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爆発的ヒットの鬼滅の刃の「女性作者ならでは」の部分はどこにあるのか?「ルフィとは友達になれないが炭治郎とは友達になれそう」問題と「鬼滅の刃的ガールズエンパワーメント」について

(トップ画像は映画”鬼滅の刃無限列車編”公式サイトより)

(この記事は前後編あるんですが、アクセス数的にこの前編だけ読んで離脱される方が多いみたいなので、これを読み終わったら”煉獄さん”について書いた後編もぜひどうぞ)

いやー、なんか爆発的にヒットしてますね鬼滅の刃。

コミックス販売ランキングで22巻までの既刊本が22位まで独占

っていうニュースと、

映画公開後最初の週末の興行収入が、日本以外の世界中のあらゆる映画興行収入合計よりも大きかった

というニュースが、あまりにもぶっ飛んでいて笑っちゃいました。

僕も半年前ぐらいから徐々にハマり始め、最初は凄い心理的に「距離」があったんですが、今はこの大ヒットが凄く嬉しい気持ちになっています。

私は今41歳で、

キャプテン翼やキン肉マンはちょっと上の世代の漫画という感じ

ドラゴンボール・ジョジョ・幽遊白書はど真ん中という感じ

ワンピース・ナルト・ハンターハンターはちょっと下の世代の漫画という感じ

の世代で、「ど真ん中」の漫画は全巻ちゃんと読んだ・・・というレベルで、上と下の漫画は「だいたい知っているけど、ストーリーを完全に隅々思い出せるかというと怪しい。ワンピースとナルトは読んでいない」という感じです。

で、そういう世代の人間からすると、鬼滅の刃って、「新しくて古い」漫画だなあ・・・って思うんですね。

「ハンターハンター&ワンピース」よりも「ジョジョ世代」に近いというような部分

が結構あるような?でも、

新世代だなあこれは!こんなのジャンプ漫画にはなかったなあ

という要素も凄くあるような感じがする。

なんかそのあたりのことを語りつつ、「鬼滅の刃が今までのジャンプ漫画になかった魅力」はどういうところにあるのか?みたいなことを考えてみたいと思っています。

1●ルフィとは友達になれないが、炭治郎くんとは友達になれそう

私は経営コンサル業のかたわら色んな個人と「文通」を通じて人生を考える・・・みたいな仕事もしているんですが、最初に鬼滅の刃について聞いたのは、上記分類で言えば

「ハンターハンター・ワンピース世代」の、しかも結構若い世代の、ちょっとメンタルの問題を抱えている男

が、

「鬼滅の刃」っていう漫画が最近人気出てきてて、手を出したら凄い良かった。なんか新しい時代の風を感じる。

って言ってたんですよね。なかでも凄い面白かったのが、

うまく説明できないけど、ルフィ(ワンピースの主人公)は友達にいたら凄い苦手なタイプなんだけど、炭治郎は凄い良い友達になってくれそう

って言ってたのが凄い印象的でした。(これ、結構色んな人にふってみたら”わかる!!!”って言ってる人が多かったので、読者のあなたも共感できる発言かも?)

以前、「韓流ドラマ」の主人公みたいに一人の男を「かっこいい」存在に押し上げるために、何十人もの脇役の男を「単なる引き立て役」に貶めてしまうようなのはサステナブルじゃない。その「次」の展開が必要な時代だが、その萌芽があるのが炭治郎くんかもしれない・・・・という記事を書いた↓んですが

・・・それぐらい「炭治郎には新時代のスマートな振る舞い方」を感じるなあ、とは思うんですよね。全方位的にあらゆる人にやさしく、でも「踏み込みすぎずに相手の個を尊重する姿勢」みたいなのがあるというか。

ディスりたいわけじゃないんですが、僕もワンピースは苦手なんですよ。なんか人間関係の距離感が近すぎて苦手というか(笑)

「仲間なんだから助け合うのは当たり前だ!(ドン!)」

(すいません、よく知らないなりのイメージです)

