見出し画像

「知床遊覧船事故」の背景を、ロシア現代思想および東浩紀の仕事から読み解く(「誤配がもたらすメタ正義宣言」後編)

(トップ画像はウィキペディアよりロシア思想家ドゥーギンの写真)

これは一個前の記事の「後編」です。

「前編」↑の内容をざっくり整理すると、以下のようになります。

「ロシア・ウクライナ戦争」で無意味に「ロシアをかばうような”低レベルなどっちもどっち論”」言説が蔓延して国際制裁に穴が開かないようにし、その上でそもそもこういう紛争が起きないようにするには、「本質的によく考えられたどっちもどっち論」が必要。そのためにロシア現代思想を紐解く東浩紀氏の仕事をさらに深堀りしていけば、現行の国際社会における問題解決のための新しい視点が持てるよ。『誤配がもたらすメタ正義』という、人類社会の分断を超える新しい視点を、日本発の「思想運動」として作っていこう!

「後編」では、より踏み込んで、

「欧米文明の”辺境”」において「欧米文明と現地社会の齟齬」が生み出す問題にどう向き合うか

…について、私の専門といっていい「経済経営」的な分野と具体的に関わらせながら、考える記事を書きます。

特になんか具体的な例があったほうがいいかと思うので、例の「知床遊覧船」の事故の話を例にあげて考えます。

(いつものように体裁として有料記事になっていますが、「有料部分」は月三回の会員向けコンテンツ的な位置づけでほぼ別記事になっており、無料部分だけで成立するように書いてあるので、とりあえず無料部分だけでも読んでいってくれたらと思います。)

1●欧米から見た”辺境”における「左翼性」が空疎な「とりあえず何でも反対するだけの運動」になってしまう問題。

前回記事でも紹介した東浩紀氏の「ゲンロン6」ではロシア現代思想に関わる色々な思想家が、左から右まで網羅的に特集されているんですが、個人的にはその中でも右派に入れられるドゥーギンの思想に非常に感銘を受けました。(東浩紀氏は他の本でもドゥーギンについてチラホラ語っており、東氏も特にドゥーギンに共鳴する部分があるのだと思います)

ドゥーギンはいわゆる「地政学」分野の仕事で有名な人で、「ランドパワーvsシーパワー」という単語を聞いたこともある人が多いと思いますがそれはドゥーギンの用語だそうです。

ただしドゥーギン自身は、ロシアにおけるプーチン的ナショナリズムの背骨になるような思想を作った人でもあるので国際的にも非常にイメージが悪い部分もある。

しかし、「だからこそ」注目する意味があるというか、「欧米文明の辺境においてドゥーギン的なものが生まれる意味」自体を深堀りしていけば、「欧米文明がその外側でもたらしている歪み」を理解し、それが起きないような対策を考えることが可能になるはずなんですね。

一方で逆に、「欧米文明の辺境における”左翼”思想」って結構しょうもないものになりがちなんじゃないかと個人的には思っていて、それは単純に言うと「欧米と比べてこの国のここがダメだ」というだけになりがち…なんですね。東浩紀氏の言葉でいうと「否定神学」にすぎないものになっちゃうというか。

完全すぎる「理想」を持ってきて「とりあえず今のこの国の現状ではないもの」を求める運動になりがちというか。

もっと言えば、

「どうなったらいいか具体的な細部までよくわからないがとりあえずこの国の今のあり方は嫌だ」

…みたいなものになりがちなんじゃないかと。

まあコレは欧米でも同じかもしれず、たとえば「今の資本主義」が嫌だから「コモン」という概念を持ち出すとしても、それって何も言ってないに等しい感じなんですよね。

その「コモン」を共有してる人が何万人とか何億人という単位になった時の利害関係の調節はどうやってやるんだ!?という問題から逃げ続けているのは、それって「20世紀の共産主義の失敗」にちゃんと向き合ってない、単なる「左派の歴史修正主義」みたいなものにすぎないので。

