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【015】仏教学習note【仏教哲学の世界観1-15】

こんにちは。
このシリーズでは僕が仏教について学んだことを記しています。
なお、僕は仏教について何にも知りません。

仏教学者で花園大学の教授をなさっている佐々木閑先生のYouTubeでの講座を見て、その内容をまとめています。

もちろん僕の主観によるまとめなので色々と解釈の違いや間違った理解があるかと思います。
それはXなどでご指摘いただけると幸いです。

あくまでも大学生の受講ノートみたいなものだと考えていただけると幸いです。


前回は「出家とはなにか」という解説でした。
一般社会が馴染めない人にとっての行き着く先としての独自社会。そこで苦しみから逃れる方法について学び、実践する場所に参加する。これが出家の意味でした。
また、仏教における出家は(一応の儀式はあるものの)基本的に出入り自由なもので、短期的に出家し、また一般社会に戻る事も可能にしています。

普通に生きていくことができない人が出家し、修行僧(お坊さん)になるわけですが、極めて特殊な例として日本のお寺は世襲制となっています。
お坊さんの子供がお坊さんになること自体は問題ないですが、大切なのはお釈迦さまの弟子であるという自覚と、教えを学び伝えるという覚悟が必要であるという点でした。

今回は引き続き「出家」について、そして「仏教がある」とはどのような状態か?という解説です。


仏教哲学の世界観1-15

https://youtu.be/ndy3evteh7M?si=0k7R8kbvMd0cc-VP

AIによる要約

  1. 出家と一般社会の違いについて

  2. 出家と一般社会の関連性と原理

  3. 仏教の起源とお釈迦様の慈悲の心

  4. 仏教の初期の形成と弟子たちの集団

  5. お釈迦様の教えと弟子たちの学び

  6. お釈迦様の教えと仏教の継続性

  7. お釈迦様の教えの存続と修行者の存在

  8. 仏教の酋長としての教育制度の重要性

学習したこと

出家とは

出家とは一般社会が辛いと感じる人が入る世界である。
とはいえ、一般社会との根本としての違いはない。
あるのはあくまでも生き方の選択の違いでしかない。

したがって、出家したからといってそれが尊いだとか、聖なる行為という事にはならない。
出家を聖なる世界、一般社会を俗な世界などと言う人もいるが、これは間違いであり、どちらが価値があるかないかということではない。

お坊さん(つまり出家した人)は偉いわけではない。
あくまでも自分の心を正しく改良し、お釈迦さまの教えに従ってより苦しみを消すことができた、正しく向上することができた、という人が偉いのであって出家したからといってその人が特別な人間になるわけではない。

独自の価値観で生きる人の、一つの事例として出家を理解する

一般社会に生きる人にとって、出家者の生活を知ることに意味がないように思われるが、実は根底には生きるためのヒントが隠されている。
一般的な価値観で生きるのではなく、自分で決めた独自の価値観で生きていきたいと思う人は本質的に出家を望む人と同じである。
したがって、その人たちがどのようなライフスタイルを構築していけば自分独自の価値観で生きていけるか?
そのような一つの事例として仏教の出家の姿がある。

つまり、仏教の出家を理解するということは、
誰もが自分の中にある自分だけの価値観を持って生きていく方法の参考例の一つとして見ることができる。

一般社会とも関連がある仏教における出家の背後には原理があり、それを理解し自身の価値観に応用することが重要である。

仏教における出家社会の誕生

お釈迦さまは自分で自分の心の苦悩を消したいと願って修行に入り、自分の心を変えるという努力をした結果、ついに悟りを得た。
この経験をお釈迦さまは他の人にも伝えたいと考えた。

これを「慈悲」という。

これによって仏教が始まった。
お釈迦さまは最初に五人の弟子を持ち、その後次第に弟子は増えていった。

お釈迦さまをリーダーとして中心に据え、修行を願う弟子たちが増えて集団ができあがっていった。
この集団はお釈迦さまの経験談を聞きながら追体験したいと思う人たちの集まりであるので、みながバラバラに好き勝手な修行を行うわけではない。
そんなことをしてしまえばお釈迦さまが辿った道の追体験はできないからだ。

どのようなことをして
どのような努力を続けることによって
どのような結果を得たのか?

