないもんなあ」とお兄さん。「そうなんだよねえ」という表情の店員さん。2人の間には、きっと信頼関係があって。ベーグルは、施しでも支援でもなく、日常的なやりとりとしての差し入れで。私にとっては、とても自然な気持ちになる空間でした。

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 実際に、その周辺の人に話を聞いて回ったわけではないから分からないし、限られた滞在時間の中で、私が見た光景でしかないけれど、お店の前にお兄さんがずっといることに対して、他のお店の人もお客さんも、特に気に留める様子はなく。そこに、人気のベーグル屋があるだけ。その前に人がいるだけ。私が見る光景は、どこまでも一部の側面で、たまたま出くわさなかっただけ、見えなかっただけで、「困るなあ」と思っている人だって、いるのかもしれない。

 ベーグルを食べながら通りを歩いているとき、この日のちょうど一年ほど前に、ショーディッチにある、移住者が開いたシリアルカフェに対して暴動が起きたというニュースを思い出していました。暴動への参加者の声はこうでした。「このまちの住民は、フードバンクを頼りに子どもを養っている。一方でショーディッチの新住民は、子ども向けのシリアルを1杯5ポンド(約900円)で売るビジネスを成功させている」

 Hさんも、ベーグル屋さんも、ベーグル屋の前のお兄さんも、シリアルカフェの人も、暴動を起こした人も、そして私も。みんな誰かにとってはポジティブな存在で、誰かにとってはネガティブな存在なんだ、ということを、今も考えています。

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「最近、私は、表現の自由と責任のバランスについてを、ずっと考えています」
──釜ヶ崎地域で「喫茶店のふりをしながらアートNPOを運営」する、50代女性

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 今回、お話を聞かせてくださった方々は、向こうから声をかけてくださった方もいれば、こちらから声をかけた方もいますし、すでにお話を聞いた方から紹介を受けたパターンもあります。その中で、年代については、30〜70代まで幅広くお話を聞けるように心がけましたが、性別には、大きく偏りが出てしまいました。

 Dさんのインタビューにもありましたが、エッセイに綴った場所周辺は、男性の比率が圧倒的に多いエリアで、男女比率が「13:1」。この大きな差も、少しは関係しているのだろうな、と考えています。

 そんなかたちで、男性が圧倒的に多いヒアリングになってしまった中、今回は女性の方からのお話。釜ヶ崎地域で、喫茶店のふりをしながらアートNPOを運営する、50代女性のEさんです。Eさんは、このまちで暮らしながら、まちの人達と共に、主に言葉を使った表現活動を続けています。そこで、「言葉を使った表現活動」という視点で、今回についてのご意見をいただきました。

 なお、今回の炎上では、主に私のTwitterアカウントへ、いろいろな意見が寄せられましたが、まちで活動している方々の元にも、いくつかの声が届いたと、うかがいました。もちろん、まちで活動している方々は、エッセイの制作に関与していない無関係な方々です。しかし、プロジェクトについては、まちの人々との話し合いの中でリリースされたものであるため、その方々の元にも、連絡がいってしまったのだと思います。Eさんの団体も、そのひとつでした。そのため、お会いしたときは「申し訳ない」という思いでいっぱいでした。

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 えっと、何から話しましょうか。聞きたいこと、何でも話してください。

ー(なかなか最初の質問が出てこない)

……ちなみに最近、私は、表現の自由と責任のバランスについてを、ずっと考えています。

ー表現の自由と責任のバランス。聞きたいです。Eさんは日頃表現を続ける中で、どんな葛藤がありますか。

 私はずっと、釜ヶ崎にいて。自分が解釈して表現するものは一体何なのか、自分の表現を伝えることが、その人にとって一体何になるのか、めっちゃ考える。でも、誰かと出会ったことに対して、自分が感じたこと捉えたことは、やっぱ表したいな、とも思う。ただ、それに対して、語彙力が足りなくて、そう簡単にはできなくて。何年もできてない。ずっとできてなくて。私はずっとここにいるけれど、まだ全然できてない。全然表現しきれてない。毎日表現について考える時間を持つ私ですら、表現する上で必要なものが、全然足りてない。
 
 じゃあ諦めてるかっていうと、そんなことなくて。だからここで活動してる。どんだけ時間がかかっても、いつかやってやる、と思ってるんだけど。時間がかかる、というのは、自分の時間だけじゃなくて、他との……なんていうかな。他の軸線との、兼ね合いなんだけど。つまり、「逃げずにここにいるよね、私は」と自分で思うし、「あんたここにいるよね」とも思ってもらった上で、やってくしかないな、と思ってて。毎日。毎日を重ねるしかないなと。それを、細々とずっと続けてる。「焦らへんの?」って言われるけど、全然焦らへんよ、って言ってる。……〆切がある方が頑張れるなとか、まあ、そういうのはあるけれどね(笑)

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ーEさんが、それだけ時間を重ねても表現しきれていないことを、私は短い時間で、やろうとしてしまってたんだなと思いました。

 遠い他の地域のアートフェスティバルに呼ばれたことがあるの。アーティストとしてのお仕事でね。地域の人達と何かをつくって下さい、って言われたの。リサーチもたくさんするけど、短い時間の中で、袖擦り合う縁の中で、どれだけ誠実に、自分の持ってるものと、そちらにあるものを重ね合わせることができるのか、っていうのは、ほんっとに難しかった。
 これが1年、2年、3年とか継続的に通えたら……もっと言えば、住んだりできたらいいけれど、そんな風にはうまくいかなくて。体はひとつやし。予算も限られてる。その中で、どうやって何をしていくか……。
 例えば、年に1回でも行く、っていうのが3年間続けられたら、つまり3回会えたら、まちの人と1年に1回会えることが、お互いの喜びだったり、「元気だったのね」っていう気持ちが通い合ったりして、一緒になんかつくれたりするんだけど。もちろん、そういうことも、これまで何回か体験させてもらって……そういった時間が持てるかどうか、一緒に過ごす時間があるかどうか。それがあるのとないのとでは、全然違うな、というのは分かってきてる。

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ー私は、自分の表現がものすごく浅はかで、その結果、たくさんの方から批判をいただいて、みなさんに迷惑をかけてしまったことを、どうしていくべきかを考えていて。私が書いたエッセイについて、Eさんが思ったことを聞かせていただきたいです。

 ……批判があるのは、当たり前だよね。書いてる時点で。全員にとっての「いい人」にはなれないですよ。私も、全員にとっての「いい人」にはなれません。ね。書く人じゃなくても、全ての人が、そうだと思ってる。私にとって、生きてることがすでに表現だと思ってる。生きてる以上、迷惑かかるし、自分のことを嫌いな人とも出会う。「この人」にとっては気にならないことが、「あの人」にとっては、とっても気になることだったりする。でも、それらを気にし過ぎると、お互い生きられなくなっちゃう。

 過去に読んだ本でね、いわれなき誹謗中傷や差別に対して当事者が声をあげて、サポートする人と共に社会化していく、っていうのがあって。その本を読んで、うーーって、考えてた。当事者だけ、支援者だけじゃないってことが、大事なのね。

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 ネットの人は、「島田さんはこんな出会いをして、こんな体験をして」っていうことが、奇跡だったり、綺麗事のように見えたかもしれない。でも、釜ヶ崎のみんなからすると、「あるある」「こういうこと、よく起きるよな」って思うの。なんやったら、さっき一緒にいたおっちゃん、「(エッセイに登場するのが)自分やったらよかったわ〜!」って言ってたでしょ(笑)
 釜ヶ崎では、このまちの人と交流したときに、びっくりするようなことがよく起きる。でも、外の人達は、そんなこと起こるって思ってないから、多くの人は「奇跡みたいなことに出会った人」と思うか「嘘や、大袈裟や」って思うか。

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ーその、日常と非日常を行き来する体験を表現する上で、私が気をつけるべきことが、ものすごくたくさんあったのだと思います。表現という分野で見たときに、Eさんが問題だと思ったところ、私に足りていなかったところがどこかを、教えていただきたいです。

 最初に私、「表現の自由と責任のバランスについてを、ずっと考えています」って言ったと思うんだけど。自分の弱さとか、足りないところを認めながら、どこらへんで、どう引取るか、ってことだよね。引き取れないものは引き取れないし。
 だから、経験したことや、体験から生まれた気持ちに対して、自分の一番誠実なやり方で言葉を綴って。で、書くことを続けるという気持ちを、このような場でも確認して。また次の文章を書いていく。……これの繰り返し。それ以上でもそれ以下でもない、って思ってる。