結局資本主義でやるにしろ共産主義でやるにしろ、その「主義」自体はともかくとして「実際そこに起きていること」は「無数の利害関係の調節プロセス」なんで、その「細部に大量に生起する意思決定をどういう風にやるのか」という「実質」を無視して「コモン」とか言っていても何も言っていないに等しいところがある。

あんまり私は詳しくないですが、「コモン」「アソシーエショニズム」「マルティチュード」…とかどんな用語を持ってきても、

「知識人の内輪のコミュニティの”外側”との人間関係の細部の利害調節をどうするのか」

…という課題から逃げ続けている限り、その透明な用語自体では何も言ってないに等しいという問題がある。

まあだからといって決して「左派は理想ばっかり言いやがって」的に理想を嘲笑うようなことをしたいわけではないんですけど、そこで「理想を蹴っ飛ばされないようにするためにこそ、現実側を差配する人との価値観を超えた対話的要素を大事にしないといけない」わけです。

それを「コモン」みたいな「なんかステキな用語」を発明するだけで「純粋に左派的言論の内側だけであらゆる課題を解決できるという幻想」を振りまくのは無意味なだけでなくてかなり「有害」なんですよ。

なぜならそれは「欧米風の知識人コミュニティの”その外側”に置かれた人たち」の参加可能性を排除し、彼らの効力感を奪い続けることで、回り回って「欧米的理想そのものに反旗を翻す」ムーブメントを不可避的に生み出してしまうからです。

ドゥーギンはそのあたりにかなり自覚的な思想家で、「あらゆるレイシズム(差別主義)からの解放を!」というメッセージの中で、「欧米的な進歩主義」というもの自体が、既に「欧米的中心から辺境を蔑視するような構造」を内包している事を問題視している。

で、さっきも言ったとおりこの「左派のコンセプトの空虚さ」問題は欧米社会でも同じく起きていることではあるんですが、特にドゥーギンが生きているようなロシア(や日本もそうかもしれない)「辺境」でより深刻な問題を生起するんですね。

前編noteで紹介した用語で言えば『悪い場所』=「欧米文明の辺境」においてそれがより深刻になるのは、

「辺境」にいると「欧米先進国じゃこうなっているのに」という理想がかなり現実離れしても延々と出羽守的なことを言い続けられるモラルハザードが起きがち(笑)

…じゃないですか。

欧米の内側でやっていれば、果てしなく理想像を描くにしても「自分たちが」をそれをやらないといけないので、現実離れするにしても限界があるし、とりあえず自分たちのリソースでできることを形にする責任を負わざるを得ないところがある。

一方で「辺境」になればなるほど、「過剰に理想化した欧米の像」というハンマーでただただその現地社会を殴りまくるだけの活動を半永久的に続けることができて、そんなことを言われても「人々の毎日の生活をどう動かすのか」という課題には一ミリも役立たないだけでなく、その社会におけるローカルな課題の解決活動が常に混乱させられ続けてしまうことになる。

結果としてそういうのを放置すると「欧米的理想」そのものを放棄しようとするようなムーブメントを止められなくなってしまう。

欧米社会においては「左派的理想」が意味を持つことも結構あると思う(逆に欧米における右派思想というのは自分たちの特権性にただ乗りかかってるだけの普遍性がないものが多い)が、一方で「辺境」になればなるほど、「そこに生まれる右派思想が普遍性を目指す」時に何らかの意味のある思想が生まれやすいのではないかと私は考えています。

なんか「良い場所」の欧米における左派運動が、『悪い場所』の非欧米社会から生まれる「普遍性を目指してはいる右派運動」と挟み撃ち的に協力しあえる体制に持っていくことが今後必要なんじゃないかと思ったりします。

2●「民族主義ではない保守派思想」が「自民族中心主義」を超える普遍性を持つ

ドゥーギンの面白いところは、「右派・保守派」なんだけど「あらゆるレイシズム(差別主義)を超えていけ」みたいなことを言うタイプだからなんですね。

こういう「普遍性を目指す右派」みたいなのって、日本でも結構あるなと思うところがあって、そういうのをちゃんと育てていくことで、「ガチガチの差別的民族主義」を乗り越えていくこともまた可能になるのではないかと。