みたいな感じで接されると凄く心理的にしんどい気持ちになる・・・みたいな、個人主義的な人間の心情的距離感の問題で、ワンピースが苦手っていう人多いと思うんですよね。

でも、炭治郎くんは同じ助けてくれるにしても、なんか、もう少し紳士的な距離感で、こちらのペースを大事にしてくれそうな気がする(笑)

君がどうしたいのか、本当の気持ちを言ってみて。どちらにしろ、自分はこうしていくって決めてるけどね。

という距離感だなあ(こういうセリフがそのままあったわけじゃないんですが)・・・と思うわけです。

2●炭治郎くんの「紳士的ふるまい」に新時代を感じる

たとえば、鬼殺隊には、「柱」を筆頭に結構上下関係があって、一種の「モブキャラ」的に黒子の格好をして補給とか伝令とかを担う役割の人たちがたくさんいるじゃないですか。

そういう「縁の下の働き手」さんたちに対する炭治郎くんの態度って凄い素敵だな、って思うんですね。

「仲間なんだから同じだろ?(ドン!)」みたいな感じじゃないっていうか、厳然として上下みたいなのがあって、担っている役割も違うし、そのことからくる色んな心理的問題もちゃんと理解した上で、「それぞれの役割・それぞれの生き方がある」というような理解と敬意を払う感じというか・・・

こういうのを「紳士的」と言うとすると、こういう「紳士的」なキャラクターって、少年漫画には珍しいな・・・と思うわけです。

むしろこういう気遣いに対して、「そんなのいらねーよ!水くせえな!」となるのが一種の「今までの伝統的な男社会のルール」だった、みたいなところがあるような?

鬼滅の刃が女性作者・・・というのは有名な話で、で、色んなタイミングで「女性作者らしさ」を感じるポイントはあるんですが、この「炭治郎のジェントルマンなふるまい」には一番「女性作者」を自分は感じるかもしれません。

色んな人が、こういう「紳士的な振る舞い」の例として「鋼の錬金術師」の主人公を連想しているのを聞くんですが、ハガレンも女性作者なんですよね。

「文通」の仕事で繋がっている人には老若男女いて、鬼滅の刃の話が出ることも結構あるんですが、映画に二回も行ってコミックスも何回も読み返しているほど一番ハマっているのは「3人の子供のお母さんのキャリアウーマンさん」なんですけど、その「女2,男1」のお子さんたちがまず熱烈にハマって、その後「家族で大ブーム」になったけど、男の子より女の子たちの方が「ハマってる度」が段違いに大きいらしいです。(男の子は”進撃の巨人派”だとか)

もっと一般的にはどうなのかな?鬼滅の刃が「男子にはそれほど人気でない」とまでは言わないけど、ジャンプ漫画としては「明らかに女子人気が高い作品」であるとは言える状況なんじゃないかと思うんですが。

3●欧米型フェミニズムとは違う形の「ガールズ・エンパワーメント」

よくネタにされる「長男だから我慢できた!次男だったら我慢できなかった!」っていう小ネタセリフとか、冨岡義勇さんの「泣くな!男に生まれたなら!進む以外の道などない!」とか、連載当初の「鬼滅の刃」って結構こういう「男なら系」価値観のシーンが結構あって、それを凄い嫌がってる「意識高い系」の人の文章を最近ネットで結構読んだんですけどね。(性差別的役割意識を強化する古い価値観に囚われた作品だ!こんなことやっているから日本は世界から置いていかれるんだ!的な。)

まあ、女性が「少年ジャンプ」で連載を始めるにあたって最初期には相当「男の子向け!」的な力みがあったのかもしれませんが、ただ、話を後半まで全部読むと、

むしろ「女性キャラクターの戦闘参加のあり方」が凄い自然で、ラスボス鬼舞辻無惨を倒す作戦において”最重要”といっていいような役割を担ったのがタマヨさん&胡蝶しのぶの「女性化学者コンビ」だったりとか、男と同じぐらい結構グロいダメージを受けて戦うシーンがあったりとか、これはこれで凄く「ガールズエンパワーメント」的なムーブメントがある作品