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 表現の問題で言うと……例えば、私は、表現するときに、釜ヶ崎では「ホームレス」って言葉は使わないのね。「野宿生活者」って書く。外で話すときに、そちらのほうが伝わりやすそうだと思ったときには、「ホームレス」って言葉を使ってるわ。とにかく、使い分けてて。
 だから、釜ヶ崎という地域に体をあわせて文章書くならば、「ホームレス」って言葉は、ちょっとそぐわないのかも……と思うけれども、でも、そんな、外から来たばかりのあなたに、わかった上で書いてね、と、それを求めるのもどうなのかな、と思う。
 あとは、自分らしい表現はとても大事だと思っているんだけど、でもその中で、少しなんていうか、ふわっと、うーん……女性的なと言えばいいのかな、若い女性的な表現は、若干見受けられたかな?と思っていた。それが鼻につく人がいたのかなって思うけど……でもそれは趣味の範囲かなって。

ーふわっとした女性的な表現というものは、ネット上のご意見でもたくさんいただきました。

 そのね、究極、正直に「これが、私の地点です」ということでしかないと思うの。至らんとこいっぱいあった、でもこれが今の自分で、そこはもう揺るぎないです、ということでしかないと思っていて。作者が、自分の体験を、その一瞬を、確固たるものとしてちゃんと切り取ったかどうか。読者もそれを感じ取りたいと思うし。誤差の範囲はそりゃいろいろあると思うし、もちろん、あの中に書ききれないこともあっただろうと思う。でも、それも含めて。

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 今回の件のややこしさは、行政とか政治とか代理店とか、もうちょっと別枠からの影響のほうが大きいと思っている。あなたのあずかり知らぬところを、あなたが負うことはできないし、負う必要もないと思います。

 ただ、今回の件に対して、多くの人が、なぜそんなに時間を割くのかについては、もうちょっと自覚的になったほうがいいかもしれない。これは、あなたの問題じゃない、と私は思っていて。あなたがこの状況に居続けているよりも、「もっと書いてよ」「もっと一緒に仕事しようよ」と思って、こうして時間をつくってるってことだと思う。少なくとも、私はそう。

ー私は今回、本当に、ものすごくたくさんの方の、たくさんの時間を消耗してしまっているな、と……。

 それぞれ大変な状況がある。大変な中で、何を話し合い、何をしていくのか、それぞれが考えている。仕事や活動をするのか。友達付き合いをするのか。楽しいことをするのか。いろいろ。という中で、えっと……なんていうのかな、その上で、人との出会いとか、関わりがある気がしていて。「そんなに自分のことで、人を巻き込まんでいいやん」という気持ちを思っていて。……これは自分に対しても言ってますが。私もよく誰かに相談しちゃうんですけど、「ほんとこんなこと、この人にとってはどうでもいいよね」って自分も思ってて。

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 釜ヶ崎には、いろんな人がいる。有識者という立ち位置で、何年も関わり、火中の栗を拾うようなことをしている人。いろんなしんどい人達が施設を訪れる中で、どう開いて、どう結んでいこうかということを、現場で毎日、悩んだり頭打ちながらやってる人。みんなが、それぞれの枠を持ってやっている。その働きを大切にしつつ、「じゃあ自分はどんな働きをするかな」っていうところくらいじゃないかなと、私は思っています。

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 今私は、小学校3年生ぶりに、「交換日記」をしています。相手は、今回のお話を聞いて回る中で出会った、釜ヶ崎に住む人です。

 Googleドキュメントを使ったオンライン上のやりとりで、「日付」「天気」「食べたもの」「今日印象的だったセリフ」「備考欄」といった項目に対して、書いています。5月頭からスタートし、早2ヶ月。日記なので、なんでもないことを書く日もあるし、ちょっと深い話になることもある。それぞれの文化や取り組んでいることの違いが、本当によく見えるようなやりとりを続けています。

 ちなみに、「交換日記をやろう」というのは、相手からの提案でした。まちの人達の話を聞きに回る私の様子を見て、釜ヶ崎のことを少しでも知ってもらうひとつになれば、という思いで、提案してくれました。

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 1週間ほど経ったある日、この交換日記が私にとって、「書くこと」のリハビリになっていることに気づきました。私はその頃、自分の書くものにまったく自信が持てなくなっていて。書くことを仕事にしているのに、外の人に向けて「書けない」。そんな中で、この交換日記は、ものすごく重要なルーティンになっていました。

 そのことを相手に伝えたところ、翌日の相手からの日記に「こちらも、とてもいいトレーニングになっています」ということが書いてありました。
「今回の島田さんの炎上をきっかけに、もっと釜ヶ崎からも、まちのことを発信していかなければ、とみんなで話している。これまではずっと現場のことをしてきて、まったく書いてこなかったし、発信もできていなかった。その中で、この交換日記が、書くことのトレーニングになっている。その日の出来事を振り返ったり、疑問に思ったことに向き合って言語化することが、すっかり習慣になった」

 つまり、私は「書けなくなったこと」、釜ヶ崎の人は「書いてこなかったこと」を課題に感じていて、交換日記は、それらを良い方向に変えていく機会になっていたのです。交換日記がなかったら、立ち直るまでに、もっと時間がかかっただろうな、と思っています。

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 このことを共有してからは、交換日記に書かれる内容も、より一層充実してきて。今見返すと、5月の日記は、たった3行しか書けていないのに対して、今の日記は、まちについて話し合ったり、悩んでいることを書いたり、たまに冗談もあったり。それを読みながら、私は何を書いていきたいのか、現場でどんなことができるのか、最近はずっと、それを考えています。ついこの間まで、言葉によって体が動かない状態だったのに、今は、言葉によってじっとしていられない自分がいます。長い時間がかかりましたが、釜ヶ崎との「交換日記」を通じて、私はまた、書くこと、動き出すことに、向き合うことができました。

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 Eさんが今回、言葉を選びながら話してくださったところにもありますが、人との出会いの理想的なかたちは「生み出すこと」の過程にあり、その中で信頼関係の築きがあることで。けれど、5月頭の私は、それらが逆になっていたなと思い返します。Eさんと話をした日、あまりにメンタルがグズグズすぎて、1時間半の対話のうち、ほとんどの時間、涙を流してしまいました。対話にすらなっていない時間もありました。このときの自分は、「消耗」の中でまちの人と出会い、さらにまた相手の時間を「消耗」していたと思うし、信頼関係を築くためのスタートラインにも立てていなかったな、と気づきました。

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「あなたがこの状況に居続けているよりも、『もっと書いてよ』『もっと一緒に仕事しようよ』と思って、こうして時間をつくってるってことだと思う。少なくとも、私はそう。」

 Eさんの「もっと書いてよ」「もっと一緒に仕事しようよ」の意味を、私はきちんと理解できているんだろうか、と考えています。この文章は、今の状況から前へ進むためものでもあるけれど、この文章も「消耗」になってしまってはないか、と問いかけています。ものすごくたくさんの方の、たくさんの時間をいただき、みなさんにご迷惑をかけながら、この文章がある。このことを、しっかり胸に留めておかなければならないな、と。

 もし、次にみなさんの時間をいただくなら、何かを一緒に生み出すためでありたいし、釜ヶ崎のまちで暮らす中で、その機会をつくっていけたら、と思っています。そのためにまずは、まちの人の声を引き続き聞いて、誘ってもらったことや、受け入れてもらったことに参加して、信頼関係をちょっとずつ築く。交換日記も、そのひとつかもしれない。
 そうしてまちで過ごす中で、伝えたい気持ちが溢れたときには文章に綴って。そして、綴ったことをまた、現場に戻していく。その繰り返しの中で、今回の炎上を通して、私がこれから表現していく全てのものに対して改善すべきことや、まちの中でできる具体的なアクションが見つかっていくといいな、と思っています。

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6.
「僕らはひょっとしたら『普通』という言葉に対して、感度が高いんかもしれへん」
──廃品回収や夜回り等を通して、野宿生活者支援をおこなう、50代男性

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 釜ヶ崎に来て、20年。廃品回収や夜回り等を通して、野宿生活者支援をおこなっている、Fさんという方がいます。

 「夜回り」というのは、一般的に使われるときは「夜、安心安全のために所定の地域や建物内を見回ること」を指しますが、釜ヶ崎で「夜回り」というと、もちろんその意味も兼ねながら、野宿生活をしている方々に対して、生活相談や医療などのサポートに関する情報を、会話やチラシなどで伝える活動のこと。そして、その中で、必要とした方に対しては、おむすびやマスクを渡したり、人によっては「調子はどう?」といったような会話をしています。

 そんなFさんは、木造2階建ての家に、30代~80代の男性6人と暮らしています。その中には、元野宿生活者であった人や、トラブルなどで家族のもとにいられなくなった方々もいます。Fさんとは、その家の1階にある事務所で、お話をうかがいました。髪を後ろで一つ括りにして、帽子を被って、雪駄を履いていて。(本文中に、靴に関する話が出てくるので、先に書いておきます)事務所にはカメが4匹泳いでいて、そのカメ達が生んだ9つの卵を大切に見せてくださいました。その様子からも、お話の内容や言葉選びからも、生きとし生けるものの明日の命のことを考える方だということがずっと伝わってきて、「この人がいるまちで暮らしたいな」と、思うような方でした。

