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『”陰キャ”だがカッコいいヒーロー』としてのシン・ウルトラマンと、表裏一体のセクハラ描写問題について。

順調に大ヒットへの道を歩んでいるらしい「シン・ウルトラマン」ですけど、僕も公開数日後ぐらいに見てとても感銘を受けました。

個人的に凄く「新しい」と感じたのは、端的に言ってウルトラマンの振る舞い方なんですよね。

無意味に熱血な感じじゃないが心の底に熱い気持ちを秘めているキャラクター性。

そしてそのキャラクター性が、ウルトラマンの「動き」にも凄く結晶化されて表現されてる感じがして。

昭和のウルトラマンって、もっと「ズアッ!フエァッ!デエァッ!」的にゴツゴツした気合いをかけて動くようなイメージがあったんですけど(実写だしね)。

シン・ウルトラマンは、立ち姿からしてスラッとして仏像のように美しくて、重力操作によって動くという設定もあってもっとスパァー!ってスムーズに動くじゃないですか。

SNSでのシン・ウルトラマンの感想を見ていると、「ウルトラマンを知らないはずの子供が夢中になって見ていた」っていうコメントを沢山見かけるんですよね。

それはつまり、その「シン・ウルトラマンというキャラクターとその動き」自体が子供の目から見ても非常に斬新で「純粋にカッコいい」理想像として描けていたということではないかと。

単に「高齢世代の思い出蒸し返し映画」ってだけじゃなくてね。

昔「ターミネーター2」で液体金属アンドロイドが出てきた時に「なんじゃこりゃ!」ってなったように、エヴァンゲリオンが最初に出てきた時に「ロボットなのに生命的な動き!」っていうのが衝撃的だったように、シン・ウルトラマンの造形自体がそういう「斬新なコンセプト」だったと言えるはず。

そしてそのウルトラマンの時の動きの斬新さと、人間の時の神永新二のキャラクター性が合わさることによって、言ってみれば

”陰キャ”だけどカッコいいヒーローというコンセプト(そしてそれを周囲がどう活かしてやれるか)

…を表現しているのがシン・ウルトラマンの斬新さではないかと思うんですよ。

今回記事はその「シン・ウルトラマンの斬新さ」の背後にある日本人が大事にしてきた理想像と「アメリカ型のヒーロー」の違いとか、それが混迷を深める現代人類社会の中で持つ意味とか、あと、実はそれと表裏一体なんですが映画公開直後に話題になっていた「セクハラ描写」問題についてどう考えるべきか?みたいな話をします。

(いつものように体裁として有料記事になっていますが、「有料部分」は月三回の会員向けコンテンツ的な位置づけでほぼ別記事になっており、無料部分だけで成立するように書いてあるので、とりあえず無料部分だけでも読んでいってくれたらと思います。)

1●常に「他人にアピールする動き」をするアメリカ型ヒーローと、内に秘めた合目的性だけに集中する「シン・ウルトラマン」の動き

なんか、最近はどんなコンテンツの受け取られ方も「わかりやすい政治的文脈」に回収してマルバツで点数つけるみたいな事ばかりが横行していて、本来「表現したいこと」というのはそういう単純な文脈的言語化が容易な部分だけではないということが見過ごされがちだと思うんですね。

個人的には庵野作品(…に限らず攻殻機動隊とかのクールジャパン的に世界に受け入れられたコンテンツ)の本当に凄いところは、視聴者が勝手にフカヨミする衒学的な部分ではなくて、エヴァの動きのかっこよさ、街全体が要塞化して連動して戦うメカニックの斬新さ・・・といった部分が超真剣に作り込まれていることだと思っていて。

要は、「人類補完計画とは何か」よりも「既存のロボットアニメとは全く違うエヴァの動きそのもの」の中に「表現したいこと」の一番美味しい部分があるはずなんですよ。(そしてもちろん、人類補完計画云々といった抽象的なコンセプトは、その”エヴァの描かれ方”の中にこそ具体的に表現されていると言っていいはず)

