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鬼滅の刃には「ツンデレ」が出てこないから風通しが良い説・・・からみえてくる日本社会の今後

(トップ画像は鬼滅の刃19巻より、毒が効き始めた童磨の脳裏に浮かび上がる胡蝶しのぶさん←あのシーンが私は凄い好きなんですよね)


あれよあれよという間に「千と千尋の神隠し」すら抜いて歴代ナンバー1興行収入になった鬼滅の刃ですが、ツイッターのトレンドに

「千と千尋 老害」

というワードが上がっていて笑ってしまいました。(どんどん数字が近づきつつ抜きそうで抜かない時期には”千と千尋 悪あがき”ってのもあった 笑)

今、日本中のあちこちで、「鬼滅の刃ってのが凄い売れてるらしいけど、作品としてはジブリの方がやっぱり圧倒的にいい」みたいなことをブツブツ言ってる老害さんがたくさんいるってことなんでしょう。

いや、正直言ってわからんでもない!

今私は40代なんですが、それぐらい以上の日本人にとって「ジブリ作品」という存在はとても大きなものなので、売上が映画の価値を決めたりはしないとはいえ、「鬼滅の刃>ジブリ作品」という数字がニュースになることに居心地の悪い思いを持ってしまっている人がいるのもわかる。

だからSNSでついついクサしてしまったりとかするのもわかる・・・けど、そういうのって自分が若いころ上の世代にされたら一番イヤなことだったりしましたよね。

別に媚びる必要はないし、逆に若い世代が「ジブリなんて終わった存在でしょ」とか言い出すのもどうかと思いますが、ただここまでの大きさになっていく「鬼滅の刃」ムーブメントによって日本人の集合的無意識はどこへ向かおうとしているのか?について考えてみたいわけです。

ちなみにこの鬼滅についての記事は三本目で、最初の2つも結構読まれているので良かったらどうぞ。

今回の記事は、「ツンデレ」について・・・です。

1●鬼滅の刃に「ツンデレ」が出てこないから風通しが良い・・・説は本当か?

私は経営コンサル業のかたわら、色んな「個人」と文通しながら人生とかアレコレについて一緒に考える・・・っていう仕事もしていて、そのクライアントには本当に老若男女、日本に住んでいる人も海外に住んでいる人も、都会の人も地方の人も、お金持ちもまあそうでない人もいるんですけど。

そのうちの「鬼滅の刃」にハマってるある女性(とある日本の大企業のキャリアウーマンさん)が、

私は日本のサブカルチャーに出てくる「ツンデレ女キャラ」っていうのが嫌いで、出てくるたびに「またかよ」って思ってしまうんですが、鬼滅の刃はそういうのがいないところが凄く風通しが良くていいな、って思うんですよね。

みたいなことを言っていて、あんまり考えたことがなかった話だったので「なるほど!そうなのか?」と思ったということがありました。

ただ、聞いた瞬間は「なるほど!」と思ったんですが、よく考えると「ツンデレ」が鬼滅の刃に出てこないわけじゃないんですね。

そうじゃなくて、むしろ「あらゆることがツンデレ化」したというか「ツンデレの普遍化」というか、

ありとあらゆるところに「空気のようにツンデレ的構造」が昇華したことで、「べ、べつにあんたのためにやったんじゃないんだからね!」みたいなベタなキャラクターがいなくなった・・・というのが正解

なんじゃないかと思うわけです。

この「ツンデレの普遍化」という視点で、「鬼滅の刃の時代の日本が進んでいこうとしている先」について考えてみたいんですよ。

それは「個」と「社会」の間を新しい見方でつないでいこうとする試みであり、「優しくない社会」を「優しい社会」にするのは「自分たち」なのだ・・・という話でもあります。

2●そもそもツンデレとはなんだろうか?