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 グレーゾーンを、それをなんか、認めあえたらすごく楽なのに、ややこしくなる。

 僕らは、ひょっとしたら、「普通」という言葉に対して、感度が高いんかもしれへん。普通なんて、ないもん。釜ヶ崎の外におったら、「これって普通だよね」ってのが「普通」になっていくけど、この界隈はそういうのがないから。「普通」って、どこに寄りすがったらいいのか。すがる先がない。俺のこと普通ちゃうって言う人おるけど、……この靴やって、あんな、これ普通ちゃうってみんな言うけど、昔はみんなこれが普通やってんで。

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ーFさんは、今回の件について、どんな風に見られましたか。

 Twitter、見たよ。謝罪したいという気持ち、そういう気持ちもわかる。でも、俺自身は、「なんで謝ったんや」って思ってるねん。悪いこと、何もしてへん。謝るんやったら、島田さんひとりじゃなくて、みんなで言おう。一緒に言うんやったらええよ。言うんやったらみんなで言おう。

 エッセイも読んだけど、あなたは外から釜ヶ崎に来てね、その外からの目線やんか。中の人の目線とも、支援団体の目線ともまた違うし。叩いてる人達は支援団体寄りの視点を利用して、叩いてると思うねんやんか。行政施策のひとつとしてやったことも、批判の要素があるんやと思うけど。あれを叩いてる人の中にも、俺らのまちの立ち飲み屋に入ったことも、ホームレスに声かけたこともない人も、おるはずやからね。

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 あのエッセイ、僕らからしたら、「中の人じゃなくて外から来た人の、外から見た風景やな」って思うねんけど、さらに外の人が、その「外から見た人の目線」を、「中の人」の目線を借りて「失礼だ」と言ったり「消費してる」と言っているのが、すごく不思議で。僕らと一緒に夜回りした人というわけでもないし……島田さんにゆうてる人達がさ、野宿者襲撃なくそうと活動してる人達なんやったら、まだ理解できるねんけども……この炎上の流れと文脈に乗っかる人達がおる。これまで何をしてきたとかを関係なしに、そういうときに乗っかってくる人がいる。けしからんけしからんだけ言うてる人に、「じゃああなたは、まち歩いてて、その目の前にいた野宿者に対して、ご飯ごちそうしたことがあるんか?」と思う。

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ー今回、私がエッセイに綴った体験の中で出会った、野宿生活をしているお兄さんがいるんですけども、そのお兄さんとの接し方についても、いろんな意見をいただきました。Fさんが夜回りをする上で、心がけられていることはありますか。

 おむすびって、受け取る人もいはるし、受け取らへん人もいはるやんか。受け取らへん人の理由は、もう晩ごはん済んでておなかいっぱいやからいらん場合とか、今から寝るからいらんっていう場合もあるんやけどもさ。

ーFさんに誘ってもらってご一緒した夜回りで、「今、飲んでるから米はええわ、マスクだけほしいな」という方もいらっしゃいました。

 そうそう。そういう人もいはるよね。で、中には、誰かに助けられるということを、すごく嫌がる、拒む人もいはるわけで。だから、夜回りでおむすびを渡すって、それって本当は、ものすごく失礼なことなんよな。差し出す時点で。それを忘れへんようにしてる。
 それでも、なんで配るかって言ったら、必要としてる人もいるからで。もっと言えば、その日食べられへんかったことで命を落とす人が、やっぱりいるからで。必要としてる人に、ひとりでも届けられたらええなって思ってるねんけども。

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ーみなさん「この時間に、夜回りがある」ということを知っている方も多くて。Fさん達が、長い時間をかけて築かれてきた信頼関係ありきだな、とすごく感じていました。

 まあでも、根本的な考え方としては、「支援団体が夜回りでおむすび配ってる」というよりは、お裾分け。寄付でもらうお米がいっぱいあって、それがみんなが食う分以上にあって。だからまあ、お裾分けだよな、シェアだよな。
 だから、夜回りに対して「いいことしてる」という自意識が生まれてしまうことは、すごくこわいこと。「いいことしてる」っていう自意識、つまり「困ってる人を助けてあげてる」という意識自体が、その時点で、僕らの立場と野宿してる人を上下に分けてしまうじゃない。僕らと相手を分割してしまうじゃない。それが、すごくこわい自意識になってしまう。


ー声のかけ方も、「こんばんは」の次に、どんな言葉が来るのがいいのかを考えていました。

 声のかけ方ひとつとっても、いろいろあるよね。僕らもね、最初呼びかけるとき、「おとーちゃん」とかって言ってたんよ。「おとーちゃん、毛布あります?」とか。でも最近はさ、俺も歳とってきたから、「あれ? 俺と変わらへんよな、おとーちゃんって変やな」と思うようになってきて(笑) そういう意味では、声のかけ方が、難しくなってきた人もおるけどもね。

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ー今回のことについて、文章にまとめたり、まちのことをこれからも書いていきたいと思っているんですけども、それについてはどんな風に思われますか。まちの人として「書いてほしい」とか「書いてほしくない」とか、どんな風にFさんは思うかな……と。

 何書いても、食いつかれるところはある、とは思ってるねん。書くメリット、書かないメリットがあると思うねんけど、そんなにそこまで、考えなくてもいいんちゃうかなって思う。書き手として、感じることがあったら書き、なければ書かない。これが一番素直なことやと思うんやけど。

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ー私のエッセイが、「ジェントリフィケーションに加担している」という意見もありましたが、そういった目線で、書くときに気をつけるべきことはありますか。

 島田さんには知名度があるかもしれんけど、まちとしては、釜ヶ崎にひとりの女性が来て、何かを書いたところで、何かが変わってしまうことなんてないし、ってところで。
 釜ヶ崎っていろんなイメージがあるけど、この釜ヶ崎に、引き続き命を宿していくために何をしたらいいのか、というのを、今、まちづくり界隈は動いていて。でも、ジェントリフィケーションに反対派の人達は、それ自体がその、釜ヶ崎の、……あー……難しいなあ、これ。なんて言うたらええんやろう。

ーすみません、答えにくい質問してしまって。

……釜ヶ崎の命をとめる、釜ヶ崎をやめてしまうことだと……彼らが言ってること自体が、釜ヶ崎が死に絶えて、滅びてしまうことに、僕らは聞こえるねん。彼らにはこちらがそうしてると見えてるだろうけど。
 このまちが、プロジェクトが今、していることは、未来の30代とか、次の層につないでいくためのアプローチ。次に繋いでいくのが大事で。だから、これは、あくまでつなぎ目で。

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ーFさんの他にも、いろんな方々の声を聞いていて。その中で、もちろん、伝え方に慎重さは必要ですが、取り組みとしては、いろんな分野から同時に進めて、あるいは外からの力も借りて進めていかないと、20年、30年後には人がいなくなって、まちが廃れてしまうかもしれないということを聞きました。

 だからむしろ、島田さんには、もう一歩二歩、いや、三歩くらい、自信もって、発信するんやったらしたらええし。傷つくのが怖くなりすぎたり、傷ついて危ないことがあったら、俺は、「もう、逃げたらええ!」って言うし。あんまり影響力とか、迷惑がかかるとか、……そういうの考えなくてもいいんちゃうかなあ、ってところもあるねん。でも、もし、前に、もしもあんたが前に出て、発信するっていうんやったら、俺は、めちゃくちゃ応援したい。

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 Fさんが、他者と暮らしを共有しているところと少し繋がるのですが、私の家は、地域の人達に開放しています。小学生から60代の方まで、いろんな人が来ます。私が「同じ釜の飯を食う」という行為が好きなこともあって、訪れた人とは、はじめて出会った相手であっても、よく食事を一緒に取ります。人数がたくさんいるときや、経済的に余裕のある大人がいる日は、材料費を少しもらうこともあるけれど、だいたいが「お裾分け」で、回っています。

  というのも、遊びにくる人がいろんな「差し入れ」をしてくれることがあるからです。「おかんが持ってけって!」と畑で採れた野菜をもらうこともあるし、おうちが神社の青年からは、お供えのおさがりで、お米をいただくことも。そのため、「差し入れ」の存在が日常であり、それを使って誰かにごはんを「お裾分け」することも日常で。我が家の食卓は、持ちつ持たれつで巡っています。

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 そういう「お裾分け」や「差し入れ」の文化が自分の中にあるからか、Fさんの夜回りをご一緒するときに、おむすびを誰かに渡すこと自体は、個人的には、特別な行為ではないと思っていました。もちろん、私の日常生活と夜回りとは、渡す相手の前提が違うのですけれど。
 
 「夜回りでおむすびを渡すって、それって本当は、ものすごく失礼なことなんよな。差し出す時点で」というFさんのこの言葉を、頭の中で何度も繰り返していました。すると、それだけでいっぱいいっぱいになり、1回目の夜回りでは、あまり何もできませんでした。

