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仕事に活かせる中国古典

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数千年の風雪に耐え、今なお世界中で評価されている中国古典。現代を生きる私達が「よい仕事」を取組むにあたり、どのような中国古典の教えが活きるのかご紹介できればと思います。
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#論語

になうものは重く、道は遠い

曾氏いわく、「子はもって弘毅(こうき)ならざるべからず。任重くして道遠し。仁もっておのれが任となす。また重からずや。死してしかして後やむ。また遠からずや。」(論語、奏伯第八) 「学に志す士は心がひろくつよくなければならない。になうものは重く道は遠い。仁を自分の荷として負うのだ、重くならないはずがあろうか。仁を背負って死ぬまで道を行くのだ。なんと遠い道であろうか。」 この一節は、戦後の東京裁判で唯一、文官として絞首刑となった広田弘毅元首相の名前のゆらいとなっているものです。

リーダーに求められるのは「AもBも」

子はおだやかにしてしかもはげし。威あってしかもたけからず。うやうやしくもしかも安し。(論語、述而第七) (先生は温和できびしさがあり、威厳はあるがたけだけしいところはなく、礼儀正しく丁寧だが安らかできゅうくつなところがない) リーダーにもとめられる素質ってなんなのでしょうか。なにが必要だとおもいますか。 温和なことなのか。 きびしいことなのか。 威厳があることなのか。 たけだけしいことなのか。 礼儀正しいことなのか。 堅苦しくなく、おおらかなことなのか。

目につく人のよくない所は、自分にもあると考える

子いわく、「三人あゆめば、必ず我が師有り。その善き者をえらんでこれに従う。その善からざる者にしてこれをあらたむ」(論語、述而第七) (先生がいわれた。「私は三人で行動したら、必ずそこに自分の師を見つける。他の二人のうち一人が善い者でもう一人が悪い者だとすると、善い者からはその善いところをならい、悪い者についてはその悪いところが自分にはないか反省して修正する(どこにいても師はいる。我以外皆師である)。」) どうしても人間なので、人のよくない所を見てしまうと、そこに目が行き、

始めから好きや楽しい学びはないのでは

子いわく、「これを知る者はこれを好む者にしかず。これを好む者はこれを楽しむ者にしかず」(論語、雍正也第六) (先生がいわれた。「学ぶにおいて、知っているというのは好むには及ばない。学問を好む者は、学問を楽しむ者には及ばない。」) 論語の中でも、有名な一節の一つです。 確かに、ここに書かれている通りで、学ぶことは、好き、好きよりも楽しむくらいでないと入ってこないかなと感じます。私は歴史を学ぶことが好きなのですが、就寝前に歴史の本を読むことは、もはや楽しみになっています。

リーダーとして、余計な恨みは買わない

子いわく、「伯夷、叔斉、旧悪をおもわず。怨みここをもってまれなり。」(論語、公治長第五) 先生がいわれた。「伯夷と叔斉は(不正を憎んで餓死を選んだほど潔癖な兄弟だが)、古い悪事にいつまでもこだわらなかった。そんな度量の大きさがあったから、人からうらまれることも少なかった」 よくないことは、よくないこととして指摘することも大事ですが、いつまでもそのことを言い続けると、相手が悪いことを自覚していたとしても、よいようには思いません。 「君主論」を書いたマキャベリは、リーダー

次から次へと流すように学ぶのではなく、学んだことを実践する

子路、聞くこと有りて、未だこれを行うことあたわず。これ聞くこと有るを恐る。(論語、公冶長篇) (子路は、何か有益なことを聞いても、それを自分でできるようになるまでは、さらに何かを聞くことをおそれた(子路は、知るだけで満足する者とはちがい、自ら実践することを重んじた)) 自分が知らないことがあまりに多すぎることを自覚しているので、できるだけ多くの本を読んだり、色々な人のお話しも聞くように心がけているつもりです。 しかし、時々、本当に読んだり、聞いたりしたことを実践できて

朝に正しい道を聞いたからと言って、本当にその日の晩に死んでもよいということではないのでは

子いわく「朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」(論語、里仁第四) (先生がいわれた。「朝に正しく生きる道が聞けたら、その日の晩に死んでもかまわない」) 論語の中でも非常に有名な一節ながら、正直今でも捉えどころが難しいと思っている一節です。 素直に読むと、「正しい道を聞くことは、その日の晩に死んでもかまわないくらい、とても素晴らしいことだ」ということを孔子は言われたいのでしょう。 また、正しい道を聞くということは、そうそうあることではない為、そんなことがあれば死ん