まず、こういうワードに馴染みのない人向けに、そもそも「ツンデレ」って何か・・・っていうのを確認すると、

日本のアニメにおなじみの、「ツンツンしているように見えて実は主人公が好きな女の子が時折見せる表情が萌える」的な演出

がまずは「よく言われるツンデレのイメージ」なわけですよね。

で、たしかに「そういうベタなツンデレ女の子キャラ」は鬼滅の刃にあんまり出てこないな・・・と思うわけです。(むしろその”ツンデレ女”構造全体を超える存在として胡蝶しのぶさんがいる・・・という話を今回はしたいわけですが)

ただ、次の瞬間もう少しちゃんと考えてみると、「ツンデレ」って、もっと普遍的なものだというか、「べ、別にあんたのためにやったわけじゃないんだからね」風の女の子だけが「ツンデレ」かっていうとそうでもないですよね。

「古いジャンプ世代」的に通じる話で言えば、たとえば今、NHKの年末ドラマになっているジョジョの岸辺露伴が、殺人鬼を捕まえるために幽霊になって杜王町に残っていた杉本鈴美さんがついにあの世へ行く・・・となった時に、

ああ!わかったよ! 最後だから 本心を言ってやるッ! さびしいよ! ぼくだって 行って ほしくないさ!

というシーンがありましたけど、ああいうのも「まさにツンデレ」ですよね。

あとはドラゴンボールでゴクウに常にライバル心を抱いていたプライドの高いベジータが、

「カカロット、お前がナンバーワンだ・・・」

と認めるシーンが凄い有名でしたけど、ああいうのも「ツンデレ」ですよね。

そう考えると、「ツンデレ」というのは日本コンテンツにおいて、「べ、別にあんたのこと・・・系女の子キャラクター」だけにあるものじゃなくて、もっと普遍的な作劇上のコアにあるものなわけですよ。

そういう意味では、千と千尋の神隠しを超えた映画鬼滅の刃の主人公的存在の煉獄杏寿郎さんの、「部下とのコミュニケーションがうまいわけじゃないが、いざという時に物凄く頼りになる存在」みたいなのも「ツンデレの結晶体」みたいなものだったりするかもしれない。

だから「ツンデレ」はむしろ空気のようにあらゆるところにあるわけですが、なぜ鬼滅の刃には「ツンデレ」があまりいないような”印象”になっているんでしょうか?

3●「それは言葉が足りませんよ」by胡蝶しのぶさん

上記記事↑で書いたけど、僕は胡蝶しのぶさんっていうキャラクターが凄い好きなんですよね。「女性作者ならではの、欧米型じゃない新しいタイプのガールズエンパワーメント」がある感じがする。

で、胡蝶しのぶさんがよく色んな人に「言葉が足りませんよ」って言ってるなあと思うわけです。

義勇さんにしろ、煉獄さんにしろ、とにかく「柱」の人たちってちょっと普通の意味でコミュニケーション能力が高い人ではないので、色々とイザコザが起きるわけですけど。

以下の記事で書いたように、

たとえば煉獄さんというのは、

(上記記事より引用)

「こうだからこうだ」という「単に事実、正しい意見」を曇りなく公平にズバッというけど、その話の「受け手」のことをあまり考えるタイプではないというか。(中略)徹底的にマイペースすぎて、
「君はこういう風に考えるかもしれないし、その気持ちもわかるけど、でもこういうことはどうしても大事だしグダグダグダグダ」

・・・みたいな、現代人的に推奨される「コミュニケーション上の手くだ」を全然持ってない。

みたいな存在なんですけど。

ただ面白かったのが、さっき書いた文通してる「日本の大企業(メーカー)のキャリアウーマンさん」が、

煉獄さんがコミュニケーション下手って思ったことなかったです。普段メーカーで技術部門の人と話してるとまああんな感じですよ。

って言ってたのが目からウロコだったんですね。

要するに、胡蝶しのぶさんがやっているのは、

「自分がコミュニケーション力があることを、自分のためだけでなくみんなのために使う」

ってことなんだなと思うわけです。

「コミュニケーションが下手なタイプ」のことを甘やかすわけじゃなくて、あなたもちゃんと言葉で伝えられるようになりなさいね・・・と促しはする。

一方で、「その個人の現時点でのコミュニケーション力に関わらず、色んな意見がちゃんとフェアに扱われるように調整する」役割を凄く果たしている。

柱だろうとなんだろうと不服があったら炭治郎くんみたいにバンバン言い返せるようにしてやる。一方で「柱側」の言い分にもちゃんと意味があるのなら、それを「炭治郎くんたち」にちゃんと理解できる言葉で伝える。

