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竹中平蔵型の「原理主義的ネオリベ」から距離を置いて、「新しい資本主義」に中身を詰める為の「デービッド・アトキンソン路線」の重要性について。(”キシダのトリセツ”後編)

(トップ画像はウィキペディアと、東洋経済オンラインの著者ページからお借りしました。)

この記事は以下の一個前の記事の続きの「後編」です。

一個前の記事では、岸田政権の「新しい資本主義」は現状「中身が全然ない」のは確かだけど、その中身を詰めるのは「官僚や経営者や論客や研究者や・・・」といった「我々」側がやるべきことなのだ、みたいな話をしました。

トップダウン型に動くアメリカ社会と違って、日本社会は「現場側の工夫の余地」がないぐらいトップダウンにやろうとすると、不満が溜まって余計に邪魔ばかりしてくる勢力が現れる現象があるので。

むしろ「スキマを残して提示する」事で主体的な工夫を引き出して全体的に前進していくというマネジメントスキルが求められる面がある。

それが私個人が「日本の一流大企業とかグローバルな外資系企業」以外の、もっとローカルな日本社会に属する会社相手に仕事をしてきて学んだ「コツ」なんですよね。

そういう意味で、「トップダウン型を目指した安倍・菅」と違って、キシダは「キシダの使い方」に国民が習熟していく必要があるタイプの政権なのだ・・・っていうのが一個前の「”岸田の取り扱い説明書”前半」の記事でした。

この「キシダのトリセツ」後半記事では、実際に「外資コンサル的なグローバルな視点」と「日本社会のローカル側の事情」の両方に触れてきた観点から、現状中身がない「新しい資本主義」というお題目に「中身を詰める」ための具体的な方向性についての提案をします。

(いつものように体裁として有料記事になっていますが、「有料部分」は月三回の会員向けコンテンツ的な位置づけでほぼ別記事になっており、無料部分だけで成立するように書いてあるので、とりあえず無料部分だけでも読んでいってくれたらと思います。)

1●「過剰なネオリベ政策」を無理やり押し込もうとしては反発が起きて逆に「過剰な保護主義」になり、国際競争から徐々に脱落していく「平成時代の日本あるある」を超える方法は?

「前半」の記事でも書いた自己紹介をもう一度させてもらいますと、私は学卒でマッキンゼーというアメリカのコンサルティング会社に入ったんですが、そこで色々と「コレは必要なことだけどコレだけじゃ社会がどんどん分断されていっちゃうな」と思ってメンタルを病んでしまった事があって、その後色々と「日本社会の古層」的な部分と「グローバルな枠組み」を無無理に結びつけるにはどうしたらいいか?を模索する仕事をしてきた人間です。

具体的には、まず「良い大学を出て良い会社に入って」以外の日本社会の色々な実像を実際に見ておきたい・・・ということで、いくつものブラック企業とかカルト宗教団体とか時にホストクラブとかにまで潜入して「働いてみる」経験をしたあと、船井総研という「非常に日本的な」コンサルティング会社を経由して中小企業コンサルティングで独立しました。一方で、「文通」をしながら色々な立場の「今の日本で生きる個人」の人生を考えるという仕事もしていて(ご興味があればこちらから)、そのクライアントには、国内国外に住む色々な立場の老若男女の人たちがいます。

そうやって「多面的」に色々な点から日本社会の実像に触れつつ、それを時々本とかウェブ記事とかでまとめなおす「思想家」としての仕事もしてきている。

で、そういう自分から見て今の日本があちこちでギクシャクしている理由の大きなものは、

「中央で政策を決める層とかグローバルな視点を持って社会の変革を目指す層」と「ローカル社会側の普通の日本人のまとまり」との間のコミュニケーションが壊滅的に通じ合ってなくて、お互い無理やり相手に言うことを聞かせようとしてかなり不自然な話をゴリ押ししてしまいがちになる・・・という点に尽きる

・・・と感じています。

これが、「市場的なもの」をどうやって日本社会に導入していけばいいのか・・・についての、色々な問題に繋がっている。

「過剰にネオリベ的」なものを押し込もうとすると反発が起きて、今度は逆に「過剰に保護主義的」な方向に振れてしまって、社会の新陳代謝が進まずに徐々に国際競争から脱落していってしまう・・・という「平成時代の日本あるある」はそうやって起きているはず。

