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中庸であり続けるために大事なこと

子いわく「中庸の徳たるや、それ至れるかな。民すくなきこと久し」
(論語、雍也第六)
(先生がいわれた「過不足なく極端に走らない中庸の徳は、最上のものだね。だが、人々が中庸の徳を失って久しい(残念なことだ)」)

 
儒教は、「中庸」であることを大事にします。言い方が難しいですが、バランスが取れ、この文にあるように過不足なく極端に走らないことを大事にしているのです。
 
歳を多少経て思いますが、人間は素の状態だと、どうしてもその人の志向、性向などにより偏りやすいのではないかと思うのです。
 
楽をしたい、楽しいことをしたい、という志向であれば、素の状態であればそちらの方に偏りがちになります。しかし、世の中を生きていれば、楽をする、楽しいことをするだけだと、その後に大変な思いをすることは多々あります。
 
一報で、ストイックに学習や仕事をするという志向であれば、これまた素の状態だとそこに埋没するかもしれません。
 
これは一見悪い事ではないかもしれませんが、これはこれで自分の身体を壊したり、周囲との関係を難しくすることもあるかもしれません。えてしてこういう人は、周囲にも同じようなことを望みがちなものです。
 
極端に楽をしたい、楽しいことをしたいに走らず、また一方で極端にストイックにならない。両方の真ん中をいくことが「中庸」なのだと思いますが、どうしたらそうなるのでしょうか。
 
正解がある訳ではないと思いますが、私は意識して極端に走らないように心がけるしかないのかな、と思っています。
 
どちらか片方に偏りそうな時に、「ああ、これではいけない。もう一方の方に少し傾けてみよう。」という調整を常に図っていく、ということが大事なのではないでしょうか。
 
そうした心がけは終わりがあるものではないのだと思います。人が活きている限り、この心がけをしていくこと。ただ、それが難しいがゆえに、孔子も「最上のもの」と言っているように感じるのです。

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