そしてそういう「公的なコミュニケーションをちゃんと全体のための円滑にする」役割だけじゃなくて、もっと「プライベート」的なレベルにおいても・・・

なんか深夜に屋根の上で炭治郎くんに鬼と仲良くするという夢を託す・・・みたいな話がありましたけど、

「自分より下」の立場の人間にあそこまで対等に、しかも自分にとってデリケートな思いをちゃんと言葉にして伝える

って凄いことだな・・・と思うわけです。

こういう「言葉にして話す」力は胡蝶しのぶさんだけじゃなくて炭治郎くんにも凄くあって、あとタイプは違うけどユシロウくんとかにも凄くあって、さらにタイプは違うけどお館さまもそういう能力が凄い高い。

そうやって「言葉にする力があるキャラクター」がたくさんいるので、ツンデレがツンデレのまま放置されないで有機的な連携が取れるようになっている・・・

これが、「鬼滅の刃」にあまりにもベタななツンデレキャラクターがいないように見える原因ではないかと思うわけですね。

しかしそれは「ツンデレがいない」んじゃなくて、本来「ツンデレになるタイプの人のエゴ」を相互に取り持って有機的に機能させようとする非常に有能なコミュニケーション能力があるキャラクターたちがいるということ

なんですよね。

そうやって「コミュニケーション力という資源」を「個人が独占」するんじゃなくて「みんなのために使う」ことによって、うまく活かせば凄い才能を発揮する「個」たちが、孤立無援にならずに全体として有効な「チーム」になっている。

「無数のツン」たちを包摂する論理を、自分たちの言葉の力で引き寄せて自分たちで構築しているわけです。だから「ツン」が放置されずにいるから目立たない。

4●「個」と「みんな」の新しい関係性

鬼滅の刃は「みんなで共有する目標」に対するメチャクチャ徹底した献身をする姿勢が描かれているので、それに違和感を持っているサヨク的な人も多いと思うんですよ。僕も全然まったく違和感がないかと言われると否定できない。

ただ、これもネットでよく見る意見として、例えば90年代から00年代の日本コンテンツというのは、そういう「共同体的な価値」とか「父親的な存在」に対する徹底した不信感とそこから分離した自分を模索し続けてきたところがあるわけですよね。

それはある意味、空前の好景気の余波に乗っかって、「普通のサラリーマンになんてなりたくない。なにか自由に個人を活かして生きたい」みたいな志向だったと思うわけですが。

ただエヴァンゲリオンのシンジくんみたいに、果てしなくクズな父親と、それを否定しまくるだけで「それ以外で自分が望むこと」を何も提示できないシンジくんという袋小路・・・を延々続けていても仕方ないよな・・・というのは、ちょっとおそらくエヴァンゲリオンの作り手ですら感じていて、それが結果として普通の人にはどんどんわけがわからなくなっていっているエヴァンゲリオン映画シリーズの袋小路感に繋がっているんじゃないかと思うわけです。

要するに「みんな」と一緒に助け合いたいけど「自分個人」も大事にしたい・・というジレンマの中でそれぞれがもがいている様子が「ツンデレ」なわけですよね。

こういうのは「全部社会のせい」にしても果てしなく個人がバラバラになって孤立無援になるだけだし、「助け合いだろ?チームだろ?なら従えよ」だけを無理やり押し出していっても息苦しい。

「ちょうどよい社会と個人との関係」を模索するには、単に片側だけの理屈で押し切るだけではなくて、「ツン」な部分も「デレ」な部分も大事にしながら最適に組み合わせるにはどうしたらいいか、みんなで考えていくしかない。