日本の右派言論も、「ガチガチの民族主義」みたいなのがある一方で、もうちょい理性的な普遍性を持って、

「本来的に安定した人類社会の運営のために、人々の中にある国や民族といった観念をうまく使っていくことが必要なのだ」

…的な発想からのものがあるじゃないですか。

後者は例えばマイノリティ差別的な事もあまり言わない人が多いし、そういう問題の解決が必要だということにもたいてい同意している。

ただその「差別問題を解消するやり方」において、社会運営上必要な「本能的紐帯」的なものを破壊するようなやり方をしてしまうことの危険性を指摘している事が多い。

そういう思想は、「知的コミュニティの外側との対話チャネル」を残しているという意味において、「欧米から見た辺境」ベースで今立ち上げていくべきムーブメントといえるのではないかと思うんですね。

そして、ドゥーギンの思想の問題は、いざそういう「知的コミュニティの外側との対話的要素」を思想に盛り込む時に、その「実践面における細部のアイデア」が欠けているので、結局やたら高圧的なロシア中心主義的なムーブメントになってしまうところにあるのではないかと。

つまりそこにある欠陥はむしろ「思想内容」の問題ではなくて、「その思想の実践面における工夫の乏しさ」であって、日本においてその「工夫」の部分を積み重ねていくことによって、この課題を乗り越えることができるのではないか?

それが前編から続いて主張している「誤配がもたらすメタ正義」ムーブメントってことなんですね。

「欧米的理想のコンセプト」がその「外部」にぶつかる時に、「本来伝わってくるはずのないノイズ」が東浩紀的に言うと「誤配」されてくるわけですけど、その「誤配」をそのまま否定せずに受け取って、それを「動的な調整過程」の中で取り込んでいく「メタ正義」的なムーブメントこそが今必要とされているのではないか?

で、その具体的な「方法論」的なものとして、私が主張したいのが、「市場原理」的なものを「そのローカル社会のもともとの紐帯」的なものを引きちぎらないように溶け合わせていく、以下のような「アトキンソン路線を100倍丁寧にやる」的なビジョンになってくるのではないかと思っています。

3●知床遊覧船の背後にあるコンサルを否定しているだけでは…

知床遊覧船の事故について、今朝上記のような連続ツイートをしたのですが、要は、社会の「辺境・末端」部分で何か不幸な事件が起きた時に、ただそれを「断罪」するだけではなくなっていかないんですよね。

知床遊覧船に無理なコストカットをさせたのは、少し悪名高い某中小企業コンサルタントではないかと言われているんですが、私はそこと近い業界にいるので、そういう「コンサルタント」がどういう感じの人なのか結構実地にわかるところがある。

で、なぜそういう「不幸」が社会の末端で起きるかというと、「都会のインテリが考える練られた戦略」が、そういう「社会の末端における事情」とうまく「協業」できなくなっているからだと私は感じているんですよね。

だから彼らは、「自分に与えられた武器」の範囲内だけでなんとか頑張ってしまうので、結局色々な不幸が放置されてしまうことになる。

その悪名高いコンサルタントは「社員に素手でトイレを掃除させる」的な施策で有名らしいんですが、ただそれ単体で聞くとバカバカしすぎるように見えるんですが、ただし資本や関係者の知的能力に限界がある主体からすれば、ある程度「社員の献身」を引き出すような文化自体は生存に必須不可欠なものなんですよ。

さっきの連ツイから引用しますが…

要は

「大域的に見た知的合理性」みたいなものを「辺境」で実際に浸透させていくときに、「そのローカルな場の事情」を十分に汲み取りながら溶け合わせていく機能が沈黙してしまっている

…ので、

恵まれた大都会の上澄みだけにおいて物凄く潔癖な文化的ルールがマストになっていく一方で、”それについていけない人”はもうその「知的な仕切り」の「完全に外側」に排除されてしまう