そこでちゃんと「双方向的」なコミュニケーションが成立した上で、納得づくで「市場的なもの」を適宜取り入れていく事ができれば、日本社会ならではの安定性と、「創造的破壊」型の前向きな変化を両取りできる可能性がある。

それができてこそ、「新しい資本主義」に中身を詰めることが可能となるでしょう。

2●「竹中平蔵」と「デービッド・アトキンソン」の違いから見えてくる「ちょうど良さ」の路線

そもそも、「ネオリベすぎるのは嫌だけど共産主義にも陥らずにいい感じにできたらいいよね」なんて誰でも考えることなわけで、そう簡単に「中身」を詰められるなら人類社会はここまで苦労してないよ、という話ではあるわけです。

ただ、国民側の不満も溜まりに溜まっていて、「さらにネオリベ型の経済改革をやります」というのが政治的に難しくなってきている以上、この「難しいど真ん中の道」には何かしら踏み込まなくてはいけない情勢にはなっていて、結果として生まれたのが岸田政権なのだとは言えると思います。

そういう「大上段の理想論」に実際に中身を詰めていくには何かしら「とっかかり」のようなものが必要なのですが、個人的に色々とウェブ記事などで説明していて、日本政府の意思決定に影響を与えている二人の論客「竹中平蔵氏とデービッド・アトキンソン氏」の「違い」に着目して説明するのが理解されやすいと感じています。

両人とも、「血も涙もないネオリベ」の典型例みたいな理解のされ方をしていて、同じ穴のムジナだと思われているんですけど、私や私のクライアントであるタイプの中小企業経営者の一致した意見として、この両者には「かなり大きな違い」があるんですよ。

両人とも「似たような血も涙もないネオリベ」だと思われてるけれども、実態としては「かなり違う」・・・というこの「違い」に着目することで、「過剰にネオリベでも過剰に保護主義的でもない」とはどういう路線なのか・・・の「中身」が見えてくるはずです。

「竹中平蔵路線」と「デービッド・アトキンソン路線」がどう違うのか・・・を考え、そして「実際に実行したいなら、デービッド・アトキンソン路線をさらに100倍丁寧に実行にうつしていく」ようなことが必要なのだ・・・というのが、「グローバルな論理」と「日本社会のローカル側の事情」との間で20年間仕事をしてきた私からの結論的な「提言」という事なんですね。

話が壮大過ぎて「完璧なプラン」とまでは言えませんが、個人的に結構レアな立場で仕事をしてきて培った視点自体は提供できると思うので、さらにこれを「読者のあなたの視点」からスキマを埋めていって「新しい資本主義」の中身を具体化していければと思っています。

3●竹中平蔵とデービッド・アトキンソンの最大の違いは「競争の自己目的化」

竹中平蔵氏とデービッド・アトキンソン氏の世界観の最大の違いは、概念的な「競争」自体の”神格化”というか”自己目的化”です。

・経済を良い方向に向ける

ことよりも、

・とにかく規制を廃して競争をさせる事自体が善なのだという”自己目的化”

が起きているかどうか、という点にあると思います。

結果として経済が良くなる、ならない・・・という現実感は抜きにして、「競争が不十分」だというところを次々とあげつらって「競争」させさえすればいい、あるいは「それ自体が善なることなのだ」という「倫理観」「宗教の教義」みたいなものが世界中を席巻したネオリベ潮流の中にはある。

結果としていわゆる「底辺への競争」みたいなものが起きて社会の末端が果てしなく買い叩かれることになっても「自己責任」だし、むしろ「それはこの点で競争が不十分だからそうなっているのだ」というさらなる「ネオリベ世界観」の強化になってしまったりする。

実物の竹中平蔵氏がそういう単純な人物かはまた別の話としてありますが、少なくとも「偶像」として彼が機能してここ20年動かしてきた「ネオリベ潮流」の基礎的な部分にはこの「競争の自己目的化」がありました。

一方で、デービッド・アトキンソン氏が言っていることは実際にはかなり違います。たとえば彼の本には以下のようなことが書かれています。

・GAFAのようなアメリカのIT大企業は世界的にも特殊な事例すぎて、「日本企業もすべてこの形になれなければ全部ダメだ」という議論は強引すぎる

・派遣社員をいつでも安い値段で使い捨てられる環境は経営者を甘やかしすぎている。正社員でちゃんと雇えるようにするか、派遣を使うなら正社員以上の高給を保証する構造にするべき

・最低賃金を徐々にあげていって、真面目に働く人がちゃんと暮らせる給料を保証する責任を経営者に持たせるべき

ね?竹中平蔵と言ってることが全然違うでしょう?