「社会と個人」の関係において、果てしなく「社会」のせいにして否定し続けて、個の自由だけを確保しようとしてきたら社会の相互連携がうまくいかなくなって、結局個々人の生きづらさが余計に問題になってしまう・・・みたいな状況に陥っている日本においては、

「個々人を大事にしつつも、もう一回助け合える社会を目指したい」

という強烈な思いが高まってきておかしくない。

こういうエネルギーは単なる「滅私奉公」的な高圧姿勢に転化してもおかしくないわけですが、鬼滅の刃の世界は

・炭治郎くんは柱たちにバンバン言い返している

・柱の人たちの献身っぷりが本物で、それを皆が信頼している

・それぞれの個性をちゃんとお互い理解しつつ、コミュニケーションが下手な人のぶんをコミュニケーション強者が補完してやって全体としてのチームを運営している

・・・みたいなところが、「個」から見た「社会」に対する「果てしない不信感」を暴走させるだけだった世界と大きく違うところだなと思うわけです。

5●昭和の時代から30年かけて一度徹底的にバラバラにした個を、再度組み合わせようとする試みがはじまっている

要するに、果てしなく「社会」に対して「個」側の意思をぶつけて反発するだけのエネルギーを暴走させていったら、結局だれがこの社会の安定感を取り持つの?日常を誰が回すの?みたいなところであまりに無責任なエネルギーが溢れかえってしまってどうしようもなくなってきたわけですよね。

社会の中で孤立無援になっている「ツン」な「個」たちをちゃんと「優しく」扱うには、ただ全員がもっと自分に優しくしろ!と要求するだけではダメで、お互いの事情を言葉にして理解し、伝えあってチームにしていく必要がある。

こう書くと、日本社会が「鬼滅」に思い入れる気持ちも凄くわかるなあ、って気持ちになりますよね。

あまりにも団子状態で「みんないっしょ」すぎた時代を30年かけてバラバラにしてきて、「個人」を突き詰めてきたけど、今度はその「バラバラになった個人」同士を自分たちで声かけあって「チーム」にしていこう・・・としているわけですね。

社会のあちこちに孤立無援に放置された「ツン」たちを、声かけあってお互い有機的に機能するように持っていこうとしている。そうすることで「納得づくでデレ」ることができるような微調整を無数に行おうとしている。

「住みよい社会」「助け合えるチーム」が身近にないとしたら、ただ文句を言ってるだけじゃなくて「それを呼びかけて一緒にやっていこうとする行動」を自分で起こさなくちゃね!

ということなわけですね。

6●「アクセサリーとしてのツンデレの女の子」を超えて

非常に意地悪く言えば、「エヴァンゲリオン的世界」において「社会に対する不信感を持ったボク」が、自分自身を保ち続けるために、「なんだかよくわからないけど自分に妙に優しくしてくれる女の子」が、しかも複数人取り囲んでいてくれることが必要だった・・・

みたいなことってあるんじゃないかと思うわけです。レイだけじゃなくてアスカもいてくれて、さらに真希波マリさんも追加で・・・と取り囲んでもらうことでやっと「クズすぎる父親の抑圧から分離して自分を保っていられる」構造ができていたというか。

こういうのは、「やたら色んな女の子に好かれまくるんだけど当人は全然気づいていない(ということになっている)」構造のラノベ作品たちにも同じことが言えると思うし、というか多くの村上春樹作品の構造がまさにそれ、という感じがするんですが。

しかし、こないだネットでやたらバズったこの記事↓で書いた

「悪役令嬢もの」というジャンルが凄い面白い!と、ある学校司書の文通相手さんに教えてもらって色々読んだところでは・・・

悪役令嬢ものに限らず、今の日本のライトノベル・漫画的な世界でも、単に「ニヒルに世界を斜めに見て斬りまくってるだけの主人公」じゃなくて結構積極的に社会と関わっていこうとするタイプの主人公は、「アクセサリーとして大量にはべらせるツンデレ女子の大群」をあまり必要としていない例が増えているかも?という感触があります。

むしろ主人公の男性キャラクターの方が主体的に「好きだ」と思っている女性キャラクターがいて、普段は温厚なんだけどその女性キャラクターを侮辱されたりするとキレる・・・みたいな構造になっていることの方が増えつつあるのかも?

