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【021】仏教学習note【仏教哲学の世界観1-21】

こんにちは。
このシリーズでは僕が仏教について学んだことを記しています。
なお、僕は仏教について何にも知りません。

仏教学者で花園大学の教授をなさっている佐々木閑先生のYouTubeでの講座を見て、その内容をまとめています。

もちろん僕の主観によるまとめなので色々と解釈の違いや間違った理解があるかと思います。
それはX(Twitter)などでご指摘いただけると幸いです。

あくまでも大学生の受講ノートみたいなものだと考えていただけると幸いです。


前回は出家生活の最低ラインについての解説でした。
基本的に一般社会からのお布施で生活する出家者ですが、もしもそれが得られない場合の最低ラインが決められています。
食事はもちろん托鉢で、棲家は木の下や洞窟で、衣服は道端に捨てられている物や死体置き場にある遺体から。薬は牛の尿を飲むなど。
かなり悲惨な状況ですが、このような状態を最低のラインとしていました。

今回は逆にお布施のもらい方、姿勢についての解説です。


仏教哲学の世界観1-21

https://youtu.be/HZ24sJ7eyNs?si=UAEzGcIM6GUgVLaZ

AIによる要約

  1. 出家者の暮らしと修行のバランス

  2. 組織の合理的な運営と明確な判断

  3. 修行の本来の目的と合理的な判断

  4. 托鉢と修行の関連性と原則的な考え方

  5. 寺院の始まりと修行者の建物利用

  6. お呼ばれとパーティーへの誘いの違い

  7. 師匠の指示と戒律の対立

  8. 規則への忠実と絶対従順

学習した事

どこまで一般社会からの援助を受けるべきか

仏教僧団の生活は極めて質素で、食事・住居・衣服・薬において最低限の生活ラインを維持している。
ところが、そんな生活においても真面目に修行に取り組んでいると次第に信者が増え、そこからの支援も増えてくる。
こうなってくるとどこまでその援助を受け取るべきか、が問題となってくる。
無条件に過剰な援助を受け続けてしまうと、一般社会と同じ価値観を持つことになってしまい、出家の意義は失われてしまう。
したがって、一般社会の価値観を捨てる出家僧団にとって、この増えすぎた援助は欲望と抑制のバランスをどのようにとるか試される状況となる。
このことは組織全体のスタンスにも通じる重要なテーマになっている。

形骸化し、消滅していく組織の傾向に、新たな状況に直面した際に雰囲気や好みなどによって根拠のない判断を下してしまう。というものがある。

しかし、仏教はお釈迦さま以来極めて合理的な道筋を構築している。
勝手な思い込みの排除、つまり合理的体系の利点を考慮しており、
これは「なぜそう判断するのか?」という疑問に対して誰でも納得できるように判断根拠を示す。

これらは律として記されている。

では次のようなシチュエーションではどのように考え、
どのように行動するべきだろうか?

1:食事に招待された場合

信者から出家者に対して好意で食事を提供するとお誘いがあった場合にはどのように判断するか。
そのような状況で迷った場合には原理原則に戻って考える。
仏教僧団の本来の目的とは社会から逸脱した人たちが集まり、修行という自分の幸福につながる道を一生懸命行なっていく事。その場を確保することが仏教僧団の意義である。
つまり、修行が可能な限りスムーズに阻害されずに済む状況をつくるのが仏教僧団の目的となる。

そのために一般社会からの援助を受ける事で修行に没頭できるという方策を取るのが原理原則となる。

この場合においては修行の時間を確保する目的に適っているのであれば、その方法に制限はない。
このことは普段行っている托鉢はあくまでも生きるために必要な食事を得る方法でしかなく、修行の内に入らない。

したがって、招待されて食事をもらうのは何の問題もない。

これは法事などで呼ばれた僧侶に食事を振る舞うという習慣として現代でも続いている。

2:建物を寄進してくれた場合

原則的に僧侶は野宿が基本である。
しかし、真面目に修行している姿を見て信者が好意で住まいを提供することがある。
この場合においても、その住まいに住んでも良いかどうかは原理原則に則して考える。
スムーズに修行できるかどうか。で考えることにより、この場合は提供された住まいに住んでも良い。
仏教は質素であることが目的ではないので、あえて提供されたものを断る必要はない。とにかく修行を第一として考えて行動し、貰えるものは貰う。