彼は世界中で「アメリカ型強欲資本主義の権化」だと思っているゴールドマン・サックス出身ということもあって(あるいはアングロサクソンの英国白人である外見もあって)やたら誤解されているんですが、日本の中小企業の経営経験もある(小西美術工藝社という伝統文化財の修復会社の経営を引き継いでいる)ので言っていることが凄いリアリティがある面があるんですよ。

上記の要約引用などを見れば、ネットでむしろ左派の一部がシェアしまくっているような意見に近いことを、しかもかなり具体的な政策提案付きで発表している人だとわかるはず。

ただ、そういう「彼の真意を理解できそうな層」は彼を「血も涙もないネオリベ」だと思って無視しているし、一方で彼が「日本社会が過剰に保護主義的だ」みたいなことを言うと物凄くSNSで持て囃される状況になっていることもあって、だんだんアトキンソン氏自身が「竹中平蔵と似たような事」を言うようになってしまってきているんですが(笑)

個人的には、彼がリアルな日本の中小企業経営体験とグローバルな視点を往復することで見出してきた策の「真意」の部分をいかにうまく吸い上げられるかが重要なのだと考えています。

なぜなら、結局日本の平均給与を大きく下げてしまっているのは、「大企業の正社員」という「フルスペックの日本人」の部分ではなくて、中小企業であったり派遣社員であったりといった「蚊帳の外」に置かれてしまっている層の部分の数字が大問題であるからです。

しかし、「普段東京にいてグローバルな視点でのみものを考える政策立案者や大企業経営者」は、その「蚊帳の外に置かれている方の日本社会」のリアリティを全く理解していないことが多くて、だからこそ政策が「過剰にネオリベ」か「過剰に保護主義」になっちゃうんですね。

リアルな現状を把握することなく概念的な図式に当てはめてしまうと「両極端な話」しか出てこないんですよ。

だからこそ、「アトキンソン氏がもともと主張していた路線」のような「具体的な体験をグローバルな視点で再構成する」ような案を掘り下げていくことでしか、「新しい資本主義」みたいな大上段の理想の「中身」を詰めることはできないわけです。

4●アトキンソン路線の分析のコアはどこにあるのか

アトキンソン氏の主張は、「政策的な理由から小さすぎる状態で放置されている中小企業を統合することで、マトモな給料を払える会社を津々浦々に作れるように持っていくべきだ」という風にまとめられると思います。

彼は日本人的な感覚からすると強引すぎるような言葉遣いをよくするので、結構誤解されてあちこちから批判されているんですよね。

で、彼の理論への批判として良くあるのは、日本の中小企業の数は国際比較でそれほど多いわけではない・・・みたいな分析だったりします。

ただそういう「アトキンソン批判で定番のロジック」は、「零細企業」と「中堅企業」の違いを一緒くたにしているところに問題があるんですね。

以下の図は、2月9日発売の私の新著において、アトキンソン氏の主張を紹介するにあたって彼の主張のコアの部分を再構成した図なんですが・・・

データソースはOECD

上記の分析を見てもわかるように、大事なのは「零細企業」と「中堅企業」との違いの部分なんですね。だからこそ、例えば「20人」という区切りで分けて分析すれば、「20人未満の企業に務める人の割合」と生産性はかなりきれいな比例関係が見えてくる。

ざっくり言うと

・「中小企業の数を増やすと雇用の数は増えるが平均賃金が下がる」
・「中小企業を統合すると有利になる政策を実行すれば雇用数は減るかもしれないが平均給与を上げられるようになる」

という因果関係があるわけです。

だからこそ、彼が言うような政策を実行すれば「雇用」が減って問題になるのではないか?というのは、今のように少子高齢化で労働人口の激減が大問題である状況では心配する方向が間違っている。

つまり、今の日本に必要なのは「高給を出せる働き口」をいかに作れるかであって、最低賃金を少し上げただけで潰れちゃいます・・・みたいな会社がいくらあってもダメなんですよ。

5●ラストワンマイルの文化的配慮が必要

ここまで紐解くと、

竹中平蔵とデービッド・アトキンソンの言ってること全然違うじゃん

むしろツイッターで左派寄りの人が今の日本社会に文句言ってる内容を具体化したのがデービッド・アトキンソン路線と言ってもいいぐらいじゃね?