こういうのも、要するに「中身はないけどとりあえず”社会”にNOという俺」みたいな宙吊りの状態を超えて、なんらか「主体的に自分の役割を選び取りつつある」姿勢が現れているかも?

そもそも男の側からしても、胡蝶しのぶさんみたいに対等に同じ目線で同じ仕事にチャレンジできるパートナーで、しかも変に意地はってツンデレしたりせずに下っ端の炭治郎くんにも正直な気持ちをストレートに伝えられるコミュニケーション能力のある女の子がいるんなら、そっちの方が「べ、別にあんたのことなんて!系女子」よりも全然良いと思う人が大半だと思うしね。

そういうオールドタイプのツンデレとかいちいちやんの面倒くさくない?好きなら普通に好きって言っちゃって、毎日イチャイチャして暮らしたいじゃない

みたいな感覚は、他の色んな少年漫画にも共通して出てきている変化かもしれない。

これは単純化していうと、「父親的なもの(社会)」との関係をただ拒否し続けていると「アクセサリーとしての女の子」に取り囲んでもらう必要があるが、何らかの「自分が意思を持って参加できる社会の動き」が見えてくる(”父親”との関係を再度取り結び、自分が主体的に果たしたい役割を再発見する)的なことがあると、「アクセサリーとしての女の子」が徐々に必要なくなりつつある・・・という話なのかもしれない。

「欧米的な個」の意識だけを神格化しすぎると社会が両極分断化して民主主義社会が崩壊の危機に陥り、むしろ中国的な強権じゃないとまとまらないんじゃないか?とすら思えてきてしまう時代において、それでも中華文明圏のような強権的な上意下達社会にはしたくない・・・となった時に。

「現地現物」のレベルで「欧米的な個」と「アジア的な社会との調和」を両立させるための取り組みを、日本人は「ツンデレ」についてあらゆる事例を描いてみることで徐々に体得してきたのだ・・・といえるかもしれない。

「個」を完全に神格化するのって簡単なんですよね。ただそうやって「個」だけを欧米的に過剰に神格化すると結局「強者」だけが生きやすい社会になってしまうわけで、その先で社会が分断してどうしようもなくなる・・・という現在の世界の状況の中でどうすりゃいいの?ってなるわけじゃないですか。

しかしもっと根源的な「性癖」みたいなレベルで「個」と「社会」を無無理に調和できれば、いちいち「中国的な強権か、アメリカ的な個の神格化か」みたいな二者択一に陥らなくても済む。

単なる「欧米的な個の理想」の見地だけから見ると色々と閉鎖的なところが多いここ20年の日本でしたけど、じゃあそれで社会が果てしなく分断された社会の罵り合いを見せつけられると、ただただ古い社会が全部悪いことにして罵り続ける無責任さの先に希望がないことは明らかすぎるぐらい明らかですよね。

「だからといって中国みたいな強権を認めたくない」・・・ならどうすればいいか?

「個を謳歌することを邪魔しない」も「社会との調和を維持する」、両方やらなくっちゃあいけないのが日本人のツラいところですが、なんとか頑張りましょう。覚悟はいいか?おれはできてるbyブチャラティ。

6●「エヴァンゲリオン的宙吊りの時代」を終えて動き出す日本

なんかここまでエヴァンゲリオンについてちょっと否定的なこと言ってますけど、でもアレがあの時代に必要な作品だったとは凄い思っているんですよ。僕も好きな作品ですし。

とにかく昭和の時代の「みんないっしょ」すぎる社会の暴走的なエネルギーに支えられた好景気が終わって、一息ついて一度「父親的存在」と分離した「自分」を発見しないことには日本社会は前に進めなかった時期だと思うわけで。