だなあと感じるところはあります。むしろ女性人気の高い作品・・・というのもわかるというか。

「どこが」と言っていいかはわかりませんが、「ダイの大冒険」のパーティの女性キャラクターとか、あまり知らないなりにワンピースの女性キャラクターとかは、鬼滅の刃よりも「もう少し”お客さん”度が高い」ような・・・(もちろんこれも、”戦うキャラクターは男ばかり”だった時代からの移行期として必要とされていた当時なりの最新形だったのだと思いますが)

最後の方の胡蝶しのぶとタマヨさんってメチャクチャかっこいいじゃないですか。ジョジョ第二部でシーザーが死ぬシーンにも負けない劇的さで。

深謀遠慮と、責任感と、やり抜く意志と、で、どちらも「女性らしさ」的なものを凄く感じる「魔性の」的な魅力もあったりして。

4●差別解消の目的は、差別解消でなくエンパワーメントそのものであるべき

最近思うんですが、フェミニズムに限らずあらゆる「差別解消」的な今のムーブメントって、

「差別解消」自体が自己目的化

してしまっていて、本来の目的であるはずの

「あらゆる人がちゃんとエンパワーメントされて自分らしく生きられるようにすること」

の方への関心が薄くなってしまっているのが問題だなと思うわけですね。

「差別解消」を言い出すのは凄いかんたんというか、何らかの非対称性をあげつらうことができる現象があったら、「ほら!ここに非対称性がある!」って騒げばいい安易さがあるというか。

一方で、本当に「広い範囲のあらゆる個人」をちゃんとエンパワーメントする・・・というのは凄い難しいことで、生身の社会に対する深い理解と筋の通った優しさが必要だったりする。

あらゆる人が強制されずそれぞれなりの「生き方」をどこまでも追求できるようになるならば、ある程度の「参考例」としての規範意識(もしあなたが自分は違うと思うなら別の道を見つけていいんですよ。でもこういうのは古典として結構悪くない知恵が詰まっていますよ)はゼロにする必要はない、むしろ現状はあった方がいい場合も結構あると思います。

要するに何が言いたいかというと、

「柱になっているキャラクターの男女比が不均衡だ!」みたいなことって凄い簡単に言えるわけですよね。まあ確かに男の方が多い。

でもそういうことばかり考えている人って、

「柱」っていう存在になっている人が、いかに無数の「選抜過程で死んでいった同僚」とか、無数の「黒子の服装をして地味な仕事をしている人たち」の「気持ち」をちゃんと受け止めて生きているか?

みたいなことに無頓着すぎるな・・・と思うわけです。

むしろ「柱ならこうあるべき」を説得力ある形で、女性バージョンで描けるのなら、それこそナウシカやクシャナさん(漫画版)レベルのリーダーシップが描けるのなら、別に柱の男女比が女性の方が圧倒的に多くなったって全然いい・・・というのが「男側の感覚」といってもいいような気はします。

そういう「柱ならこうであってほしいという人々の思いを引き受けている舞台裏」へ無頓着すぎる感じで、「女が柱になっていないのは男社会の偏見のせいだ」みたいになるのは、なんか凄い邪悪なエゴって感じがするんですよね。

現状の人類社会は「社会的活動」領域には男の方が歴史的に多かったので、「人間社会におけるあるべきリーダーシップ」を描く時に男キャラの方が「蓄積された文法」が多いから便利ですねってだけなはずなんですよ。

だからちゃんと「女性版のあるべきリーダーシップ」を”本当に魅力的に”描けさえすれば変わっていくのに、「過去のリーダー像に宿っている人間社会の深い知恵」を無視して「単なる抑圧者」だと思っているから、「自分たちのお仲間」以外の本当に広い範囲に尊敬される新しいビジョンも描けなくなっちゃうわけですよね。