 でも、夜回りで一緒のエリアを担当した女性は、違いました。彼女は何十年も夜回りをしていて。向こうから彼女に声をかける方も本当に多くて。「まあ久しぶり! 帰ってきてたのね」「うん。ここで待ってたら会えると思ってた」「あら、お酒飲んでるの?」「水や水」「え〜、そうなの?(笑)」

 Dさんの記事で書いた、ショーディッチのベーグル屋さんみたいに、Fさんや彼女のように、相手と信頼関係が築かれていれば、おむすびを差し入れる行為が、やっと自然になるのだな、と感じました。ただ、「どうもこんばんは」と言ったり、別れ際に「おやすみなさい」と言うことは自然なことで、まずはここからだな、と思いました。

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 2回目は、少しだけ違いました。何かを手渡すことは、自分にとってまだまだ不自然だけど、歩いている中で、ひとりだけ、私と目が合ったおじさんがいて。そのとき、Fさんたちは近くにいなかったのですが、「こんばんは、はじめまして」って言うと、「こんばんは」と笑顔で返してくださって。今日Fさんたちの夜回りがあることを知っていて、それで笑顔を返してくださったのかもしれませんが、自分の口から、自然と次の言葉が出ました。

「今日、夜回りの日で、回ってるんですけども。……おなかの具合はいかがですか。晩ごはんは、もう済まされましたか?」
「まだ!」
「ゆかりのおむすびなんですけども、もしゆかり嫌いじゃなかったら」
「うん、ひとつもらうわ。ありがとう」
「じゃあ、おやすみなさい」
「はい、ありがとう〜」

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 私はみなさんにとっては余所者の「非日常」な人間です。そんな私がおむすびを持って声をかけることも「非日常」なことです。だけど、こうして目が合ったおじさんにとって、夜回りがあることや、Fさんたちの仲間から差し入れがある、ということは「日常」かもしれなくて。Fさんたちとの信頼関係がすでにできていて、「あの人達が連れてきた人だから」ということで、受け取ってもらったのかな、と考えました。

 それでも、目があって少し話したおじさんの顔は、覚えることができたので、もし、また会えたとしたら、次は「こないだはどうも」って、声をかけようと思いました。こういうことが、周囲から「お裾分け」や「差し入れ」と見えるのか「施し」や「支援」と見えるのか。分からないけれど、このようなやり取りが繰り返される中で、自分と相手の中だけで築かれるものなのかな、築かれていくといいな、と思っています。

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 「お裾分け」や「差し入れ」と、「施し」や「支援」の違い。言葉の使い方で、揚げ足を取るわけではないけれど、きっと、お裾分けや差し入れは、相手とのある程度の信頼関係ができているときに、はじめて成り立つ言葉なのかな、と思っています。私のおうちに遊びに来るみんながしてくれるのは「差し入れ」。それを使ってご飯を振る舞うのは「お裾分け」。

 あの日、新今宮で、おじさんに居酒屋をごちそうしてもらった分、お兄さんに定食をごちそうしたのは、どう見えたんだろうか。お兄さんは、どう感じたんだろうか。靴下をあげたことはどうだろうか。カーディガンをもらったことはどうだろうか。

 たとえ、こちらが「お裾分け」や「差し入れ」のつもりで、お兄さんが「施し」や「支援」と思っていなかったとしても、世の中からはそうは見えなかったその理由や背景にしっかり向き合って、改善していきたいと思っています。

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7.
「道路や公園を談話室として使ってるだけなんですよ」
──日雇い労働の紹介や労働福祉事業をする公的団体の元職員、釜ヶ崎地域に関する漫画等の執筆やまちづくりに取り組む、60代男性

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 大学卒業後より、日雇い労働の紹介や労働福祉事業をする公的団体に就職したGさん。職員として働く中で、団体が発行する日雇い労働者向けの冊子に、釜ヶ崎の日雇い労働者や野宿生活者がキャラクターとして登場する漫画を描いたり、野宿生活者へのインタビューを通したエッセイを書くという仕事をしていました。その後、Gさんの作品は青年誌や新聞などにも連載され、書籍化。現在は地元住民が設立した、まちづくり施策を実施する会社にて「スタディツアー」の実施にも取り組んでいる方です。

 「新今宮周辺地域は、まちに対する現状が更新されないまま、あるいは間違ったイメージのまま、社会で捉えられてしまっている」とGさんは語ります。そこでGさんは、日雇い労働や野宿経験のある方やスタッフによる「スタディツアー」を通して、まちや野宿生活者に関する社会課題の相互理解などを目的に、暮らし、活動、課題について触れ、学ぶ機会をつくっています。

 今回、Gさんには、まちの中で発信する表現者としての視点、まちづくりの視点、そして、スタディツアーというかたちでまちの外へ発信する立場としての視点から、意見をおうかがいしました。

 待ち合わせの場所に到着して、ドアをあけると、机の上にはA4用紙60ページ分の資料とお茶、たくさんの書籍、そしてスクリーンにスライドが投影されていて。会ったことのない、そして、こんな騒ぎを起こした私に、こうしてくださることに、胸がいっぱいになる思いでした。

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ー今回のことについていろんな方にお話を聞く中で、やっぱり、このまちの変容に関する議論と切り離せないものだなと感じています。まずは、まちづくりをされている視点で、Gさんの、このまちへの考えを聞かせていただきたいです。

 このまちの特徴は、社会資源が集積していること。支援団体とか支援施設とか。役所の生活保護適用のハードルの低さとか。経済や雇用面の貧困だけじゃなくて、社会関係のつながりの貧困、孤立しているという意味での貧困があわさっているのが釜ヶ崎的貧困の特徴。マンパワーのほうも、支援者として、施設で働いたりボランティアで来てくれたり。そういう、両方が集まってくるまちです。

 そういう、いろいろな支援が集積してるから、やっぱり全国から人が集まってくる。このまちには「サービスハブ」という機能があって。社会福祉だったり、シェルターとか炊き出しなどのサービスに、このまちならアクセスできるので。この「サービスハブ機能」がある限り、困難を抱えたさまざまな層の人達がこのまちに辿り着くというポジションは、今後のまちの変容の中でも、変わらないし、変えないほうが良いという気持ちです。

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 僕が思うまちづくりの大きな柱は、2つあって。1つ目は、さっき言った「サービスハブ機能」を決して失ってはいけないこと。2つ目は、その良さを失わないためにまちをアップデートしていくこと。しかも、そのアップデートは、上手にせなあかん。地域経済の立て直しの柱として、このまちが交通の要所であるという利点を活用して還元してこそ、住民が、雇用をはじめとして潤っていくわけだから。この2つの柱を両立させるという考え方であれば、あらゆる人を助けられる。社会福祉重視の人も、経済重視の人も。このまちは、両方を包摂する方向性で、進めてるつもりなんです。地域の歴史を踏まえたらそれしかないでしょ、と思ってるんです。

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 ちなみに、エッセイに書いていた、あなたが会ったお兄さんは、シェルターとか炊き出しは、あんまり利用してなかったんかな?

ーどうでしょうか、そのあたりは話題にあがりませんでした。でも、「人がたくさんいるところで寝たり、食事をするのは苦手」とは言っていました。

 そうか。ルールが億劫だったり、人の近くで過ごす集団生活が苦手な人はいるからね。お兄さん、優しい人だけど、このまちには、なんぼでもそういう人はいる。映画みたいだとか、こんなことある訳ないとか、そういうコメントもあった気がするけど、そんなことない。うちの女性スタッフにも聞いたけど、「その程度のエピソードならある」と。書いてたようなやりとり、このまちではなんぼでもある。

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ー私のエッセイについて、Gさんが問題だと思われたことは、どんなところでしたか。

 あまり熟読したわけではないんだけど。なんて言えばいいんかな。西成や釜ヶ崎に向けられた視線と、他の地域にもあるホームレス一般の状況に向けられた視線と、両方があるような。今回のお話については、私は西成のまちづくりに関係する範囲というか、視点でしか言わんとこうと思いますけど。

 また、西成の課題やホームレス問題の中に論点があるというよりは、世間のこちらを見る目に問題があることが露呈した出来事だと、私も思っています。世間の見てる、ホームレスとか西成とか釜ヶ崎を見る目、そういうのがとても歪んでいると。理解者のような顔をしながら、どこかステレオタイプに当てはめてやっているところも、ひとつあるよね。なので、そのへんはですね、「ちょっとそれとは違うんだよ」と。

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 誤解話のついでですけど、西成の人達は、「昼間っから路上でお酒を飲んで……」っていう見られかたをするけど、彼らは自分の住む簡易宿所の部屋が狭かったり、交流機能がないことから、道路や公園を談話室として使ってるだけなんですよ。家の延長として、まちの空間を使ってるだけ。違いに対する無理解から、差別は生まれてるよね。本当は、その人の背景にある目標とか人間関係とか。生き方や働き方の理由とか、そういう状況をよく理解しないといけない。