ただその世界をどこまでも突っついてみたらどんどん展開がわけがわからないことになって・・・空転に空転を重ねてきたのが平成の日本だった・・・みたいなところがあるわけですよね。

だいたい結構好きでエヴァンゲリオンを見ていた人たちのほとんども、次々と公開される映画を見てるといまや「なんかどんどんわけがわからない話になってるな」って思ってると思うんですよね(笑)

この記事と同時にアップされるファインダーズの年末記事↓で、そういう「過去30年の日本とこれからの日本の違い」についてもっと深く掘り下げた記事を書いているのでそちらを読んでほしいわけですが・・・

上記記事に限らず私が常々言ってることなんですが、過去20年ぐらい、果てしない非妥協的なグローバル経済があらゆる共同体の連帯を世界中でバラバラに引きちぎってしまって、世界中の色んな民主主義国で政治的な両極化の混乱がコントロール不能なレベルになってきている時代においては、そういうのとは距離をおいていた日本の選択はそれほど悪いことじゃなかったと思います。

そういうのと距離をおいて閉じこもっていられる手段として、平成の日本はエヴァンゲリオンが必要だった・・・と言ってもいいかもしれない。

しかし上記ファインダーズ年末記事で書いたように、

「20世紀の米ソ冷戦」が日本という国に特殊な活躍の場を与えてくれた

のと同じようなことが、

「21世紀の米中冷戦」の時代にも起きる

ことは確実で、これからの日本は「ただ文句言ってるだけ」じゃなくて「それ」を勝ち取るために能動的にお互い声かけあって動いていく必要があるわけです。

鬼滅の刃のヒットは、「ただ文句言ってるだけ」をやめて、「自分たちで声を掛け合ってお互いがチームとして機能するようにしていこう・・・という私たち日本人の集団的無意識の発露だと私は考えています。

一方で延々と続いてきたエヴァンゲリオンの映画も、どうなるかわからんがちゃんと「着地」するみたいですし!

今回記事の無料部分はここまでです。

以下の部分は、ちょっともう一個「ユシロウくん」について語ろうかと思います。

というのは、ユシロウくんもまた、最後の「鬼舞辻無惨」戦で物凄い重要な役割を果たした存在なんですが、炭治郎くんとは凄い対照的な存在だな、と思うわけです。

めっちゃ寒村育ちの炭治郎と違ってユシロウくんはたぶん大都会東京の生まれで、大正モダン時代あるいは明治末期育ちぐらいのサバケたタイプで、色々とインテリな感じで、炭治郎くんみたいに「立場の違うあらゆる人と交わって生きよう」みたいなタイプでは全然ないと思うんですよね。

でも、インテリなりの視野の広さとか的確な判断力があって、ベタな人間関係は苦手だけど、いざリーダーとして周りを差配しはじめたらメチャクチャ有能だったりする。

めっっっっちゃ個人的な連想で申し訳ないんですが、若い頃こういう「ユシロウくん」タイプの友達が自分にはたくさんいて、結構凄い良くしてもらったなあ・・・っていうのを、ユシロウくんを見ていると思い出すんですよ。

それは僕が大学卒業して東京に出てきた頃に知り合った友達で、男女ともにおそらくみんな東京生まれ東京育ちで、有名私立進学校を出てフツーに東大ぐらい入るでしょ的な感じの人たちで。

「関西からなんか変なヤツが来た(笑)」みたいな感じで面白がって仲間内で色々な人に引きあわせてくれて、世慣れない当時の自分にとって凄いありがたかったな・・・と今思い出すと思うんですよね。

その後あまりにも彼らとは生き方が全然違うルートに入ってしまったので、まだ連絡先を知っている友人はあまりいないんですが。

なんか、彼らと比べると自分は「関西の公立中学と、古い古い公立高校出身で、大学は京都で、卒業してからやっと東京に来た」人間だなあ・・・って凄い思うわけです。とにかくあらゆることが違うな・・・って思う。