で、そういう視点で「シン・ウルトラマン」を見ると、とにかく動きが斬新なんですよね。

僕は特撮大好き!とか怪獣映画大好き!とか庵野作品の信者!とかじゃないんで、2時間の映画の途中ではちょっと気持ちがダレた部分もあったんですけど、いざウルトラマンが出てきて立ち回ってるシーンはクギヅケになって見てました。

「他人にアピールする動き」としての『がおおお!俺は強いぞおお!』的な表現を常時しがちなアメリカ型のヒーローとは違う、たとえば国宝の弥勒菩薩半跏思惟像のような、深い思索性が動きに体現されているような斬新さがあって。

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広隆寺「宝冠弥勒」(写真はウィキペディアより)

アメリカ型のヒーローが、「ズン、ズン、ズン、ズン」って足を踏み鳴らして近づいていって「どおおりゃああ!」って攻撃するような、「常時演技的に他人にアピールする」動きをするのに対して。

シン・ウルトラマンは武道の達人のようにヒュウッ!と近づいて、急所に必殺の一撃を音もなくザグッ!と入れるようなかっこよさがある。

あるいは敵の怪獣の性質を的確に見極めて、放射性物質が撒き散らされないようにピタッと配慮した合目的な動きをするとかね。

2●昭和の時も本当は表現したかった理想を純粋抽出して再現したウルトラマン

とはいえ、これは「昭和のウルトラマンにはなかった要素」かというとそうじゃないんですね。だから昭和のウルトラマンファンから見ても「斬新だけどこれも”俺たちの”ウルトラマン」という受け取られ方をしている。

公式サイトに、「真実と正義と美の化身」としてのウルトラマン・・・て書いてあったんですが。

なんかアメリカ型のヒーローに対するアンチとしての忍者のような、「ハードボイルド的に自分を抑圧して隠れたヒーロー」って感じでもないんですよね。

そもそもそういう構図自体を無効化したあり方だというか、その人にとってはそうでしかありえないような、ただ単に「体現」している存在とその動きだというか。

昭和のウルトラマンの時に、ウルトラマンのデザインをしていた成田亨氏という人が本来持っていた「理想」(雑誌PENの特集でかなり詳細に当時のデザイン画などから深堀りされていて興味深かったです)が体現されている。

つまり「当時のウルトラマンも本当はこういう理想像を描きたかった」という要素を純粋に抽出して、技術の進歩を利用して実現してるんですよね。

「昭和の時代もあったけど実現しなかった理想」どころか、さっき貼った弥勒菩薩像は7世紀の作らしいので、それぐらい「長い間日本人の中に息づいてきた理想」みたいなものを、「特撮ヒーロー映画」的な世界の中で再構築したのだと言っていいはず。

それは、現代的に言うと

”陰キャ”だけどカッコいいヒーローというコンセプト(そしてそれを周囲がどう活かしてやれるか)

…になっているんですよ。

で、なぜそういう理想像が現代社会に必要なのか?という話をここからしていきたいんですよね。

そもそも、日本社会というものが、「単なるアピールでなく物事の解決に向けた責任感」を持った無数の「陰キャ」な人たちの力をちゃんと発揮できないと回らないタイプの社会だっていうのが単純な理由ではあるんですけどね。

でもそれは、今の人類社会全体にとっても重要な意味を持っているんですよ。

3●「論破ごっこ」「糾弾ごっこ」「悲憤ごっこ」ではない知性のあり方が必要な時代

端的に言って今の時代、他人へのアピールのための「論破ごっこ」とか「糾弾ごっこ」とか「悲憤ごっこ」とかが溢れすぎてるんですよね。

で、結局何が問題でどうすればいいのか?を冷静に深く見極めていくような知性はほったらかしになってしまう。

そうやって「社会変革を目指す側」が「論破ごっこ」しかしてないと、実際の社会は過剰に保守的に、構成員の自由を縛るような方向に動いてしまう。

どんな例をあげてもいいですが例えば、今年も夏と冬に電力が逼迫する見通しの日本のエネルギー政策を考えてもいい。

「結局何がどう問題になっていてこうなっているのか」を冷静に見極める事なしに、犯人探しして溜飲を下げる「論破ごっこ」「糾弾ごっこ」「悲憤ごっこ」ばかりが溢れかえってる状況自体を超えていかないといけないんですよ。