歴史を知ることで、現代が決して普遍的でないと知り、新しいものを理解できる

子いわく「故(ふる)きを温(たず)ねて新しきを知る、以って師となるべし」(論語、為政第二) (先生がいわれた。「古き良きことをわきまえ、新しいものの良さがわかる。そんな人は、師となれる」) 論語を元にした有名なことわざや四字熟語は沢山ありますが、「温故知新」はその一つです。歴史や遺産を知ることにより、新しいことを理解することとして使われることが多いと思います。 歴史を知るということは、時に新しい時代を生み出すことがあります。 江戸時代、日本は幕府や藩に分かれていました

2022年が暮れ行く中での反省

子いわく「人のおのれを知らざるをうれえず、人を知らざるをうれうるなり」(論語、学而第一) (先生がいわれた。「自分をわかってもらえないと嘆くより、人を理解していないことを気にかけなさい」) 2022年も暮れ行く中で、自分を改めて振返る心境になるのですが、 つくづく自分にはまだまだ他の方から謙虚に、素直に学ぶ努力が足りないな、と反省しているところでした。 他の方が言われていること、取り組まれていることに実は素晴らしいものが沢山あるのに、それを謙虚、素直に取り込め切れ

中庸であり続けるために大事なこと

子いわく「中庸の徳たるや、それ至れるかな。民すくなきこと久し」 (論語、雍也第六) (先生がいわれた「過不足なく極端に走らない中庸の徳は、最上のものだね。だが、人々が中庸の徳を失って久しい(残念なことだ)」) 儒教は、「中庸」であることを大事にします。言い方が難しいですが、バランスが取れ、この文にあるように過不足なく極端に走らないことを大事にしているのです。 歳を多少経て思いますが、人間は素の状態だと、どうしてもその人の志向、性向などにより偏りやすいのではないかと思う

思いやりやいつくしみも、学び、努力し続けることが大事では

子いわく「回やその心、三月仁にたがわず。その余はすなわち日月に至るのみ」 (論語、公治長第五) (先生がいわれた「顔回は、三月も仁の徳から離れることはない。そのほかの者では、一日か一月仁の徳に触れるだけで永続きしない(仁は身についていることが大切なのだ)」) 孔子は、数ある弟子の中でも顔回という弟子を最もかわいがっていました。論語を読むと、少々顔回も恥ずかしがるのでは、と思うほど顔回のことをほめあげています。現代でも使われる「一を聞いて十を知る」は、孔子が顔回のことを評し

「当社の社員は真面目な社員が多いのです」で止まっていませんか

子いわく「十室の邑(ゆう)にも、必ず忠信、丘(きゅう)のごとき者有らん。丘の学を好むにしかざるなり」 (論語、公治長第五) (先生がいわれた「十軒ばかりの村にも、私くらいの忠信の徳を持つ性質の人はきっといるだろう。ただ、私の学問好きには及ばないというだけだ(人は学んではじめて向上する。生来の良い性質だけではだめなのだ)」) 多くの経営者様とお話しする機会がありますが、多くの方が「当社の社員は真面目な社員が多いのです」と言われます。「当社の社員は不真面目な社員が多いのです」

考えすぎるよりも、実行に移してから改めて考える

季文子、三たび思うてしかる後に行う。子、これを聞きていわく、 「再びせばこれ可なり」(論語、公治長第五) (魯の家老の季文子は、三度考えてからはじめてそれを実行した。先生はこれを聞かれて、「(考えすぎるのもよくない)二度考えたらやるべきかどうかはわかる」といわれた) 自分自身も気づかないところでそうなっていることがあるかもしれませんが、なかなか実行まで時間がかかる方というのはいるものです。そうした方に、なぜ実行されないのか聞いてみると、色々と考えている中で、結局動き出せて

心を引き締めていない時ほど失敗するもの

子いわく「約を以ってこれを失する者は、すくなし」(論語、里仁第四) (先生がいわれた。「心をひきしめていて失敗する人は、ほとんどいない」) お恥ずかしい話ですが、社内のミーティングではあるのですが、先日ミーティングが早朝にあることを失念していて、オンラインで参加者からの連絡がありミーティングに気づき、10分遅れで参加しました。 当然のことではあるのですが、こういうミーティング失念はほぼ無いのですが、やはりこのような事が起きる時には、緊張感がない時が多いものです。実際、