…という構造的な問題が発生している。

必要なのはこの「分断されゆく2つの世界」をちゃんと繋ぐ機能をエンパワーしていくことで、「知的な世界が考える理想」が吹き飛ばされてしないように、しかし「現地社会の深い事情」を排除せずに吸い上げていく「メタ正義」的な解決が必要なんですね。

繰り返すようですが、その「より具体的なレベルの話」については以下のリンクでの「アトキンソン路線をさらに100倍丁寧にやっていく」話を読んでください。

4●知的階級の潔癖主義を3割程度妥協することで、「その範囲に入る人」を増やしていく戦略が必要

で、その時に「現地社会に既にある共同体的なもの」をいかに否定しないで言うことを聞いてもらうか…みたいなことが物凄く重要なんですよ。

なんでかというと、その「古い共同体が持っている良くない部分」をやたら批判するようなタイプの人は、その「現地社会で日々生起する問題」に一時間後には全く興味を持たずに生きているに違いないからです。

とりあえず、現地社会に生まれ育ち、そういう「古い共同体的抑圧」が嫌な人が都会に出てきて「ああいうのって嫌だよね〜」とか言いながら生きられる自由を確保することは物凄く重要なんですよ。

しかし、「大都会と同じレベルの潔癖主義的な文化」を一切妥協せずにその「辺境」においても実現しなくてはならない…という風に押し付けると、その現地社会がとりあえず日々生起する課題を解決するための協力関係を破壊してしまう事になる。

いかにここで「減速ギア」的なものを噛ませながら、水と油のように「混ざるはずがないものを混ぜ合わせる」ことができるか。

「思想A」と「思想B」のどちらが正しいかではなく、「思想A」が持っている現実レベルでの齟齬をちゃんと「誤配」として否定せずに受け取って、現場レベルでの微調整をちゃんとエンパワーしていく…という「動的な変化プロセスこそが本質なのだ」という理解が必要なんですね。

5●「2つの弱者性」を両方取り上げていく議論が必要

こういう時に典型的に問題になるのは、

「あるローカル社会におけるマイノリティ保護問題における”弱者性”」と「そのローカル社会を人類社会全体から見た時の”その集団自体が持つ弱者性”」という「2つの弱者性」の議論がぶつかりあってしまうことなんですね。

例えば日本社会における「性的マイノリティ」とか「女性」とか「その他民族的マイノリティ」的な問題がある。あるいは、そういう属性的な話だけでなく、何らかの「抑圧された弱者性」的なものを捉えて改善を促していく議論がまずはある。

一方で、そもそもその「日本社会」というものをある程度集団的に見た時に、その「社会の末端まで滞り無い運営を支えている紐帯」自体が、この「グローバル社会」の中で風前の灯火的に常に攻撃にさらされている弱者性を持っている。

今のSNSを見ていても、この「2つの弱者性」を押し立てるグループ同士が、「こっちこそが完全なる正統な弱者さまなのだ」という争いをしているんですが、いやいや、これ「どっちも弱者」でいいじゃん?って話なんですよ。

ただ、特にいまの時代の左派運動が理解していないのは、

「最先端の意識高い系基準で見た時の、辺境社会の住人の小さなマナー的問題」を徹底的に糾弾して、「その社会が持っていた紐帯」的なものを崩壊させると、結果としてその社会にいるマイノリティ的な存在も「優しい配慮に満ちた世界から排除された外側」で生きるしかなくなる

…という問題があるんですね。

これは例えば、巨視的な例で言うと、中国政府の強権は確かに問題ですけど、そのお陰で、世界で唯一GAFA的存在に席巻されていない独自IT経済圏を作れている国という感じでもある。

たとえばロシアのオリガルヒとか中東の宗教政権とか問題にされますけど、そういう「コワモテの政権」がないとその土地の資源は欧米の資源メジャーに良いように買い叩かれている可能性はかなり高いですよね。

結局そういうレベルでの「ローカル社会単位の自律性」を温存する姿勢を「グローバル」の側がちゃんと見せていかないと、「その社会の中のマイノリティ問題」を批判することが、単に欧米による帝国主義的支配の為の口実にすぎないかのように思われてしまうことになる。

だからといって不公正を見過ごせというのか?