上記記事は前半ちょっと「ウェブ記事風の煽り」をしすぎたと反省してるんですが、後半部分はこの問題について大事な指摘をしてあると思います。

要は、今のエネルギー政策の混乱は、左翼さんが言うように自民党政府が無能だからでもないし、右翼さんが言うように再エネや脱原発だけが原因というわけでもない。

「エコの事しか考えない」グループが「アレもコレも全部思い通りにいったら問題ないはずのプランなのにそれで問題が起きるのは守旧派のせいだ」とゴリ押しして、一方でギリギリ安定供給への責任を持っている人たちが必死に押し返すことで、非常に歪んだ制度になってしまっているのが原因なんですね。

「どちらの理想も取り入れられる最適な制度設計をしていきましょう」というところに話が集中できず、混乱状態の中で安定供給への責任感のない野良ソーラー業者だけが儲かる仕組みになってしまっている。

単に全部東電とかの独占企業が面倒を見る古い制度に戻せ・・・というのではなくて、新時代に対応するための全体的なフレキシビリティを目指してはいきつつ、安定供給の確保のための原資を市場全体で分担できるような制度に変えていくという丁寧に現実のバランスを見た方向へ動かしていかないといけないんですね。

日本社会の現状へのすり合わせの観点もなく現政権を糾弾して溜飲を下げたいだけの無内容な左翼さんも問題ですけど、全部左翼さんがアホだから悪い!って吠えてるだけの国士サマもあと三歩ぐらい踏み込んで自分ごととして物事を考えてほしいところではあります。

こういう問題は日本だけじゃなくて、アメリカなんかも例えば銃乱射事件が起きるたびに大論争になってるけど全然解決できないじゃないですか。

年間700件近くも起きている銃乱射事件の解決は当然必要でしょうが、そのプロセスで「銃文化を大事にしたい人たちの気持ち」に無理解すぎて、彼らを悪魔化して「完全に断罪できる論理」を振り回すから結局相互コミュニケーションが全然できない。必死にお互いを全否定しあうことになる。

アメリカの警察に問題があったとして、制度のどこに歪みがあるのか冷静に議論することなく「やつらがレイシストだからだ!警察予算を削減しろ!」と叫んだかと思えば次の日には「突入が遅れたのは訓練ができてなかったからだ!もっと訓練しろ!」とか言う・・・みたいな「アメリカ人の議論のパターン」では解決できない課題が現代社会には山積みなんですよ。

すぐに「自分を絶対善に置き、敵を最低な悪として糾弾する」構図に持っていくので、「相手陣営が持っている事情を両側から冷静に解きほぐして解決」することができずに必死に水掛け論をやることになってしまう。

そうやって「アメリカという文化」がローカル社会の問題をちゃんと解決できずに「論破ごっこ」「糾弾ごっこ」ばかりを加速させるから、人類の2割ほどもいない欧米社会の外側では、多くの人は「民主主義の外側」で生きざるをえない状況になってしまっている。

結果として、モンスター的に「リベラル派の理想を破壊してやる!」と押し込んでくる勢力も止められなくなってしまう。国際的に見ればプーチンだし、アメリカ国内で見れば「妊娠中絶を禁止させる運動」とか「銃規制に必死に反対する運動」とかね。

欧米的理想を本当に人類社会に実現したいなら、その「理想」を「ローカル社会の事情」と十分にすり合わせて丁寧に実現していくプロセスをちゃんとエンパワーしないといけない時代なんですよ。