そういう意味で、vs童磨戦の胡蝶しのぶの最後とか、vs鬼舞辻無惨のタマヨさんの最後とかは、ちょっと「男社会原理主義者」みたいな人から見てもぐうの音の出ない「柱っぷり(タマヨさんは柱じゃないけど)」というか、さっきも書いたけど「ジョジョ第二部のシーザーの最後」を超える責任感がある感じで。

ちょっと言っちゃなんですが「シーザーの最後」はひょっとすると単なる自己満足に終わる可能性だってある行為だったけど(単に自分がカッコいい死に方をしたい・・・というエゴだと言えなくもない・・・”そういう男のエゴ”を女の人が嫌う気持ちは確かに意味があるとも思う)、胡蝶しのぶ&タマヨさんは「戦略上の圧倒的合理性」を持って千年以上続く鬼と人間の戦いのターニングポイントを自らの手で作り出したぐらいの「凄み」がある。

童磨や鬼舞辻無惨が「遅効性の毒」が効いてきたのに衝撃を受けるそれぞれのシーンとか、「男社会の中だけの争い」では決して生み出されなかった展開だと思うわけです。

単なる「銃後の守り」とかそう言うんじゃなくて、女性だって「それぐらい話全体のコアとなるような重要な責任を果たせるのだ」というストーリーを、「男社会原理主義者」みたいなのですら文句のつけようもない説得性ある展開で描ききること・・・これ以上のガールズエンパワーメントはないんじゃないか

・・・と思ったりします。

確かに鬼滅の刃は、なんか色々と形式的には「性差別」を言い募ることはできるギミックがある作品かもしれませんけど、大事なのは「あらゆる形式的非対称性をゼロにする」ことじゃなくて「生きているあらゆる個人が自分らしさを遠慮なく謳歌できること」であるはずで。

ここで、

「女だから柱なんて務まらないと思ってるのね!私だってやれることを見せてやるんだから!どうだ!」

「クソッ!女のくせに!!俺より活躍しやがって!邪魔してやる!」

みたいなしょーもない話を作る・・・ということを、過去20年のフェミニズムに限らず欧米由来の「差別反対運動」はやりすぎているように思います。

もちろんそういうのが「初期段階」では必要だった経緯はあると思うんですよね。少年漫画で女性キャラクターが戦力になるように変化していくプロセスで「ラッキースケベ」的な展開が必要だったように。

ただ、「それ」って本当に「今を生きている若い女の子」に対してのエンパワーメントになっているのだろうか?というのは、そろそろ再考されるべきことだと思います。

5●過去20年の「他責性のモンスタームーブメント」からは距離をおいていたからこそできる、本当の「エンパワーメント」


・「炭治郎くんの、あらゆる個人を個人として敬意を表する紳士的な振る舞い(特に黒子の人たちや元人間だった鬼たちへの敬意を失わない振る舞い)」

・「単なる男社会への恨み言・・・ではないほんとうのガールズエンパワーメント」

この2つ↑あたりが「鬼滅の刃」の今までのジャンプ作品と違うところ、ひょとすると過去20年ぐらいのあらゆる「欧米由来の作劇トレンド」とも違うところだな・・・と思うわけですが、そういうのがこれだけ「世界的記録」になる大ヒットになっていく・・・というめぐり合わせというか、日本人が共有して「押し上げていっているカルチャー」には凄い希望を感じています。

このnote連載で何度も書いてきているように、黒人差別解消運動だって、「このレベルの視点」まで踏み込まないと、単に現状の社会に対する恨み言を、「警察予算を削減しろ!」みたいな方向で暴発させているだけで改善が進むはずがないんですよね。

「そこ」を無視して全部「警察」とか「社会」とかのせいにして攻撃するばっかりで、「”自分が”、”みんな”の思いをちゃんと引き受けてその新しい秩序を作り出していく」という責任を引き受けようとしないから、巨大な「トランプ的カオス」のムーブメントに足元をすくわれることになるんですよ。

