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目につく人のよくない所は、自分にもあると考える

子いわく、「三人あゆめば、必ず我が師有り。その善き者をえらんでこれに従う。その善からざる者にしてこれをあらたむ」(論語、述而第七)
(先生がいわれた。「私は三人で行動したら、必ずそこに自分の師を見つける。他の二人のうち一人が善い者でもう一人が悪い者だとすると、善い者からはその善いところをならい、悪い者についてはその悪いところが自分にはないか反省して修正する(どこにいても師はいる。我以外皆師である)。」)

 
どうしても人間なので、人のよくない所を見てしまうと、そこに目が行き、時にはよくない感情をもつものです。
 
しかし、時々思うのですが(時々ではうよくないのでしょうが)、自分が見えている人のよくない所が、自分にもあるのではないかと思うのです。
仮にその人がよくない所が出ているところでは自分はよく振舞えていたとしても、もしかしたら場所や所が変われば自分も同じくよくない所が出ているなんてことはあるものです。
 
そうだとすると、その人に対して自分がよくない感情をもっているように、自分も気づかないところで同じようによくない感情を持たれていることもありうるのです。
 
だから、人のよくない所を見て、そこに目が行ったときは、自分自身も同じような所がないのか反省しないといけないなと思います。
 
また、これは多少歳を経てきて思うのですが、自分自身がよくない感情をもたれたくないと思うのであれば、人のよくない所に目がいった時も、よくない感情ではなく、できるだけ優しく受け止めてあげることが大事なのではないかと思うのです。
 
そうした寛容な気持ちをもつことが、巡り巡って自分も含めて他者を優しく受け止めることができる、寛容な社会に繋がるのではないでしょうか。
 
その出発点は、人のよくない所が目についたときに、それがその人のことだけではなく、自分自身にもあることだという気づくところからくるのではと思います。

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