「論破ごっこ」「糾弾ごっこ」「悲憤ごっこ」的なカルチャーを超えていかないといけない。

4●「狭間に立つ存在」が持つ、問題をちゃんと見極める知性を社会全体で大事にする

つまり、現代社会には、シン・ウルトラマンのように「狭間に立つ」存在が必要なんですよ。

シン・ウルトラマンは、外星人と地球人の「狭間」に立つ存在として描かれていて、そこで両陣営の単純な構図で物事を見ずに、真実を見極めて動く存在じゃないですか。

先日出した私の本で提唱しているように、「それぞれが持つベタな正義」を超える「メタな正義」を司る存在が必要な時代なんですね。

日本人のための議論と対話の教科書

みんな結局本当に問題を解決することよりも、「かっこよく論敵を攻撃する姿を見せる」ことばかりに集中して議論が果てしなく現実から遊離していく状況を超えていかないといけない時なんですね。

つまり、「本当は何が大事なのか」を党派を超えて冷静に見極めるような知性が必要なんですよ。

そしてその「本当の合目的性」に向かう存在って、作中で寡黙な神永新二が孤立しがちだったように、現代社会でちゃんと「その知性を社会に役立てる」ことが難しいじゃないですか。

すぐに「陣営」分けがはじまって「お前は敵なのか味方なのかどっちなんだ!」っていう論争だけが加速する時代には、そういう陣営分けを超えて「問題自体」にちゃんと立ち向かおうとする機運というのは、それ自体をしっかりエンパワーしていかないと社会の中からすぐに雲散霧消してしまうものなんですね。

”陰キャ”だけどカッコいいヒーローというコンセプト(そしてそれを周囲がどう活かしてやれるか)

この記事でなんどかこう↑書いてきましたけど、これは前半部分の「陰キャだけどカッコいいヒーロー」だけじゃなくて、後半部分の「それを周囲がどう活かしてやれるか」も同じだけ大事なことなんですよ。

5●「セクハラ描写」問題はなぜ起きたのか?

シン・ウルトラマン公開直後、作中の浅見弘子(長澤まさみ)の描かれ方がセクハラだ!みたいな話がSNSで出回っていましたよね。

なんか当時のSNSの雰囲気では「ものすごい変態的なセクハラ」描写があるのかな、って印象だったんですが、実際に見たら全然たいしたことなくて拍子抜けしました。

公開後二週間以上たった今ではほとんどセクハラ云々の話を見かけなくなったのは、まず第一には「実際見たら全然たいした描写ではなかった」ことが大きいと思います。

ただね、あの浅見弘子というキャラクターが「なんか不自然」なのは確かだと思うんですよ。端的にいうとちょっとイタイっていうか。

土俵入り前の相撲取りでもないんだから、「気合い入れる時に自分のお尻をバンバン叩く女性キャラクター」って何?というのは謎っちゃ謎ですよね。

そんなヤツ現代にいるかぁ?って感じだし、「お色気サービスシーン」としても???だし、キャラクター造形としても???と全くよくわからない。

ああいう描写が一瞬でもあれば「この映画はジェンダー論的に問題があります!」と糾弾されて一発アウトになるという環境も硬直的すぎて問題だが、「なんかもうちょっとどうにかならんかったのか」的なズレは確かに存在してると思うんですよ。

そこにある「ズレ」とは何かを考えると、話の構造として「全く新しいタイプのヒーロー」を描こうとするなら、その新しいヒーローを「現実社会と繋ぐバディ」が必要になるという要請があるように思うんですね。

ディズニーのマーベルヒーローに「キャプテン・マーベル」という「フェミニズム的に正しいガールズエンパワーメント映画?」みたいなのがあるんですが、個人的にはその主人公のキャプテン・マーベルさんの造形よりも、その「バディ」である黒人男フューリーの役が凄い良い味出してるなと思ったんですよね。

フューリーという「バディ」の存在が、「新しいタイプのヒーロー」が「その他の社会」と無無理に接続することを可能にしている。

攻殻機動隊で言うなら、「バトー」がいてこその「草薙素子」みたいな感じですね。

なんか、この「バディ」性について考えることは、社会変革をしかけたい側の存在が、単に「正義の押し付け」にならずに受け手側のキャパシティとすり合わせを行う必要性と向き合う意味を持っているように思います。