というような感じを持ってくれた人も多いと思います。

でもね、凄い誤解されてるんですよね。昔なにかネットのバナー広告で、アトキンソン氏の顔をスターウォーズの悪役みたいに顔色悪くして目を光らせる加工をして

ニッポンの中小企業をツブシマース!

みたいなフキダシがついている保守派論客の広告を見かけたことがあるんですけど(笑)

冗談でなく結構本当に「そういう扱い」をされているところがあって、結局さっきも書いたけどアトキンソン氏本人が、とりあえず「日本が保護主義すぎる」的なことを言いさえすればネオリベ界隈で物凄く持て囃されるので、だんだん竹中平蔵氏と言ってることが変わらなくなってきてしまっているような不幸がある。

なぜこういう齟齬が起きるのか?と考えると、これは思うに、「ラストワンマイル(あと一歩)の文化的配慮」が足りないからなんだろうな・・・と私は考えています。

そこが、「竹中平蔵路線でなくデービッド・アトキンソン路線を、さらに100倍丁寧にやる」ことが大事なのだ・・・という私の提案の大事なポイントなんですね。

6●実はアトキンソン路線は静かに自然に進んでいる

私のクライアントの「優良中堅企業」には最近次々とM&Aで吸収合併しませんか?という提案が持ち込まれるようになっているんですね。

だいたい元のサイズの1割ぐらいの会社が吸収されて、母体から役員がガッと乗り込んでいって、お互いの文化的齟齬が起きないように丁寧に統合して大きくなっていく・・・みたいなことが全国で起きている。

そうすることで、溺れる寸前で必死にもがき続けてなんとか生き伸びているだけだったような会社が生まれ変わり、当たり前のIT投資とか、前向きな攻めの人材育成とか、そういう「高給を出せる体質に転換するための一貫した取り組み」ができるように変化する。

以下も2月9日に出る私の新著からの図ですが、日本のM&A件数は2020年はコロナがあって低調でしたが基本的にはかなり伸びているんですね。

4000件という「実数」が少ないように見えるかもしれないけれども、このデータは大きめの案件のみを扱っていて、かつ「吸収合併」を行う時にM&Aでなく会社は潰して雇用だけ吸収する例も多いため、実数以上にこういうトレンドは起きている実感は現場的にあります(日本の会社の”総数”は順調に減っているが雇用数は逆に増えていることでわかる)。

なにより、同じ白書にあったんですが、日本の中小企業関係者がM&Aという選択肢をかなりポジティブに捉えるようになってきた時代の変化がまず大きい。

「スマホのソシャゲ」でも、実際に運営さんの出した新しい設定を自分で読み解いて配分を考えられる人と、You Tubeで教えてもらった通りにやって楽しんでるプレイヤーがいますけど、要はこの「自力で配分を考えて他人に教えられるレベルの経営力」が日本全国津々浦々で作用していくように持っていく必要があるんですね。

今は「そのレベルの経営力」もない経営者が結構無理やり経営を続けていて、日本人労働者の真面目さにつけこんで死ぬほど働かせて手取り13万円で昇給も見込めない(経営者一族は結構良い暮らしをしている)みたいな例が日本には結構あるという事なんですよ。

話題になってる外国人技能実習生に関するパワハラ問題とかもそういうところから出てきているはずなんで、そういう「普通の良識」を津々浦々に敷衍していくには、単に大都会に暮らしている人が上から目線で「地方は遅れてる」って言っててもダメで、実際に責任を持ってその「良識」を安定的に押し広げてくれる主体をうまく育ててパートナーにしていく事が必要なんですね。

7●「過剰な規制緩和がヤブヘビになりがち」な日本社会に対する「適切な距離感」が大事

上記の私のクライアントの事例周辺から見えてくるように、「アトキンソン路線」は、人工的なインセンティブ政策を押し込まなくても、結構徐々に日本中で起きてきている現象ではある。

ここで「あと一歩」押し込むにしても、日本人が納得する「適切な加減」の仕方が大事なんですよね。

脳天気なことを言うようですが、政府が変に人工的な政策を出して後々反発を受けるよりは、今のまま放っておいた上で「勝手に現場の判断で統合が進む」流れに任せた方がいいのではないか?という気分になるときもあります。

このあたりが、一個前の記事でも書いた「ここ30年ほどの日本社会をアメリカみたいに運営しなくてはという焦り」の結果生まれたコミュニケーションの分断という感じのところで・・・

たとえば「抽象的な宗教理論」みたいなもので「規制緩和というものはいついかなる時も善なることなのだ!」みたいな話になって、無理やり規制緩和をして、結果として「悪どいビジネス」みたいなのが目立ち始めると、日本社会は一緒くたに「そういうのは全部ダメ」っていう気分に振れてしまいがちですよね?