…と思うかもしれませんが、実際に起きていることはむしろ、

欧米的理想の押し付けが現地社会の安定性を軽視しているので、その理想ごと完全に拒否されてしまったゾーンが人類社会の中に大量に生まれている

…という状況じゃないですか。

むしろ最初から「相手側の事情」に配慮しながら進めれば、全拒否にされてるゾーンが人類社会の大部分を占めていて、欧米社会でも意識高い系へのバックラッシュが深刻です…みたいな現状を変えていけるはず。

欧米社会って人口で見れば2割程度にもならない超特権階級なんで、その「外側」にその理想を押し広げていきたいなら、「物凄く潔癖主義的な理想を無理やり押し込んでは拒否される」のではなくて、「相手の事情を吸い上げつつ浸透させていく」ことが本来的な理想であるのは明らかです。

結局、今の日本で「弱者擁護運動」的なものに過剰なアレルギー反応みたいなものが起きるのは、アメリカならもう希望がないスラム街みたいになっていてもおかしくないところにギリギリ「日本クオリティの秩序」を行き渡らせるための紐帯みたいなものが誰にも保護されずにほったらかしに攻撃を受けまくってるからなんですよ。

「そっちはそっちで非常に崩壊寸前の弱者性を持っているのだ」ということを認めて、そちらの弱者性もちゃんと「表のテーブル」の上に乗っけて議論できるようになっていくことが今必要なんですね。

で、お互いを攻撃しあってないで、「共通の目的」に向かえるような戦線を作っていかないといけない。

「絶対悪の抑圧者」vs「正義のレジスタンス」という構図を無理やりあらゆるモノに当てはめようとする無理を超えていくべき時なんですね。

6●「誤配がもたらすメタ正義」ムーブメントとしてまとめる意味

今は、「お互い相手の事情なんか完全に無視するのが正しいのだ」という宗教の教義みたいなものがまかり通っているので、現実レベルで粛々と改善を積んでいくことができなくなっている。

だからこそ、「そういう問題が起きているんですよ」ということを「思想的に対象化して捉える」運動が必要なんじゃないかと思うんですね。

ネットを見ていると、

「弱者が既得権益者を追求する時には、相手の事情などを勘案したりせずちゃんと言うべきことを言っていかなくてはならない。なぜなら、被抑圧者が強く主張することなく、それが改善されたりすることはないからだ」

…的な言説をアメリカの事例なんかを持ってきて強く主張する人たちに出会うじゃないですか。

で、そういう改善を行っていくことを否定したいわけじゃないんですよね。でも「具体的な改善」を行うには、その社会の安定性をいかに維持して、細かい配慮を積み重ねるプロセスをちゃんとやる必要があるんですけど。

今の日本におけるあらゆる左派運動は、その「協力関係を安定させるための絆」まで引きちぎろうとしてしまっていて、それが結果として「社会のアメリカ的分断」を起こしてしまうのではないかという危機意識からバックラッシュを生み出してしまっている。

結局アメリカでは、特権階級の間で物凄くデリケートな「差別問題に配慮していることを示すマナー」だけが超高度に発達して違反すれば一発アウトみたいになっていく反面、公立小学校の学区ごとに全然予算が違う問題みたいな「格差の根本課題」みたいなのはもう完全にほったらかしになってしまっている。結果として経済格差の係数にしても、階層の流動性にしても、世界的に見てかなり低い社会になっている。

逆にそういう「アメリカの最先端の理想」から一番遠いように見える「日本の後進性」に見えるものが、なんとかギリギリ「みんな一緒」的に地方の恵まれない土地に生きる人たちにも「義務教育レベルのちゃんとした訓練」とか「都会とまあまあ遜色ない医療」なんかを土俵際で維持している。