浅見弘子(長澤まさみ)はそういう役割を期待されていて、神永新二ことシン・ウルトラマンの「バディ」として、人類と外星人という立場の違いを乗り越える熱血コミュ力ウーマンとしてのキャラ付けを頑張ってやったらああなった・・・ってことだと思うんですよね。

その「目的」はわかるけど、「やり方」がイマイチうまくいかなかった結果として、「物凄く敏感な人にはセクハラに見える」一連の描写に繋がったところがあるんじゃないかと。

6●フェミニズムが無責任なアナーキストのオモチャにされてしまいがちな現状を変えていこう

で、こういう時に世の中のフェミニストにお願いしたいのは、というかまあフェミニスト以外も日本社会全体で考えなくてはいけないのは、最先端の「政治的正しさ」理論的に問題な存在があった時に、それを単に「糾弾する」だけじゃなくて「なぜそうなっているのか」を深く理解することなんですよね。

要は、「その社会にとって必要な機能」が何らかあるからそこにそういうキャラクターが造形されている時に、「糾弾」だけやってても解決できない。

そこで「一方的な正しさの押し付け」しかしないと、結局社会の恵まれた特権階級の中で物凄く潔癖主義的なマナーが普及して違反したら一発アウトみたいになる一方で、社会の辺縁部では日本では考えられないような「酷いスラム」的な状況が放置されるというアメリカ型分断社会になってしまう。

「シン・ウルトラマン的な理想像の共有」という日本社会が大事にしたいビジョンがある時に、それを普通の社会と無無理に接続するためには、「不自然に元気な姉御キャラ」が必要になってしまうという状況自体を変えていかないといけない。

上記記事とかでも書いたけど、その「日本社会の末端を、欧米社会の末端のようなカオスに飲み込ませない」ためのアレコレの事情こそが、「原理主義的なフェミニズムと日本社会がぶつかる原因」の部分に共通して存在しているので。

だからその「真因」の方を協力して解決していくメタ正義的な運動を育てていく必要がある。

単純に言えば、「なんか変な女性キャラ」をバディにしなくても「目指したい理想」が共有できる文脈が育っていった時に、今回の「セクハラだと感じる人がいる描写」の問題は本当の意味で解決されるようになるでしょう。

そしてそれは、「アメリカ型のヒーロー」が「アピールのための論破ごっこ」ばかりやっていて結局社会の問題を全然解決できていないという大問題を超える新しい視座として、日本から人類社会への「提案」として機能するビジョンに今後育っていくはずなんですね。

私は普段経営コンサルタントなんですが、クライアント企業で地方の中小企業(かつ地味な分野のメーカー)なのに女性の登用に結構成功してるクライアントが、

・「その女性が差別的な扱いを受けたと”感じた”こと自体は否定しないで受け止めるし、自分たちはそれに対処しようとしているという姿勢は見せる」
・しかし現実的に不可能な理想をぶつけられても困るので、「自分たちの限られたリソースをベースにフェアにやっているという共通理解が持てるようにする」
・「共通の目的」に対してお互いの知恵を出していけるようにする

…という姿勢が大事だと言っていたんですけど。

要は、長澤まさみがやってるキャラ不自然だよねっていう指摘自体はまあ受け止めたらいいと思うんですよね。

ただ、じゃあその代替物が「アメリカ型の理想の押し売り」だったら、「特権階級だけ過剰なマナーに守られて社会の辺境でひどい目にあう人が増える」という欧米型理想が持つ不幸に直結しちゃうので。

そこで「日本社会側が持っている事情」も均等にテーブルの上に載せた上で、「正しさの押し付け」でなく、「同じ目的を別の方法で」というか、「これなら女性から見ても憧れられるキャラクター」を作っていく姿勢が大事だと思います。

「シン・ウルトラマンが持つ理想像」を「普通の社会」と接続するバディとしての役割を実現し、かつそれを見た現代女性が自分を投影しやすいかっこよさを感じられるキャラクター像とは?