この10年太陽光発電を優遇しすぎて、あちこちの山野が乱開発されて洪水の原因を作ったりしつつ、実際に電力供給の安定性はいまだに旧電力まかせです・・・みたいなことをゴリ押しすると、日本社会はその「エコ的な発電」そのものを物凄く敵視するようになったりする因果関係が明らかにある。

そうなるくらいなら、あまり「政策的な後押し」はせずに、

・「隣村のA社ではこうやったらうまく行ったらしいよ」
・「いいじゃん!うちでもやってみよう!」

というやりとりだけが自然に日本中を駆け巡る回路を、変にイデオロギー的な「敵vs味方」の論戦でかき消してしまわないようにすることが大事なんではないか?と感じているところはあります。

とはいえ、「そおっとそおっと状況を見ながら適切な力加減で背中を押してあげる」的なことができたほうがいいのは確かなので、そこは岸田センパイ頑張ってくださいよ!という領域なんですよね。

岸田政権の「オノでぶった切るようなことは全然できないが、細かいロジックを詰めて適切に力加減をする事はできる」性質は、この「アトキンソン路線を100倍丁寧にやっていく」時にはうまくフィットするのではないかと期待しています。

いまのところ「期待!」でしかないんですけど・・・頼みますよ!岸田センパイ!

8●活躍できる人のパターンが”アメリカ型エリート”に限定されないような配慮が大事

2月9日発売の私の新著では、他にもいくつか「アトキンソン路線を実行に移す時に必要なラストワンマイルの文化的配慮」について考察しているので、ぜひお読みいただければと思います。(この話ばかりしてるんじゃなくてあくまで”第二章のテーマ”ではありますが)

日本人のための議論と対話の教科書(電子書籍ももう出ています。)

この本は以下で試し読みできます。

なかでも、最近思うのが、なぜ「アトキンソン路線」が日本社会から凄い嫌われるかというと、それを単に政策的なプッシュだけで実現すると、

「活躍できる人間のタイプがアメリカ型エリートに限定されてしまう」

みたいな日本社会の危機感があるように思うんですね。

なんか、いわゆる「市場関係者」の独壇場みたいにすると社会が歪む・・・みたいな危機意識があるというか。

新卒で外資金融に入って、そのままマーケット側からの仕事だけをしていて、エクセルで財務モデルを超高速で組み上げるスキルはあるけど、仲間内での雑談ではしょっちゅう「日本ってほんと遅れてるよねー」みたいな話しかしないようなヤツ・・・だけが活躍する社会にしたくない!

みたいな本能的な反発心がある(笑)。

こういう「アメリカ型エリート」に全権を渡す結果としてどんどん「社会の現場レベル」の効力感が奪われていって、トランプ現象のような暴発に繋がっている・・・という因果関係は明らかにあると思うので、こういう「反発」自体にはかなり否定できない意味があると私は感じています。

一方で、「その地域の顔役」みたいな会社が、「日本的な職業倫理感」を崩壊させないように、森の木々の根っこが土壌をしっかり抱きとめているような保水力を維持したまま、「対等なパートナー」として市場関係者と付き合って、一歩ずつ変えていくのなら、そういう「アメリカ社会の分断の根本原因」を避けたまま動かしていくことができる。

「ぶっ壊す!」型のアメリカ的エリートの活躍を羨ましく思う日本のエリートの皆さんにはちょっともどかしいかもしれませんが(あるいはそういう日本社会の基礎的な免疫力のような要素を一緒くたに”家父長制度の残滓”だとか言ってぶっ壊したがっている左派の人もイライラしてるかもしれませんが)、

「グローバル資本主義と直結した領域」が「古い共同体を引きちぎらずに協業できる」様式を現場的積み重ねの中で見出していく

・・・というのは「まさに新しい資本主義ってこれだろ!」という話ですよね?