で、今のネットのSNSって、たまにこの「2つのあり方」がやたら対立的に語られがちというか、お互いディスり合ってるみたいなとこあるなと思うんですよ。

ただなんか、ユシロウくんにはユシロウくんの役割があるし、まあ炭治郎くんには炭治郎くんの役割があるわけで・・・みたいなことを思うわけですね。

「東京育ちの裕福な私立進学校出身のエリート」に対して、やたら「お前らなんて狭い世界に生きている世間を知らないお坊ちゃんお嬢ちゃんだ」みたいなことを言うのは良くないな・・・と思うんですよ。そうすると彼らも逆に意固地にならざるを得ないし。

ただ、たぶん僕は東京でないとはいえ関西で結構な都会育ちですけど、もっと地方だったりもっとハンデのある育ちの人で、頑張って「勉強して東京に出てきた人」を、ユシロウくんが炭治郎を導いたようにサポートしてやってほしいなと思うわけです。

別に自分の恵まれた育ちとかに変に申し訳なく思ったり過剰な責務感を持つ必要はないけど、この記事で書いたような「自分が持って生まれたコミュニケーション能力を、自分だけのために使わずに、みんなのために使ってあげてほしい」というか。

「その回路」が閉じずにいられれば、「地続きの人縁」が崩壊せずにいられるので、アメリカみたいに「赤い州の人間と青い州の人間がぜんぜん違う価値観で対立している」みたいにならずに済むはず。

たぶん、知的で視野も広くて、しかも「よくあるポリコレ宗教の教義をただなぞる」以上のオリジナルな問題意識を育てられるぐらいのセンスがある人なら、僕が東京に出ていった頃に色々と世話を焼いてくれた東大生たち・・・みたいなことができるはずで。

地方や、そうでなくても”色々とハンデのある地域出身”で「東京とは全く別のコミュニティ」からの記憶を導入しようとしている人たちが何を必要としているか、ちゃんと理解してあげられると思うんですよね。

「現代社会における知的テクノクラート人材として必要なこと」を追求するのも大事なことだから、別にやたら「色んな階層の人とつきあうべき」みたいなことを無理してやる必要はないと思うわけです。

でも炭治郎くんをうまくサポートして勝利に導いたような「関係」を人生の中に取り入れることは、おそらくそういう育ちの人が社会の中で何らかの活動をする時に、「狭いインテリサークルの中」だけに終わらない”テコの原理”で大きく巻き込む力を与えてくれるはずだと思います。

「自分が」泥縄の人間関係に巻き込まれる必要はないが、「泥縄の人間関係のハブになっている人」を広い視野でサポートしてやってほしい・・・・てことですね。

特に、これからの日本は、「ユシロウくん的なインテリ」が、ちゃんと「あまりに日本的すぎる義理の連鎖」に絡め取られずにちゃんと力を発揮できる環境を整える必要がメチャクチャあるわけですが・・・・

その時に「ユシロウくん」がわから見て重要なのは、ただ「なんでお前らは諸外国みたいに俺たちのようなインテリに権力を渡さねーんだバカ!!!」みたいなことを言いまくることではなくて、ちゃんと「自分の世界」と「日本的土着性」をつないでくれる存在を信頼し、関係を取り持って、動かしていこうとすることではないか・・・と思うわけです。

・・・・というような内容について、色んなこれ書いてて思い出した思い出話なんかをしながら、ネットで定期的にディスり合いに発展する「2つの人材タイプ」について、もう少し掘り下げて考えてみたいと思っています。

2022年7月から、記事単位の有料部分の「バラ売り」はできなくなりましたが、一方で入会していただくと、既に百個近くある過去記事の有料部分をすべて読めるようになりました。結構人気がある「幻の原稿」一冊分もマガジン購読者は読めるようになりました。これを機会に購読を考えていただければと思います。

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ウェブ連載や著作になる前の段階で、私(倉本圭造)は日々の生活や仕事の中で色んなことを考えて生きているわけですが、一握りの”文通”の中で形に…

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