↑この問いをちゃんと考えようとすれば、新しいキャラクター像は見えてくるはず。

色んな人の「関係性妄想」の蓄積が試される課題がここにはあるというかね。案外「魅力的なキャラクター」に置き換えることが、今の蓄積でも十分可能なんじゃないかという気もします。

自分たちの「絶対的正しさ」のゾーンに引きこもり、「その人は何を表現したいのか」を理解せずに、減点法で「糾弾ごっこ」をしまくってるとこういう「発展的な対話」が生まれないし、「シン・ウルトラマンが描きたい理想」を大事にしたい人たちからは全部それを否定してくる「敵」として認識されてしまうんですよね。

女性個人で見れば「こういう話」がちゃんとわかる人は男性と変わらないぐらいいる気もしますが、フェミニズムに限らず今のあらゆる社会改革の議論は、「単なる無責任なアナーキストにすぎない存在」に乗っ取られてオモチャにされてしまうことで、本来の目的からどんどん外れた方向にいってしまっている現状を変えていく必要があると思います。

以下の記事↓で書いたけど、鬼滅の刃の胡蝶しのぶさんとかは、アメリカ型の社会運動とは全く違う形でのガールズエンパワーメントの例としてちゃんと機能してると思うしね。

「女なのに柱なんて務まるかよぉ」→「ムム、見てなさいよ!見返してやるわ!」→「うわ〜や〜ら〜れ〜た〜!」みたいなしょうもない話を乱造することなく、一方で「筋力面での女性の非力さ」的なハンデを否定するでもなく、自分の特性を活かして、最後には鬼舞辻無惨戦において「男の柱たち」も決して果たせないほどの役割を担っている。

そういう「社会側の事情や鬼殺隊が培ってきた文化」への敬意と、「女性の活躍」が無意味に対立関係になっていないし、そこで「柱としてちゃんと活躍しているスタイル」がキチンと描かれる純粋なガールズエンパワーメントみたいなのが胡蝶しのぶさんにはあるんですよね。

アメリカ型に不毛な「正しさの押し売り」には抗いつつ、「現代に生きているいろいろな立場の人」がそれぞれ皆乗っかれる話を作っていく事自体は諦めずにやっていきましょうね。

7●「負けるわけにはいかないんだああああああああ(ブチキレ)」描写を超えていこう。

シン・ウルトラマンの作中中盤においてはその「バディ」性が安定しなくて微妙な感じもあったんですが、対ゼットン戦のような終盤ごろには結構「良い連携」も生まれてきた描写があってよかったんじゃないかと思います。

最後の最後、理論的に緻密に計算された勝利への作戦をもとに、神永新二がベータカプセルを起動してゼットンに挑むシーンとかとても良かったです。

個人的に、昨今の日本コンテンツでよくある

「ここで負けるわけには、いかないんだああああああああ(ドッカーン!)」

…ていう展開が苦手というか、ちょっと粗製乱造されがちだと思っているんですよね。

シン・ウルトラマンのゼットン戦では、

「他人へのアピールでなく問題そのものに迫ろうとする静かな意志を持つ存在」

…が深い洞察をもとに問題を理解し、しかも

「それが単に放置されたり独力だけでなんとか解決するとかでなく、周囲が理解した上で、緻密な知性と連動して具体化したプランを作る連携が生まれる」

…という展開があり、その準備をした上で、そして

厳密に策定されたプランをもとに、覚悟を持った主人公が静かな闘志を燃やしてベータカプセルを起動するかっこよさ

…があった。

知的に策定されたプランと静かな闘志を持って、最後の変身をするシーンの神永新二には、「負けるわけにはいかないんだああああああああ(どっかーん)」型の主人公に負けない、それ以上の「熱さ」もあると思うんですよね。

今後の日本社会については、SNSで言われているよりは結構明るい希望を自分は感じているんですが、でもその未来を実現するには「無数の丁寧な対話と問題解決」が絶対必要なんですよ。