ただし、所有権は持たない。
あくまでも住まわせてもらうだけであり、その僧侶個人の所有物にはならない。

このように、もともと野宿をするしかなかった僧侶だが、真面目に修行に邁進する姿を見て感銘を受けた信者から信頼を得て、結果住まいを提供してもらう。
これが後のお寺・寺院の始まりとなった。
現在においても寺院は法人の建物であって、そこに暮らす僧侶(やその家族)の所有物ではない。
あくまでも居住権のみである。

3:パーティーに誘われた場合

信者から僧侶にパーティに参加してほしいと提案があった場合、これは1番の「食事に招待された」場合とよく似ている。

パーティでも食事が供されるわけだから同じかと思われるが、これは断らなければならない。

なぜなら、食事はあくまでも命を繋ぐためのものであって楽しむためではない。これを受けてしまうと「世俗の喜びを捨てる」という原理原則に反することになるからだ。
パーティに参加して楽しむのであれば出家などやめて一般社会に戻れば良いという話になってしまうのだ。

律にはこのようなことも明確に記されており、歌を歌ってはならないだとか、ピクニックに行ってはいけない、双六で遊んではならない等と当時の娯楽が例として挙げており、それらは僧侶が関わってはいけないものとして決められている。

パーティ楽しんじゃダメ

4:先生が律に違反することを命じた場合

僧団における先生・指導者(和尚や阿闍梨と呼ばれる)が弟子に対して色々と指示する。
しかし、その命じた内容が律と反するケースがある。

この場合は弟子は先生の言う通りに従うべきか?
それとも律に従うべきか?

これは律に従うのが正解である。
律はあくまでも組織を守るためのものである。これが守られないと、今だけでなく将来的にも組織の崩壊の原因となってしまう。
したがって、たとえ恩のある先生であったとしても律に反している場合は従ってはならない。
また、律に反しているということを先生に対して指摘しなければならない。
これもまた規則して決められている。

間違った指示は相手が先生でも指摘して断る

完全法治主義を採用する仏教

このように、立場がどうであれ個人の主観による利己的な判断というものを仏教では禁じている。
あくまでも原理原則に立ち返り、決められた律に従う。

すなわち、仏教というものは律という完全法治主義の形式を採用した宗教である。

これがその場の雰囲気や個人の主観、立場の上下関係によって行動に揺らぎが生じる場合、組織の崩壊へとつながる。
オウム真理教の場合であれば、たとえ本人が間違っていると思っていても教祖や上の立場の人間の気分に従わなければならない、または従いたいと思わせるような組織は一般社会からの信頼は得られないのである。

感想

「有難迷惑」をどうするのか?という話のような気も・・・
とはいえ、今回は「身近な法律Q&A」みたいで面白かった。

教祖であるお釈迦さまが存命の段階でこのような細かい取り決めができていたとしたらお釈迦さまマジ天才やんけと思った。
およそ2500年前の、しかも宗教とはちょっと考えられない事だと思う。
近い時代だと始皇帝で有名な秦かな。
もっと古い時代だとバビロニアのハンムラビ法典とか。
でもそれらは国家の運営に関わる事だからニュアンスが違う。
仏教の律だと出家社会を維持する対外的なものなので、僕らが想像する教祖様のお言葉的な宗教あるあるとはだいぶイメージが違う。
そうなると、お釈迦さまはどこまでを見通して仏教を立ち上げたのだろうか。

とはいえ、現代の日本の仏教にはどの程度浸透しているのだろうか?
律自体はかなり事細かく決め事があって、どんどん増えたようだけど、現在でもその見直しやアップデート、そして罰則はなされているのだろうか?
僕は今のところ聞いたことがない。
法律というと時代や価値観の変化によって適宜調整するものだと思うのだけど。
えっ?改訂されてない?
それって日本国憲法よりも改訂できてないってことじゃ…


次回は「仏教哲学の世界観 1-22」
今回の解説にあった「3:パーティに誘われた」についての補足。
僧侶として遊びではない参加をする場合は?というお話です。
出家者ならではの一般社会との付き合い方とは?


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