 それに、今の社会は、真逆だよね。Amazonでなーーんでも家の中に持ち込める。家に引きこもるのが必然になってるよね。釜ヶ崎は、結果的にだとも言えるけど、まちづくり論で重要な「まちの共有感」がある。人口の密集感も手伝ってるけど。ここには次のまちづくりへのヒントもある。生活の仕方、手段が違うだけで、実はね、人とゆるくつながりながら、程よく暮らしたいという気持ちはみんな変わらないんですよ。ほんとに変わらない。

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ー今回いろんな方にお話を聞く中で、「今までずっとネガティブに語られてきて、今も現在進行系で。それについて、まちの人達は辟易している。外からのラベリングによって、自分達のまちに誇りをもてない状態になっている」という言葉もありました。

 そうそう、釜ヶ崎のおっちゃん達のことを、ネガティブに見る人もいるし、ポジティブに見る人もいる。今回の記事に対する意見で、「スラムツーリズムだ」ってのがあったね。私らがやってるのは、分類としては「コミュニティツーリズム」っていう言葉を使っています。語り部3人くらいに来てもらって。それぞれがどんな風に人生の苦境を変えようとしたり、流されたりしたか、生活の中での喜びにはどんなものがあったのか、とか。それが私らのやり方。

 「スラムツーリズムだ」「ダークツーリズムだ」「見世物にしてどうするの」と想像で批判的にコメントしてしまう人達もいたと思うけれど、実際は、違う。それに対して逆に、「ホームレスだから不幸だって誰が決めたんや」「嬉しいこともいっぱいあるよ」「西成があって良かったよ」って。「この暮らしで、私は幸せです!」ってな感じで、もっとポジティブに表現するおっちゃん達もいる。

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ー今回、ネガティブとポジティブが表裏一体だという部分を、すごく感じていて。ネガティブに語られることが多いテーマで、ポジティブの側面を発信することは、ものすごく難しいことだなと感じました。私は3月に、Aさんがされているまち案内に参加したんですけども、ポジティブでもなくネガティブでもなく、グレーな印象を受けました。Gさんのスタディツアーでは、その表裏一体を発信するときに、どんな風なことに気をつけられているのか、おうかがいしたいです。

 「スタディツアー」は、2004年からごく自然に始まったんですが、広報の仕方、参加する人の範囲や人数、これらは大切にしています。こちらは迷惑をかけながら学ばせてもらっている、という意識が大事。

 あと、報道者向けのツアーでは、「これまでどんな失敗があったか」「どんなとんでもない報道があったか」「なぜそれが起きたか」。その事例を見せながらやっています。そして、「もし今後記事を書く上で、数値や経過の確認が必要であればします」と。検閲させてくださいという意味ではない。聞いてくれれば正確に説明します、というような部分です。記者がそのつもりじゃなくても、「とんでもないところで爆発した」ということも多々あるのでね。その地雷があるかどうかをチェックすることもあります。その被害は、地元の人達にこそ一番生まれるので。
 

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ーツアーに参加される方に対するアクションとして、大事にされていることはありますか。

 「説明」は大事にしてますね。たとえば、誰かの説明無しでこのまちを歩くでしょ。で、外でお酒飲んでる人達がいたとして。「道路で酒飲んでる!」ってなって、やっぱりネガティブになって、差別意識みたいなものを助長して出ていく人は、いっぱいいます。これも、外を家の延長で使っているわけなんだけど。そのとき、「分母は何人ですか?」って言ってる。たとえば2万人として、まち歩いて路上飲酒してた人何人いましたか?っていうところ。分子だけを見て「酒飲みのまちかい!」ってなるのは、違うなと思う。ただ見に来ればいいってもんじゃない。きちっとした説明をつけながらのまち歩きでないと、解説がないと、逆効果になる。ものごとって、自分がもってるものさしで見るものだから。自分のものさしで見ない、彼らのものさしで、異文化として見る。

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 それで言うと、あなたの記事も、解説がついてたら、変わったかもしれない。たとえば「新今宮ワンダーランド」のページに説明があって、そこに、あなたの記事へのリンクがあって、そこからあの記事が読める仕組みだったら、また違ったかもしれないですね。クリックしたら新今宮ワンダーランドに飛ぶ最後のくだり、あのあたりは俺もずっこけたで。読者は、あの部分見たら「裏切られた!」ってなるわ。でも、「電通」ということだったり、「PR記事」の話がなかったら、誰も読んでくれない、こんなに反響すらないような記事だったかもしれない。だから、事前にどれくらいの情報を提供するか。事後に何を提供するか。

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ーGさんは、釜ヶ崎を舞台にした漫画やエッセイも、長年にわたって出されていますが、そういった表現の上で、大事にされていること、気をつけていることはありますか。

 僕は、このまちに来てから、日雇い労働者が主人公の漫画を描き始めたんやけど。1977年の話。勤めてた公的団体で、労働者向けの冊子を出すことになって。字を読めない人もいたから、ふりがなを付けることはもちろん、漫画を載せよう、ってなって。ちょうど、趣味で描き始めてたから、職員だけど私が描いてきたという経過です。労働者じゃない私が、日雇い労働者を主人公にして、当事者達の前で、当事者の読むものを描いて。考え方によっては、とんでもないことをしてきたわけですね。それを43年も。

 でも、その漫画が全然違う、当事者の生活感覚と全然違うものになってはいけないな、という意識はあったね。だから、描く内容は、労働者から聞いた話にしました。「勝手に描いてるわ」じゃない。とことんリアルに。

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 そして、僕が描いたものには、世に出していいものかどうか、物理的なチェック機能がありました。目の前で、たくさんの日雇い労働者達が読むわけですよ。目の前で。面白くなければ「面白ないわ、こんなん描くの辞めとけ」と。毎月リトマス試験紙です。検証を受けてる。「面白くないから辞めとき、って言われたら辞めよう」と、そういう気持ちでした。

 でも実際ならなかった。ネタを持ってきてくれる人もいたし、一句持ってきてくれる人もいた。あとは、発行元が行政系列なので、そこのチェックも毎週受けていました。そうやって、可能な限り、労働者サイドで描いていった。そのまま今に至り、43年続いています。そろそろ終わりかな(笑)

 僕の漫画を読んでくれるのは、漫画に登場するようなおっちゃん達やった。だから、一番大切なのは、目の前にいるその人達が「面白い」って思ってくれるかどうか。この人達を笑わせてこそ、って思ってた。ただ、やっぱり生活様式、価値観が違う人が読むときには説明が絶対にいるんです。面倒だけども、そこは慎重にしなくちゃいけない。スタディツアーでも、解説なしだと、やっぱり差別意識を助長して出ていく人が絶対いる。だから、解説は絶対必要なんです。

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 最後にひとつ。私の意見ですけど、まちのイメージアップそのものは、絶対必要だと思っています。だって、今、子ども達が苦しんでるんやもん。自分が生まれ育ったまちが、こんなにネガティブに思われてるんやもん。修学旅行とかでね、他の地域に行ってね、「あんたどこからきたの」って聞かれて、「西成」って答えたら、「あんな怖い所からきたの!」っていう人がいた、って話は珍しくない。親自身が、子どもに対して、このまちのことをネガティブに言っている人もいるしね。だから、このまちの子ども達、未来の子ども達にとっては、イメージアップが絶対、必要なの。

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 「道路や公園を談話室として使ってるだけなんですよ」
Gさんの言葉の中で、印象的だったセリフです。

 ここで、だいぶ突飛なことを言ってしまうのですが、私には「公園になる」という目標があります。公園に対するイメージは、人やまちによって様々だと思いますが、公園とは私にとって、誰でも好きな時に、来てもいいし出ていってもいい、集まることもできるし独りにもなれる、そういう存在だと感じていて。自分も、そんな存在になりたいなという目標があります。

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 釜ヶ崎に滞在する中で、まちの中の公園をいくつか通ったり、利用することがありました。ある日、飲みながら談笑するおとーちゃん達の横で、バドミントンする小学生くらいの子ども達がいて。シャトルが飛んでいって、そのおとーちゃん達のところに落ちて。子どもが「ありがとうございます!」と取りに行っていました。

 今の私にとってこのまちは、「公」と「私」の空間の境目や、「外」と「中」の概念がとても曖昧で、それがとても暮らしやすいな、と感じています。自分が奈良で開放している家も、公と私、外と中の境目がほぼない暮らし方をしているので、性分に合っているのかな、と思っています。

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 たとえば、自転車5〜10分圏内で、だいたいの方の活動場所までたどり着くところも、とても心地が良いです。「今日はFさんところの事務所借りて、書き物しにいこうかな」とか。「明日はEさんとこの喫茶店で、みんなで夜ご飯を食べたいな」とか。実は、お兄さんとコーヒーを飲んだ公園にも、あれから何度か行っているけれど、おじいちゃんの友達ができて、それから月1で、あの場所でコーヒーを飲むという約束が生まれたり。そんな風なまちの使い方ができる。作業場所や食卓が家の外にあったり、公園が談話室になったりするという、「公」と「私」、「外」と「中」の曖昧さが、「道路や公園を談話室として使ってるだけなんですよ」という言葉に重なりました。