アメリカ型に「糾弾ごっこ」をやって社会を前に動かすと、トップオブトップの恵まれたところだけ世界一の成果に繋がるけど社会の逆側はどんどんカオスに飲み込まれていくことになるので。

日本社会はそういう「糾弾ごっこ」から距離をおいて、「本当は何が問題なのか」について丁寧に解きほぐすような作業が必要だし、それを「陣営分け」を超えて真剣にやりきって共有していく社会全体の連携が必要なんですよ。

それは、さっき貼った「7世紀から日本人が大事にしてきた弥勒菩薩像」に結晶化されていたような理想を再発見することになるでしょう。

シン・ウルトラマンは完成度的には完璧とは言えない映画かもしれないが、そういう「斬新な理想」自体は安易な言語化を超えて広く受け入れられていくんじゃないかと思っています。

うまく行けばシン・ゴジラを超える興収になったりするんじゃないかな。

私は経営コンサル業の傍ら文通しながら個人の人生を考えるという仕事もしているんですが(ご興味あればこちら)、そのクライアントのバブル世代のお姉さんが、「私も直撃世代だから子供の頃ウルトラマンごっこしましたよ」って言ってて衝撃を受けたんですよね(笑)

直撃世代は女性でも色んな怪獣の名前とかまで知ってるんだなっていう。たぶんその共有度の「深さ・広さ」はゴジラより数段上なんじゃないかな。

僕はちょっとウルトラマンとは遠い世代ですが、「やたら声が反響する空間での最後のゾフィーとウルトラマンの会話のシーン」みたいな元ネタは一応なぜかわかって感動したりもしたし。

そういう「人々の記憶」と共鳴しつつ、新しい子供の世代には「斬新な動き」自体がクールだ!と理解され・・・というように、人々に愛される映画になってくれればと思います。

それと同時に、「糾弾ごっこ」でない問題解決への意志を社会全体で共有していき、人類社会の分断の裂け目を超えていくようなビジョンを日本発で作っていくムーブメントも育っていくことになるはずです。

その一歩として、とりあえず、以下の私の本なんかもぜひよろしくお願いします。

日本人のための議論と対話の教科書

上記の本は以下で試し読みできます。

今回記事の無料部分はここまでです。長い記事を読んでいただいてありがとうございました。

ここからは、もう少し「論破ごっこ」的な実例をいくつか考えてみたいと思っています。

先日なにかユーチューブでおすすめされた動画を見ていたら、例の竹中平蔵氏が日本経済がなぜ駄目なのか、みたいな事を聞かれて、

「株式会社が農業参入できないというようなバカバカしい規制がはびこっている現状を変えていかなくてはいけない」

…こういうのが典型的に平成時代に繰り返されてきた「論破ごっこ」なんですよね。

この話は私の本でも詳しく書きましたが、確かに兵庫県養父市というところで特区で規制緩和されたのを全国展開するのは見送られたんですが、でも実はそれは「現状でも実はほとんど規制はないに等しい」からなんですよね。

つまり法律的には、「養父市の成功事例」自体は既に日本全国に展開可能なんですが、そのために必要な「丁寧な情報共有と機運の醸成」みたいなのを全然せずに、「日本政府が頭が古くて押さえつけているからできていないのだ」ということにするのが「典型的な論破ごっこ」なんですよ。

昨日毎日新聞でも全く同じことを言ってる学者さんがいたんですけど、こういう「論破ごっこ」をやめていかないといけない。

ここ以降では、そういう「論破ごっこ」を超えたところにある日本経済の着地点へ動かしていくための論点をいくつか深堀りしつつ、最近SNSでやたら叩かれてるのを見るアトキンソン理論への批判はどこが間違っているのかとか、とはいえアトキンソン提言を実現する時にもっと配慮が必要な領域はどこにあるのか?といった話をします。

ついでに、最近見たネットフリックス版の攻殻機動隊で、なんか2045年においてアメリカより日本の方が経済的にマシな感じに描かれているように見えることの現実性とか、その背後にある世界観について考えてみたりもします。



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