こういう契約関係が徐々に積み重ねられていくほど、現代人類社会における喫緊の課題に応える最先端のイノベーションはないよ!とすら言えるはず。

それはこないだのこの記事↓で書いた、

https://note.com/keizokuramoto/n/n824c670bf2aa

私のクライアントが、「超頭がいいトップ層だけが全権を握る」形でない製造業DXビジネスを模索している話・・・みたいなのにも繋がってくる。

やっぱり、シリコンバレー型にやるとそのシステムに参加できるのは物凄く頭の良いエリートだけになってしまって、どんどん「現場側の効力感や参加可能性」が限定されてきてしまうところがあって。

逆に「ニンテンドー型の設計思想」といか、「現場に近い人間が予備知識ゼロで使える設計」にするという「ITエンジニアからすればメチャクチャ面倒くさい仕事」をやりきれば、逆にそれをグローバルに展開できる目も見えてくるんじゃないかという予感はある。

以下の記事で書いたように、

日本人がその美点を活かすには、非常にクローズドなすり合わせが必要な領域で徹底的に「かゆいところに手が届く」をやりきったものが、テーマ自体の普遍性によってグローバルにも必要とされる・・・という回路が一番フィットするはずですからね。(日本国内の医療制度というどう考えても国内限定の要素に不可分にコミットしていたはずのエムスリーが、案外日本ベンチャーのグローバル展開の優等生みたいになっているような構造にヒントがあるはず)

そしてこういう「日本社会の古層」と「グローバル」の間を無無理に混ぜ合わせる境界領域をちゃんと掘りぬくことは、日本社会が不自然に保護主義的になる必要が根本的になくなるということでもあるので、そうなってこそはじめて日本社会が「アメリカ型の創造的破壊ビジネス」を許容できる余地も生まれてくるわけです。

「そっちはそっちでがんばれよ!」って話は明らかにあるんでね。

最後の方、ちょっと「経営」の話に興味ない人には??てなる話が混ざっていたかもしれませんが、

「竹中平蔵でなくデービッド・アトキンソン路線を、さらに100倍丁寧にやる」

というビジョンが、少しでも伝わったなら嬉しいです。読者のあなたがおられるそれぞれの立場から、ちょっとずつ足りないところを埋めていって、「新しい資本主義」という人類社会未踏の大イノベーションを実現させていきましょう。

今回記事の無料部分はここまでです。長い記事をお読みいただいてありがとうございました。

以下の部分では、この記事を書いていて思い出した、マッキンゼー勤務時代の話をします。

アトキンソン氏の主張の骨格は、アトキンソン氏の完全なオリジナルというわけではなくて、ある分野の経済・経営分析の中では結構スタンダードな見方でもあるんですね。

私がマッキンゼーにいた頃も、日本政府が主導して日米の有名な経済学者が参加するプロジェクトで、アトキンソン氏とほぼ似たような結論に向かって一心不乱にデータを集めて提言書にする仕事をしていたんですけど・・・

その時に色々と「ショック」なことがあって、メンタルを病むことになるきっかけになった色々な出来事について、少し思い出話をします。

「見た感じ完璧に爽やかなアメリカ型エリート」の裏側にあるぞっとするような一面みたいな話とか、日本社会は彼らの「有能さ」の部分をうまく引き出しながら、彼ら自身の限定的な価値観に引きずられないようにするためには、どういう距離感で接していけばよいのか、という考察をします。

2022年7月から、記事単位の有料部分の「バラ売り」はできなくなりましたが、一方で入会していただくと、既に百個近くある過去記事の有料部分をすべて読めるようになりました。結構人気がある「幻の原稿」一冊分もマガジン購読者は読めるようになりました。これを機会に購読を考えていただければと思います。

普段なかなか掘り起こす機会はありませんが、数年前のものも含めて今でも面白い記事は多いので、ぜひ遡って読んでいってみていただければと。

ここまでの無料部分だけでも、感想などいただければと思います。私のツイッターに話しかけるか、こちらのメールフォームからどうぞ。不定期に色んな媒体に書いている私の文章の更新情報はツイッターをフォローいただければと思います。

文中にも書きましたが、久々の新刊、「日本人のための議論と対話の教科書」発売中です。以下のページで「序文(はじめに)」の無料公開をしていますのでぜひどうぞ。


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さらに、上記著書に加えて「幻の新刊」も公開されました。こっちは結構「ハウツー」的にリアルな話が多い構成になっています。まずは概要的説明のページだけでも読んでいってください。(マガジン購読者はこれも一冊まるごとお読みいただけます)

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