 ただ、これは、Gさんの言っていた、ポジティブな気持ちで今の生活を選び、暮らしているという人の場合であり、「生活の仕方、手段が違うだけで、実はね、人とゆるくつながりながら、程よく暮らしたいという気持ちはみんな変わらないんですよ」という文脈での話です。今の暮らし方を余儀なくされている方々も多くいて、同じように考えるのは違うな、と思う気持ちもあります。

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 話がちょっとそれてしまったのですが、そういった壁のない、お互いが延長線上にあるものだということをつなぐような、そういう姿勢でいたい、役割を担ってみたいと思っています。仕事にしても生活にしても、ありとあらゆる垣根を取り外して、白でも黒でもない、グレーなところを行ったり来たりしたいです。

 冒頭に書いたことを説明するのに、いろいろ話が飛んでしまいましたが、そんな訳で、私の目標は「公園になる」です。公園は、親子が虫採りをしてたり、マラソンコースに使う人がいたり。缶コーヒー片手にタバコを吸いに来る人がいたり。お母さん達が犬を散歩して世間話をしていたり。中学生のデートスポットになったり、やんちゃな若者の溜まり場になったり。年齢や時間軸が違っていて、文化も生き方も違うであろう、バドミントンする子ども達と、飲みながら談笑するおとーちゃん達。いろんなものがバラバラな人達がゆるやかに交わり、つながるような、公園みたいに生きたいな、と思っています。

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8.
「僕らはこのまちで再チャレンジをしようとする人のお手伝いをするために存在しています」
──就業や福祉分野において野宿生活者支援をおこなう、30代男性

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 西成で生まれ、このまちで暮らすIさん。学生時代から釜ヶ崎で活動をおこない、西成の児童館での勤務を経て、現在、就業や福祉分野におけるNPO団体で管理職を務めつつ、野宿生活者や生活困窮者への現場支援をおこなっています。

 Iさんは、今回お話をうかがった人達の中では最年少ですが、まちづくりの会議に参加しながら、より多くの若い世代の意見が反映されるための仕組みづくりや、若手の育成にも取り組んでいます。そこでIさんには、今現場を持っている目線と、まちを未来につなぐ上での、次の世代に一番近い担い手としての目線で、お話をうかがいました。

 Iさんにお話を聞いたのは、2拠点生活をはじめるよりも前のこと。タイトルにもしている「僕らはこのまちで再チャレンジをしようとする人のお手伝いをするために存在しています」という言葉は、自分がこのまちで暮らしたいと感じた数あるきっかけの中でも、とても大きなものになりました。

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 まず、これは僕自身の当事者性みたいなことなんですけど。島田さんが勤めてはった前職場のことも知ってるし、いろいろある家庭で育ってきはってんなというところは、過去の発信で分かりました。で、僕もそうなんですけども、でも僕は表にそれを出すことを、頑なに拒んでいるタイプで。一方で、島田さんはそれを表現してはるわけで。「なんか、うまく見せてんちゃうんか」という僕自身の揺れもあって。そういう意味で、島田さんのことを「どんな人なんかな?」とは思っていました。

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ー今回、IさんがSNSで、「(私の)表現が好きじゃない」と投稿されているのを見て。ずっと現場におられるIさんがそう感じたところに、問題の鍵があるんじゃないかなと思っています。ぜひ詳しく聞かせていただきたいです。

 たとえば、昔から「こんな可哀想な人がいた」という投稿は好きじゃなくて。でも、その投稿した人のことなんて、関わってみないと分からないから、そういうところで判断したくなくて。島田さんの文章は、「どの距離感で闘ってはる人なんかな?」というのが見えなかったんです。文章が綺麗だから、損してはるところもあると思うんですよね。

 で、今回の記事は、SNSで発言した通り、僕自身は、好きな表現じゃなかったです。でもそれって別に、好き嫌いの話やから。何の問題もないと思っています。「島田さんに、何の謝罪をさせる必要があんの?」としか、未だに思っていないです。それは代理店に対しても。行政に対しても同じように思っています。だから、そこは、僕自身は、何も思ってないです。

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ー釜ヶ崎のまちで、いろんな方にお話を聞いてきて、今回の件を反省しつつ、併せて、このまちでの次のアクションも考えたくて。ただ、それを考えるための情報がまだまだ揃っていない段階です。今、Iさんは現場にいながら、まちづくりのことにも関わっていらっしゃると思うんですけど、その中で、どういった課題感がありますか。もしくはIさんから見て、率直に、「こんなんしてくれたらええのにな」ということって、ありますか?

 僕は、釜ヶ崎でわりとがっつり働いていて、このまちって、ほんまに素敵やなと思ってて。ほんまに、いろんな力があるまち。でも、高齢化しているとともに、ガラパゴス化してると思ってるんです。まちも、支援団体も。だから、これまでに培ってきたことを、ちゃんと、そして上手に、未来に繋いでいかなあかんという危機感が昔っからあって。

ーそれで今、若い方の育成だったり、外から仲間に誘ったり、まちづくり会議への参加を進めていらっしゃるんですね。

 いろんな人に気を遣うことも大切なんですが、そこに気を遣いすぎたせいで、このまちの若い人が、結構離れていったんです。僕の場合は、西成に生まれていて、「地域の人」として、自分の領域がつくれているから大丈夫なのですが、歴史とか伝統を重んじ過ぎることによって、動きにくくなってる若い人もたくさん見てきました。
 ……そう言いながら、僕も打たれ強くはないんですよ。今回の炎上をきっかけに、自分や周りが取材を受けたり、ネット上での発言もしてますけど、やっぱり批判はありますよね。今日だって、150回くらい「新今宮」ってTwitterで検索して、ずっと手、震えてましたし(笑)外から来た人が、そのリスクをおかせるかどうかって言うと……言葉は悪いんですが、リスクは僕みたいなアホな人しかおかされへんわけです。

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 でも、このまちに来てくれる人は、やさしくて賢い人ばっかりやから。夢持って、想いも持って、このまちに来てくれたけれど、つぶれてやめてった人、何人も見てきてます。ボランティアの方も、100人来たら、また来てくれるのは1人いるかいないかで。

 今回の島田さんにしても、「吸い取るとこだけ吸い取って、成長して、離れていくんやろな」と、どこかで思っているところがあります。そして、それでも別に良いと思っています。それは、その人が原因なのではなくて、このまちのことを伝えきれんかった僕ら側の問題だと思っていますし。ただ、僕らとしては、なるべくこのまちを好きでいてくれたらな、と思っています。

 若い人達に携わってほしいけど、僕達にはそのためのリソースが足りていない。発信力がまだまだ足りていない。だから、発信力のある人が関わることで、未来につながってくれたら……っていう。そういう、したたかな思いもあります。

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ーまちが変わっていくことに対して、Iさんが感じていることをおうかがいしたいです。

 反ジェントリフィケーションについての話でいうと、これは「地価が高騰することによって、今いる人達がいられなくなること」に対して、そうさせないという動きをしてるわけなんですけど、……僕自身の考えを言いますね。
 今、釜ヶ崎でシェルターとかに入らないで、本当に野宿で生活してる人は、50〜70人くらいと言われていて。これは、僕らだったり、夜回りをしている人だったりが、日々数えたりヒアリングして、更新していってる人数です。その50〜70人の方は、長期的に野宿をしている人も多くて、夜まわりしている団体が生活保護で居宅に上がることを勧めても、野宿を選択する人が多い印象です。

ー50〜70人。多い少ないの問題ではないと思っていますが、私が予想していた数よりは少なかったです。

 もちろん、その人達の権利や存在は、認めるべきです。ただ、そこだけをやり過ぎてしまうと、このまちのイメージは変わっていかない。すると、今度は若い人が来れなくなる。これも、一つの問題だと思ってるんです。だから、僕の中では、ジェントリフィケーションに反対するということは、一方で、何か別の排除も生んでいるわけで。

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ーそこで、どちらも排除しない、誰も排除しないための動きを、Iさん達がされている、という。具体的にはどんなことをされているのですか。

 日頃おこなっているのは、生活や健康に関する相談、生活保護申請や障がい手帳の取得などのサポート、依存症からの回復支援、就労相談や就職支援、雇用創出、緊急宿泊支援の運営などです。それに加えて、コロナに関する緊急相談会を開くなどして、アウトリーチをいっぱいかけて、困窮して生活に困っている人にこのまちのことを伝えて、釜ヶ崎に来ることを呼びかけています。あとは、最近では、正しく伝わるための動画もつくって発信したり。