たぶん、普通に良い大学行って良い就職をした人とかは、そういうことがわかっていないので、端的に「日本の後進性」に見えるものを叩いて排除しようとしてるんだと思うんですが、そこにはまた別の意味での「弱者を守る配慮の源泉」があるのだ…ということが、今は意識化されずに放置されているんですよね。

そのへんを、「意識高い系が嫌いなもの」が必死に埋めている現状があるので、だからこそ「意識高い系の改革」を本当にやりきるには、「そこにあるもう一つの弱者性」を対象化して、その課題にも一緒に取り組んでいくことが必要になる。

要するに「叩きやすいヤツを叩くムーブメント」ではなくて、「辺境社会の実情に合わせて、理想と現実を丁寧にすり合わせていくムーブメント」が今必要で。

「誤配がもたらすメタ正義」ムーブメントとして形にすることで、日本社会だけじゃなく人類社会全体で日々無意味な罵り合いの源泉となっているすれ違いを、「それ自体を課題として認識」して解決していくことが可能になるのではないかと。

これは「ポリコレ的な改革圧力」だけでなくて、「ネオリベ」的な経済改革圧力についても同じで、ただただ「既得権益をぶっ壊せ」とか言っててもなかなか進まないし、無理やりゴリ押しすると社会の基礎的な安定感が崩壊してきてそれはそれで大変なことになってしまうので。

逆に、何度もリンクしてる以下の話のように、

「ローカル社会の紐帯」を引きちぎらないようにしながら、徐々に「市場メカニズム」を効かせていく…ことを社会がエンパワーできるかどうかに、今後の日本の未来がかかっている。

そうやって「辺境部分」と「グローバルな理想」が無無理に接続するようになってはじめて、「日本社会の古層的な部分に抑圧されている」と感じていた知的な個人主義者的人物が、日本社会の中で思う存分自分の力を発揮できるような情勢も生み出すことができるでしょう。

7●まとめ

前編で「グーグルマップ」の話をしましたけど、言ってるのはそれぐらい当たり前のことなんですよね。

「目的地までの9割5分」ぐらいを大域的な知性的配慮で差配することも大事だし、現地に近づいたら現地の事情を生で吸い上げるのも大事ですね!

…という「当たり前のこと」をちゃんとやれていないのが現代社会の問題なんだってことですね。

ただ「もう一つの別の原理で生きている世界」の存在を認めて、「異文化コミュニケーション」をするより、単に攻撃してる方がキャッチーなのでそちらばかりが流行りがちなんですが。

でもそうやって「社会の逆側にいる敵に全部責任を負わせる」みたいな言論だけが人類社会に溢れかえっていると、結局そういうのじゃ問題解決できないよね…という「当たり前のこと」が消去法的に前景化してくるので。

その時に、「誤配がもたらすメタ正義」的なムーブメントの必要性が、人類社会に「発見」される流れにもなるでしょう。

それを、「思想面」においても、あるいはサブカルチャー的な方面でも、経済・経営…面においても、全体的に相互に関わらせあいながら、いかにトータルなムーブメントとして起こしていけるか。

そういう「誤配がもたらすメタ正義」ムーブメントをはじめましょう。

とりあえず、地方の中小企業クライアントで150万円年収アップからはじめて社会全体の課題解決の共通基盤づくりまでを視野に入れた以下の本をお読みいただければと思います!

日本人のための議論と対話の教科書

この本は以下で試し読みできます。


また前編で触れたように、「誤配がもたらすメタ正義」ムーブメントに関連する部分の東氏の思想については、私見ではさきほど紹介した「哲学の誤配」と、東氏本人が最高傑作と自称する「観光客の哲学」がおすすめです。

「哲学の誤配」

「観光客の哲学」

また、もう一つ関連記事として、以下の「ロシアの振る舞いは大日本帝国と似ている」という人が多くいるからこそ日本がやるべきことという記事も「誤配がもたらすメタ正義」入門としての意味があります。

称賛されている「ドイツのやり方」みたいに、「叩きやすいヤツをかっこよく叩いて終わり」ではなく、本当に問題解決を目指さないとダメだということですね。

長い記事をここまで読んでいただきありがとうございました。今回記事の無料部分はここまでです。

ここ以降は、なんか「まとまりのない長い話をする」って重要だと思ったという話をします(笑)