もちろんこれからの日本はいろいろを「変わっていかなくちゃ」いけない事がたくさんあると思うんですが、過去20年世界中を吹き荒れていた「他責性のモンスター」みたいなムーブメントとは距離をおいていたことが、今後「鬼滅の刃型の差別解消エンパワーメント」として花開く結果になればいいなと思っています。

なんせ、結局「他責性のモンスタームーブメントによる民主主義社会の混乱」は、ほうっておいたら「もうじゃあ中国みたいな強権的な社会でいいじゃん」っていう結論に至ってしまう瀬戸際まで来てしまっているわけなので。

最近、日本の「ハフポスト」にあった記事で、日本の田舎に引っ越した都会育ちの女性が、”いわゆる家父長制の残滓”みたいなものについて語るところで、

「確かにこういう制度は、昔は農業生産をちゃんと守っていくために必要なしくみだったのだとは思うが」

みたいなことを「いちおうは」言っている記事があって凄いいいなと思ったんですよね。

要するに、現時点で差別的だと思うあらゆる仕組みが、「当時の社会的には必要な合理性があってできていたものなのだ」と”まずは理解する”ことが大事だと思うわけです。

それは決して、「だからそのまま我慢しろ」という話ではなくてむしろ逆なんですよね。

むしろ現状の今の日本の農村部は、この「田畑の相続とそれに”責任感”をもたせる社会システム」と「現代農業の実情」とのギャップが広がってしまって、そのギャップに落ち込んだところが耕作放棄地として大量にあぶれてしまって大問題になっているわけです。

「田舎の家父長制」が、過去にはそういう「農業生産の安定性を社会的に維持する」ことのためにあったのなら、むしろそれを時代の変化に合わせて「あたらしい合理性」で置き換えましょう・・・っていう話なら、男社会も文句をつけようがないわけです。

これがなんか、ありとあらゆる「形式的非対称性」が、全部「男とかいう邪悪な生き物が女を支配して搾取するために作り上げたものなのだ」みたいな理解で変化を起こそうとするなら、それがちゃんと意味のある「新しい社会の幸せ」に繋がることはない。

もちろんそういう「怨念の塊」みたいな論理でひっくり返しても、「革命第一世代の特権階級」は良い思いをすることはできるかもしれないが、「あらゆる社会の構成員の思い」を徹底的に無視しているので、本当の「社会の調和的幸せ」は実現しない。結果として「トランプ的カオス」との泥縄の戦いを永遠に続けることになってしまう。

いわゆる「アンシャンレジーム」と「新しい完全な正義の俺たち」的な欧米的二分法が歴史的袋小路にぶちあたり、世界的に混乱している中で、「胡蝶しのぶカッコいい!!」的なエンパワーメントが新しい社会のあり方を見出していける時代になるといいですね。

炭治郎くんが、「バンバンに他人を抑圧しまくってるくせにずっと弱者のフリをして恨み言を言い続ける鬼」に対して、

「貴様逃げるな!責任から逃げるな!!お前が今まで犯した罪、悪業、その責任は必ず取らせる!」

って叫ぶシーンが凄い印象的で、炭治郎くんの別の魅力は、凄く「気高い理想ゆえの怒り」をちゃんと正論として敵にぶつけるシーンがたくさんあるところだなと思うわけですけどね。

「文通しているキャリアウーマンさん」の娘さん二人が、男の子以上に「鬼滅の刃」にめっちゃハマっている中で、その「新しい世代」が作っていく文化には希望を凄い感じています。

繰り返すけど「そういう作品」として凄いなあ・・・と思っていた作品が、ここまでの「世界的興行記録」を作って注目されるようになっているのは、なかなか素晴らしいことですね。