 僕は、釜ヶ崎で活動して、まる16年経つんですけども、まあ、新しいことをする上で、めんどくさい世界やなあと思っています(笑) でも、そのめんどくさいところもやりたいし、かと言って新しいことを黒船的にするのではなくて、これまでの歴史を継承しながら、うまく混じりながら、やれたらいいなと思ってやっています。

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ー今回、インターネット上で様々な意見が寄せられたことについて、Iさんはどのように感じていますか。

 拡散力はそこまでないツイートだったとしても、事実誤認というか、間違った情報が流れているのは不本意だなと思っています。あとは、伝えるべき情報が伝わってなかったり、本当の全体像みたいなことが、伝わりきっていない。本質的な批判と、そうじゃない、乗っかっちゃってる批判があるな、と思って。

 僕の意見ですが、自己肯定感を社会正義で満たそうとするのは、場合によっては危険だなと思っていて。そこに、釜ヶ崎を利用してほしくないな、と思っています。

 でも、釜ヶ崎について、ネット上の声が大きくなるのは、昔っからあることなんです。外から見たら、どの人がどんな人なのか、分からないわけで。情報の一部だけが、側面だけが拡がることもある。でも、これについては、僕ら側が努力を怠っていただけだと思っています。
 だから、今回炎上したことに関して、「僕らが積み上げてきたことが、この一件でひっくり返ってしまうとしたら、それは嫌だな」と思いました。未来のことを考えたときに、これまでネット上で発信している人だけじゃなくて、僕らがもっと声出していこう、名前も出していこうって思っています。

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 批判している人達もみんな、しんどい中で戦ってる人達なので、批判に対して、否定はしないスタンスです。でも、邪魔はしてほしくないなと思っています。今回の件は物語の中のお話ではなく、実在するまちのことでそこで生活する人、働く人がいるので。誰かの一生懸命が、誰かの邪魔になってしまうこともある。ただ、それを排除するのは釜ヶ崎じゃない。釜ヶ崎は、誰も排除しないまちを目指しているので。同じように、「ここで炎上したあなたを排除したら、釜ヶ崎じゃない」とも思っています。

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 このまちはすでにかなりの資本が入っていて、商店街の店舗、簡易宿所、空き地などがどんどん地域外の人達が買い占めていっています。なので、僕らがどんだけいろんな活動をしても、土地と建物の所有者は変わっていくので、結局僕らがしていることは、ジェントリフィケーションを防ぐことにはなりえないですし、新今宮ワンダーランドにせよ何にせよ、全部何かのジェントリフィケーションにはつながってるので、自覚的にその責任は感じていかなあかんな、とは思っています。

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 そもそもで言うと、今回の事業のプロポーザルが出た時点で「あー」って思いました。今回の事業は、まちの中のことを、まちの外の人にやってもらうわけやから。でも、公募が出てしまった。それで、外の人達が取った。で、取ったときに、じゃあどうするかって言うと、3通りあって。「気付かないフリや無視をする」か「その人達の邪魔をする」か「介入してこっちの意見を伝える」か。僕は介入して意見を伝えることを選んだ。周りから見たら「うわあいつ、受注先と組みよった」って、裏切ったように見えるかもしれません。けれど、自分からすると、「ほっとく方がやばいな」って。「どう見られるか? そんなもんは、こっちはもうとっくに覚悟決めてるぞ」って。だから自分は、何言われてもどんと来い。今回のことも、これからも、自分の意見を伝え続けていくつもりです。

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ー私も今、今回の件を文章にまとめていて。今おうかがいしているのも、そのひとつなのですが、先程Iさんが「邪魔はしてほしくないな」とおっしゃったように、その行動自体が、まちの人がしていること、これからしようとしていることに良くない影響が及ぶかもしれない、という危惧もあります。そのあたりは、どうなのでしょうか……

 僕は、書いたらええんちゃうかなって思ってます。「島田彩」が次また燃えたとしても、少なくとも僕らは全然大丈夫ですから。そんなんでは揺るがへんし、なんやったら揺れてええねん、って思ってます。だって、揺れないと何も変わらない。だから何書いてくれても、僕はいいです。釜ヶ崎に寄与するかどうかというのは、他人が決めてやることではなくて。誰かや何かに促されたにしろ、その人が決めることです。だから、冷たく聞こえるかもやけど、「島田さんは好きにしたらええやん」って思います。

 その上で意見を伝えると……正直、ほんまに今回の件って、僕としてはネガティブな「めんどくさいことになったな」って気持ちもあります。ただ、僕らからすると、僕らの言葉をつくってなかったこと、それをちゃんと発信してなかったということで。これまで逃げてた部分ですわ。だから、「そのタイミングが来たな」って。

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 なので、僕としての要望は、このまちがどうなっていくのか、どうしていきたいのかの本質だったり、このまちの支援団体がどんな想いで、どういうことをやっているのか、それを伝えてくれたら嬉しいなっていう想いはあります。けれど、でも今は、僕ら側がその準備、できてないです。今、僕らがここからやっと、自分らの言葉で発信することに、向き合っていくタイミングやなって思います。

 あなたの一件が、まちを5年くらい早送りさせたかなと思います。今までまちにいる僕らができてへんかったこと、言葉にして発信できてへんかったこと、周りが後回しにしてたこと、「やらなあかん」ってなって、今動いてるので。

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 僕、半分冗談で、島田さんに一ヶ月くらいこのまちに住んでもらって、毎日日記書いてくれへんかなあ、って話してたんですけども。このまちのこと発信してもらえるのはすごく嬉しいし。何を伝えてもらうかというところは、勇み足に動くことは危険だけども。例えばね、何も知らんあなたが、今回いろんな指摘を受けて、そのことひとつひとつを、いろんな人に学んでいく記事とかね。デンジャラスですけどね。

ー今回お話を聞いた方みなさんは、それぞれの「デンジャラス」と覚悟を持って向き合って、それでも活動を続けてきたという方ばかりでした。その覚悟に触れて、「このまちでもっと何かしたい。できることがあるんじゃないか」と思っている自分がいます。

 島田さんは、いろんな色を持ってやっていきたい作家さんだと思うんですけど、それが、このまちに関わり続けることで釜ヶ崎色がついたとしても、僕らは知ったこっちゃない。「ついたらええやん、うちらの色」って思っています。ただ、島田さん自身が、「どんな色でもついたらええわ」っていう覚悟があるかどうかで。……たとえば僕らのような人々が「ええ記事書いたなあ」ってなることがあなたの納得感なのか、それとも、インターネット上で、より多くの「いいね」が付いて拡散されるのがあなたの納得感なのか。どっちでもいいんですけど、島田さん本人が納得する結果になったらええかなと思っています。

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 まとめると、僕としては、もっと関わってほしい。せっかくこのまちに来たんやったら、関わってくれたらすごい嬉しいなと思ってます。なんやったら「もっといっぱい痛い目にあったらええやん」って思ってます(笑)

 釜ヶ崎のある西成区は、「再チャレンジのまち」って掲げています。その中で、僕らはこのまちで再チャレンジをしようとする人のお手伝いをするために存在しています。島田彩さんにとっても、再チャレンジのまちになってくれたら嬉しいな、と思っています。

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先日、Dさんと、こんな会話を交わしました。

「本当にいろんな人に会えたんやね」
「はい。いろんな人に会って、いろんな考えを聞けました」
「でも、僕が思う共通点があってね。それは『人の尊厳』だって思ってるの。あなたが会ったこのまちの人達は、全員『人の尊厳』を守るために、本気で向き合ってる。それぞれの得意分野で、それぞれの方法で。」

本当に、お会いしたすべての方々が、「人の尊厳」という言葉でつながっています。私が、今回の一件で、欠けていたところかもしれません。それは、相手の尊厳はもちろん、自分への尊厳も欠けていたなと思います。

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 私は、炎上してからしばらくは、自分の気持ちを考えていませんでした。自分の意思なんて、自分への尊厳なんて考えるべきではない、考えていい立場ではない、という心境でした。

 また突飛と思われるかもしれませんが、そんなとき、「誰かのためじゃなくて、自分自身はどう考えているのか」と切り替えられたきっかけが、「自転車」でした。

 釜ヶ崎での滞在が長くなってきたある日。「あったほうが便利やろうから」ということで、Iさんが余っている自転車をくださいました。今回お話を聞かせていただいた方の活動場所までは、だいたいが、自転車で5〜10分あればたどり着きます。この文章の調整だったり、確認だったり。その他、お誘いを受けた活動に参加する上でも、移動手段としてとても便利で、本当にありがたいことでした。

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 しかし、自転車に乗るようになった瞬間、一番変わったのは移動スピードや行動範囲ではなくて「気持ちと視点」でした。不思議なもので、自転車になっただけで、考え方も見える景色も、どんどん切り変わっていく自分がいて。「そんなもので?」と思うかもしれません。それでも、このまちを「自転車」で移動するようになってから、心身の強張りがなくなり、まちの人との距離が近づき、風向きが変わりました。