なんか東氏も「長い話をするってことが重要で、それがいずれ量が質に変化する的な飛躍につながる」みたいなことを言ってますけど、僕も最近そういうことってあるなあ、って思ったことがあったんですよね。

最近ウェブメディアからインタビューとか受けること増えたんですけど、6月公開予定のインタビューを受けた時に、最初はその「公開予定のウェブサイト」の形式に合わせて、その分量にまとめやすいようにあらかじめポイントを絞って話そう!って思ったんですけど・・・

なんか、そういう風に話すとそのインタビュアーさんとうまく波長が合わなくて、最初の10分ぐらい凄いギクシャクしてたんですよね。

でもその人は、そういう「まとめるのはこっちでやるから、とにかく深く話してくれ」っていうタイプなんだなあ、というのがわかってきて、それで「まとまんなくてもいいや」と思ってある意味ダラダラと話すことにしたんですけど、そしたらなんか凄い有意義になったんですよね。

思ってもいなかったようなことを色々と話すことになって、自分でも勉強になったな!って感じだった。

こういうのってコンサル的な意味でもある話だなと思っていて、特にコンサルプロジェクトとしては盛り上がっても実現しない絵に描いた餅になるときってこの「ダラダラした話」に含まれる情報を取り込みきれてない時にそうなるんじゃないかと思ったりして…

みたいな、「長い話に含まれる情報」とは何なのか、それを取り込みながら会社単位や個人単位で本質的な変化を起こしていくために必要な考え方は何なのか?みたいな話を以下ではします。



2022年7月から、記事単位の有料部分の「バラ売り」はできなくなりましたが、一方で入会していただくと、既に百個近くある過去記事の有料部分をすべて読めるようになりました。また、結構人気がある「幻の原稿」一冊分もマガジン購読者はお読みいただけます。これを機会に購読を考えていただければと思います。

普段なかなか掘り起こす機会はありませんが、数年前のものも含めて今でも面白い記事は多いので、ぜひ遡って読んでいってみていただければと。

ここまでの無料部分だけでも、感想などいただければと思います。私のツイッターに話しかけるか、こちらのメールフォームからどうぞ。不定期に色んな媒体に書いている私の文章の更新情報はツイッターをフォローいただければと思います。

「色んな個人と文通しながら人生について考える」サービスもやってます。あんまり数が増えても困るサービスなんで宣伝してなかったんですが、最近やっぱり今の時代を共有して生きている老若男女色んな人との「あたらしい出会い」が凄い楽しいなと思うようになったので、もうちょっと増やせればと思っています。私の文章にピンと来たあなた、友達になりましょう(笑)こちらからどうぞ。

また、先程紹介した「新刊」は、新書サイズにまとめるために非常にコンパクトな内容になっていますが、より深堀りして詳細な議論をしている「みんなで豊かになる社会はどうすれば実現するのか?」も、「倉本圭造の本の2冊め」として大変オススメです。(Kindleアンリミテッド登録者は無料で読めます)。「経営コンサルタント」的な視点と、「思想家」的な大きな捉え返しを往復することで、無内容な「日本ダメ」VS「日本スゴイ」論的な罵り合いを超えるあたらしい視点を提示する本となっています。

さらに、上記著書に加えて「幻の新刊」も公開されました。こっちは結構「ハウツー」的にリアルな話が多い構成になっています。まずは概要的説明のページだけでも読んでいってください。(マガジン購読者はこれも一冊まるごとお読みいただけます。)

ここから先は

4,068字 / 1画像
最低でも月3回は更新します(できればもっと多く)。同時期開始のメルマガと内容は同じになる予定なのでお好みの配信方法を選んでください。 連載バナーデザイン(大嶋二郎氏)

ウェブ連載や著作になる前の段階で、私(倉本圭造)は日々の生活や仕事の中で色んなことを考えて生きているわけですが、一握りの”文通”の中で形に…

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?