悟りへ至った体験の全てを、まずはお釈迦さま自身から聞かなければならない。
つまり、仏教という宗教の最初のステップは「話を聞く」ことになる。

そして話を聞いた上でやってみる。

うまく行かなければお釈迦さまに聞いてみる。
お釈迦さまはそれに対して懇切丁寧に質問に答える。
そしてまた指導を行う。
これが弟子たちにフィードバックされ、次のステップへ向かうことができる。

すなわち、お釈迦さまとは悟りへのインストラクターであったと言える。
なお、お釈迦さまは生前に教えられることは全て教えたと話したとされる。


仏教が「そこにある」とはどういうことか

お釈迦さまは80歳で亡くなったが、その当時の考え方であった輪廻「生まれ変わり」はしない。
悟った人は生まれ変わらない、というのが仏教の大原則なので、お釈迦さまが亡くなった以降はその教えしか残らない。

仮に仏教がお釈迦さまという人物そのものが最も重要な宗教であったのならば、お釈迦さまが亡くなった時点でそのベースは崩れ落ちる。
しかし、仏教にとって最も大事なのは、お釈迦さまの実在ではなく、教えそのものである。
これが残ってさえいれば、仏教は何一つ失ったものはないということになる。

お釈迦さまが死去しても仕組みは

このように、仏教にとって一番大事なのは、拝む対象としてのお釈迦さまではなく、お釈迦さまの教えが存続しているかどうか。そしてその教えに従って自分自身を変えようとする、お釈迦さまの追体験を願う人がいるかどうか。
これが仏教という宗教が「いま、ここにある」ということの意味である。

結果として形成された仏教の組織形態

このようなことから、
仏教とは教育をベースとした宗教組織であると言える。
時代が変わり、世代が入れ替わっても、その教えが次々に継承されるということが仏教の重要な要素となる。
いくら立派な仏像や書物があったとしても、その教えが引き継がれていなければ仏教は存在意義を失う事になる。

お釈迦さまの教えを自ら学び、追体験を願って修行する人。
このような人が存在しない場合、仏教は滅んだことになる。

感想

仏教の出家社会を参考にして、一般社会において応用するとなるとどういうケースが考えられるだろうか?
根本的には社会に流されずに自分が思うままに生きていく方法ということになるのだろう。
広告なんかでよくみかける
「ワタシらしい生き方」
的なものだろうか?

僕の場合だと、会社員がとことん性に合わなくて、自分が働きたい時に働いて、働いた分だけ稼ぎがあるフリーランスという道を選んだ。
まあこれも一種の出家…と言って良いのかな?

今だとインフルエンサーのサロンに入る感じだろうか?
胡散臭さで爆発しそうだけど。

出家って、要するにコミューンの形成だよね。
僕は前から「近い価値観を持つ人たちだけで集まって村を作った方が楽しそう」と思っていたけど、そういう考え方に近い気がする。
でも今回のお話であったお釈迦さまを中心に、とかお釈迦さまの教えを中心に、というのは現代ではどうだろうか。
さっきのインフルエンサーのサロンみたいに教祖とかカリスマに頼ることになるのは僕は好きになれない。
近い価値観の人たちがそれぞれ自由に助け合って居心地の良い場所さえ確保できればいいのだから。
大体そんなのはカリスマが死んだり辞めたらそこで終了だし、そもそも時代によって全然別物に変わるのだから絶対的な軸足にはなれない。

元嫁に出家されても僕はいまだに「救いを求めてカリスマや組織に頼る」人の気持ちが全然理解できないのだ。
たとえそれが「慈悲」によって成立している島社会であったとしても、結果的にそれは「ワタシらしい私」という幻想を背負い込まれてるだけに見えてしまうのだ。

恵まれているからわからないんだ。
という意見が出そうだし、そう言いたいのはわかるのだけど、結局苦しみを肯定し、乗り越えて自分の価値観で生きていけるように鍛えるか工夫しなければ、翻弄されて人生が終わるだけだと思う。
参考にすることはあっても身を委ねてはダメなのだ。

こういう考え方はニーチェのいう「超人」というやつなのかな?


次回は「仏教哲学の世界観 1-16」
出家社会の仕組みについて。
集まってきたお弟子さんたち(=無職)の集団をどのように維持していたか?というお話。


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