 炎上という状況や、「書けない」「自分の意思を尊重しない」という状況は、私にとって「非日常」でした。また、新しく来たまちも、どちらかと言えば「非日常」な環境です。

 けれどそれらの「非日常」の中で、「日常」の代名詞のような自転車に乗って、曲がる角の位置をひとつひとつ覚えていくとき、何度も前を通るお店や、決まった場所ですれ違う人の顔を覚えていくとき、その人に名前を呼ばれ、手を振り合うようになったとき、世界がどんどん、日常になっていく感じがしました。張り詰めた緊張がフッと解けて、通常運転じゃなかった思考回路が徐々に戻っていくような。やっと、他人を主語にするばかりではなく、自分の気持ちにも向き合えるような。

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 釜ヶ崎に住み始めると、その「自転車効果」はより一層加速しました。部屋着に着替えて、ギョサンを履いて、スーパー玉出まで自転車で向かう途中に「私は今日、何が食べたいんだろう」と考えること。玉出に到着して、「何を買おうかな」と選ぶこと。当たり前のことだけど、その当たり前ができていなかったのが、最初の1〜2ヶ月でした。

 そうして、自分の意思での選択を繰り返す中で、この文章を書く上でも、「何を書くべきだろう」はもちろん、「私は何が書きたいんだろう」も考えられるようになりました。次のアクションを考える上でも、まちのみなさんの話を受けて「じゃあ、私はどう考えるのか」「これから私は、どうしたいのか」を考えられるようになりました。

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 出会ったきっかけが、このようなかたちだからかもしれませんが、このまちの人と触れ合うときには、とことんお互い、主語を「自分」にして、話すことを求められる機会が多いように思います。「周囲のため、まちのため、社会のため、それも大事だけど、そもそもあんた本人はどうしたいんだよ?」というのを尊重して、本音を聞いてくださる方がたくさんいます。

 このことについて、どうしてなのかを何人かに聞いてみましたが、「誰かのため、まちのためって訪れては、すぐに離れていった人達を、何百人、何千人と見てきたまちやからかなあ。それでも十分ありがたいけど。でも、やっぱり『ああ』という気持ちはあるよなあ」と答えた方もいました。

 今、私は、シンプルに「この人達のことがとても好きだな、何かご一緒したいな」という気持ちがあります。そして、「今の自分がすべきこと、できることを、自分のためにしたい」と思う気持ちがあります。これらの気持ちと、相手の気持ちが重なる部分を、取り組んでいけたらいいなと思っています。

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 「まちのために」「社会のために」というよりは、どちらかというと「自分のために」。私が今表現したいものは、いろんなまち、いろんな人、いろんなものごとに当てはまるようなことで。何より、自分や自分の身の回りのことに当てはまること。だから、書きたい。そしてもっと前に進みたい。
 自分を主語にする視点、つまり、「相手の尊厳はもちろん、自分の尊厳も大切にする」という視点が、毎日自転車のペダルをこぐたびに、どんどん取り戻されていったのです。

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おわりに


 最後に、まちの人達からの、私にとって大切な言葉を、改めて書きとめておきます。


 Aさん。
「この世界は、限りなくグレー。二者択一的な発想は、したくないと思ってる」「白か黒かは、グレーを許さない。敵か味方か。それは、恐ろしいことだなと思っています」


 Bさん。
「汗をかくことと、言葉で伝えたいこととが、重なるのがいいやろうね」「だからあなたも、今回のことは社会的に捉えて、どうしたらいいのかを問いかけて」「嫌だなあという状況に置かれているということは、自分も相手も一緒だからね。その人のやり方、生き様がある」


 Cさん。
「切り取って強調すると、危険だ、ということ」「もっと違うようにも見て書いてください」「ここに来たら、絶対になんとかなる。断言できるまちにしたい」

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 Dさん。
「僕にとって文化は、良いとか悪いとかじゃない」「人の尊厳を踏みにじることは、絶対にやっちゃいけない」「どういったもので、何故それがあるのかがわかるように、そのものに含まれる文化、風習を必ず紐付けていく」


 Eさん。
「私は、表現の自由と責任のバランスについてを、ずっと考えています」「一緒に過ごす時間があるかどうか。それがあるのとないのとでは、全然違うな、というのは分かってきてる」


 Fさん。
「グレーゾーンを認めあえたらすごく楽なのに」「おむすびを渡すって、本当はものすごく失礼なことなんよな。それを忘れへんようにしてる」「困ってる人を助けてあげてるという意識自体が、その時点で、僕らと相手を分割してしまうじゃない。それが、すごくこわい自意識になってしまう」

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 Gさん。
「道路や公園を談話室として使ってるだけなんですよ。家の延長として、まちの空間を使ってるだけ」「違いに対する無理解から、差別は生まれてるよね。本当は、その人の背景にある目標とか人間関係とか。生き方や働き方の理由とか、そういう状況をよく理解しないといけない」「生活様式、価値観が違う人が読むときには説明が絶対にいるんです」


 最後に、Iさん。
「批判している人達もみんな、しんどい中で戦ってる人達なので、批判に対して、否定はしないスタンスです」「誰かの一生懸命が、誰かの邪魔になってしまうこともある。ただ、それを排除するのは釜ヶ崎じゃない」「僕らはこのまちで再チャレンジをしようとする人のお手伝いをするために存在しています」


 みなさんに出会ってからは、沈んでしまいそうなことが起きても、みなさんの声が頭の中で再生されて、励まされたり、時には叱られたり。お会いできていなかったら、私はここにいなかったと思います。大袈裟ではなく、本当にそう思います。

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 4月。炎上直後は気持ちの整理をする日々でした。前を向いて生きていくための準備として、共に暮らす仲間や友人知人に、たくさん支えてもらいました。これがなくては、何をするにしても、動き出せなかったと思います。

 5月。釜ヶ崎の人達に話を聞きに行きました。様々な情報を知り、学び、自分がしたことは一体何だったのか、自分は今どの地点にいて、目を向けるべきことは何なのか。表現について反省する上で、それらがとてもクリアになりました。すべての人から共通して伝わってきたのは、批判をも恐れない覚悟を持ち、現場で活動し続けていること。「これまでの私は、なんて短絡的だったのだろう」「どうして後ろばかり振り返っていたんだろう」と思いました。

 6月。まちで暮らしながら文章を書く中で、「世界は本当に、白と黒だけじゃない」ということを感じました。SNSやニュースも、まちの人に聞いたお話も、身近で支えてくれる人達の話もすべて「正解か間違いかだけに分けることはできない」と思いました。それらを、自分の目や耳で確かめて、しっかりと腑に落ちたとき、やっと、本当に前を向き始められました。やっと「じゃあ、自分はどう考えているのか、何をしたいのか」にも、目を向けることができました。

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 そして7月。今の住まいと新今宮との2拠点生活を決めてから、1ヶ月が経ちました。「自分はどう考えているのか、何をしたいのか」、その答えのひとつが、「このまちで暮らす」でした。
 ただ、このことは、釜ヶ崎のことに集中するという意味ではありません。今までの活動も変わらず続けたい、これまで以上に取り組みたい、と思っています。たとえば、地域に開放している奈良の自宅での活動。そこで起きたこと書くこと。新しいまちに出かけて体験したことを書くこと。

 自身の生活のためにも、個人作品だけでなく、企業や団体からの依頼を受けたり、何かのPR記事を書くこともあると思います。そのときは、どのような意図の作品なのかを明確にし、各媒体のガイドラインやクライアントの意向に従って、十分なPR表記をおこなうことにも、気をつけていきたいです。

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 この文章もまだまだ未熟で、批判の声もあるかもしれません。生きていく中で、これからもいろんな失敗をすると思います。インターネットで発信するということは、怖いと感じる部分もあるけれど、その反面、たくさんの方から常にフィードバックをいただける現場のひとつだな、と思っています。文章を書くことを選んだ私にとっては、インターネットもリアルな世界も、どちらも大切な「現場」です。

 だから、「一緒につくる」ぐらいの気持ちで、登場する人達の想いを大切にすること。できる限り想像力を働かせて、あらゆる読み手の気持ちを考えること。その上で、自分がしたい表現を選ぶこと。どんなかたちのものであっても、それらを1行ずつ丁寧に確かめながら、書き続けたいと思います。

 コラムで「公園になりたい」と書いたことにも通じますが、私はこれからも、いろんな色の現場から、いろんな色のことを表現したいと思っています。新今宮のことも、そうじゃないことも。知らないことをもっと知って、すべての色がグレーで繋がっていることを自分の目や耳で確かめて、伝える表現を試みたい。そして、その表現に触れた人が、何かに問いを立てたり、明日のことを考えたり。できれば、心が豊かに動くものを生み出したいです。

 とても難しくて、程遠い目標です。それでも、何度でも頑張りたい。私は今、「再チャレンジ」をしたい、と思っています。

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