今回記事以外にも、「鬼滅」に関して書いた関連記事が2つあるので、そちらも読んでいっていただければと思います。

まずはこの記事の「後編」として、「煉獄さん」について書いた記事がこちらです。

この記事で書いた炭治郎くんと胡蝶しのぶさんとか・・・には、非常に「今までのジャンプ漫画にない可能性」を感じた・・・という話だったんですが。

「煉獄さん」についてはむしろ、「過去のジャンプ漫画にあった理想のエッセンスを、現代的に再生した」可能性を感じる・・・という話をしています。

もう一つはこちらで、

今回記事で書いた胡蝶しのぶさんの活躍のもう一つの側面として、強烈な「個」の柱たちや隊士たちとの間を自分の高いコミュニケーション能力で取り持ってチームにしていく姿勢があるなと思うわけです。

そうすることで、過去数十年の日本コンテンツの大事な要素であった「ツンデレ」的問題が次の段階に昇華していっているのではないか?という話をしています。

今回記事の無料部分はここまでです。

以下の部分では、なんで鬼滅の刃のアニメのクオリティがあんなに高いのか、「そこそこヒット」レベルだった鬼滅の刃の人気をここまでの大爆発まで押し上げた”過去20年の日本人の集合的蓄積”とは何なのか・・・という話をします。

よく指摘されていることですが、鬼滅の刃はアニメが始まるまで「そこそこのヒット」作品だったんですが、アニメが始まってネットフリックスやアマゾンプライムで大量に見られることで爆発的な人気に火がついた作品だそうで。

で、確かにアニメ、凄いクオリティ高いんですよね。映画も凄くて、漫画だと1コマで終わってたような何気ない戦闘シーンが、音楽!アニメ!声優さんの演技!が絡み合う凄い映像劇に昇華していた。

なんでこういうことができるのか・・・という時に、過去20年ぐらい日本人が「文法」を編み出してきたんだよな・・・っていうことを私はよく思うわけです。

好評な「ジョジョ」のアニメシリーズが始まる前の、「2007年の最初のジョジョアニメ映画」はもう本当に本当にヒドイ出来だったんですよ。渋谷で見た記憶があるんですが、あまりの出来のヒドさに憤慨して、見たあと怒りに任せてズカズカ延々歩いているうちに駅と逆方向に行ってしまって、自分がどこにいるのかわからなくなっちゃった記憶があるぐらいで(笑)

要するに、当時のアニメ文法では「ドラゴンボール」的にアメリカンでローコンテクストなコンテンツは描けても、ジョジョのように「立ち姿一つ一つに深いメッセージがある」みたいなものは描けなかったわけです。

「漫画」なら荒木飛呂彦氏がその天才性でパパッと「紙に描け」ばいいけど、それを「アニメという量産型工業製品」的なレベルに昇華することができなかった。

ジブリアニメは、宮崎駿的天才性を「アニメ作品」にまでするジャンプを、「定期的に国民的大ヒットを出し続けることでやっと維持できる正社員組織を、今じゃ考えられないパワハラ圧力でしばき倒す」ことで強引に乗り切っていたわけですよね。もちろんこんなのは「ほんの一瞬の時代の奇跡」として可能だっただけで全然サステナブルなモデルじゃない。

でもその後10年ぐらいたって、色んなゲーム作品とか(カプコンのジョジョ格闘ゲームとか凄い出来だった)、アニメ作品とか・・・でみんなで寄ってたかって「作り出し、消費し、論評し・・・」とやることで、「個人の天才性に依存しない工業製品として、ジョジョの世界を描く」ことが可能になってきた流れがあるわけですよね。

その結果、「ドラゴンボール」的な「アメリカンな単純化された世界」だけでない世界を、自由自在に

・「ああ、これ系はこう描けばいいんだよな」

・「ああ、これ系のキャラクターはこういう声優のこういう演技にすればいいんだよな」

的な蓄積を、業界関係者と日本人消費者が一緒になって蓄積してきた結果が「鬼滅のアニメから爆発する」展開を生んだはず。

・・・というような話について、色んな思い出話とかしながらオタクトークを以下の部分ではします。

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