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こんな時だからロシア文学でも読んで「空疎な意識高い系とそれに対抗する暴走男」の構図を理解しよう。まずは村上春樹原作アカデミー賞候補「ドライブ・マイ・カー」に出てくるチェーホフがオススメ。

Photo by Sandy Millar on Unsplash

ウクライナ情勢があまりに衝撃的すぎて、世界的に「ロシア人・ロシア文化」そのものへのヘイトが高まっていることが問題になっています。

欧米の結構真面目な学問界でもロシア文学を取り上げづらくなってるとか言う話すらありますし、もっと一般的なネットのSNS的環境において「ロシア人」に投げつけられる暴言の数々が問題になっているのは言うまでもありません。

そこで、こういう時期だからこそあえてロシア文学でも読んでみようぜ、というか、「ロシア人も同じ人間であり、共感できる部分はある」みたいな事を思い出す機会があってもいいかなということで、今回はサクッと短時間で読めて、現代日本人的の心にザクザク刺さるロシア文学ガイド的なものを書きます。

特にロシア文学を読んでいるとたいてい出てくるのが「謎に暴走しまくる男」問題なんですよね。

というかロシア文学の魅力は主要男性キャラクターがみんな「謎に暴走する男」であるところだと言っても過言ではないかもしれない。

「西欧かぶれの意識高い系の文化」を真に受けて「古いロシア社会」に対する暴発をするか、逆に「西欧かぶれの意識高い系の文化」への反感をこじらせて暴発をするか、どちらにしろ自分の鬱屈を話のクライマックスでムチャクチャな行動として発現する男が出てくる、そのドライブ感がロシア文学の魅力である。

こう書くと↑これこそが「プーチンの行動の背後にあるエネルギー」だなと思うし、ロシア人がこの状況になってもプーチンを支持する人が結構いる事情を理解するヒントが隠されている事がわかるはず。

そして、「意識高い系の空疎さとそれへの対抗としての”暴走する男”問題」として考えるならば、まさに「現代日本においてもど真ん中に存在する課題」だと言えますし、アメリカでトランプ現象を巻き起こした構造そのものがあるとも言えそうです。

「はじめまして」の人に少し自己紹介をすると、私は学卒で外資系コンサルティング会社に入ったものの、そこにある「グローバルに共通な手法」と「日本社会」との間の分断を超える視座がそのうち切実に必要になるなと思って、その後わざわざブラック企業やカルト宗教団体とかに潜入したりするフィールドワークをした後中小企業コンサルティング的な仕事をしている人間なんですね。(詳しいプロフィールはこちら)

つまり「あらゆることで進んでいるとされる欧米の文化」の押し付けが「非欧米」社会における巨大な摩擦を引き起こす現場・・・のような環境で、どうすれば「どちらの理想も」取り入れる事ができるのか?について色々と実地に模索しつつ、たまにこうやってウェブ記事や本を書く「思想家」的な仕事もしているわけです。

そういう私から見た時に、このロシア文学の中の「暴走する男問題」というのは、書かれた当時に限らず現代でも、そしてロシアに限らず世界中で同じく巨大な課題となっているテーマだなと感じています。

そこにある「今回の紛争の奥底にある真因」のようなものに迫る事も、また意味のある「問題解決への取り組み」だと言えるのではないでしょうか。

世の中には、アメリカ的秩序の歪みが嫌いだからといって今回のプーチンの暴挙を擁護しちゃうような人がいるんですが、それはマジで良くないというか、人類を19世紀以前の弱肉強食帝国主義時代に戻せというのか・・・という話になってしまう。

鬼滅の刃の炭治郎くんが「鬼が鬼になってしまった理由を慮るが鬼を斬る事は容赦しない」ように、プーチンの暴挙は決して許さない姿勢が大事だと私は思います。

しかし一方で、炭治郎くんが「鬼が鬼になってしまった理由」を深く理解する姿勢を持っているように、「ロシア人」を理解しようとする事はむしろ今の時代こそ重要なことではないでしょうか。

現実的側面から言っても、「対プーチン」の戦いにおいてロシア市民は「我々の味方」になってもらわないと困る存在なわけで、彼らに直接暴言を吐きまくっていると、「お前らがそんなこと言うんならプーチンをさらに支持してやるぞ」となりかねない情勢でもありますからね。

(体裁として有料記事になっていますが、「有料部分」は月三回の会員向けコンテンツ的な位置づけでほぼ別記事になっており、無料部分だけで成立するように書いてあるので、とりあえず無料部分だけでも読んでいってくれたらと思います。)

1●ロシア文学?難しそう・・・チェーホフなら数時間で読めます。

ロシア文学には長大な作品が多くて、ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』とか、トルストイ『戦争と平和』とか、ちょっとやそっとでは手が出せない感じがします。

まず沢山出てくる名前の語感に馴染みがなくて、これは男の名前?女の名前?といったレベルで戸惑いがある。親しい人に呼びかける時に名前が変わったりとか、そういうロシア語特有の文化にも慣れない。

私は15年近く前に光文社から新訳が出て話題になったカラマーゾフの兄弟を読みましたが、当時はまだ若くて時間があったので読み通すことができ、確かに「凄い作品だ!」と思いました。あなたも日常生活に時間がある人ならぜひ読むといいと思います。村上春樹が「世の中には二種類の人間がいる。カラマーゾフの兄弟を読破したことのある人と、読破したことない人だ。」とか言うだけの事はあります。

カラマーゾフの兄弟(←Kindle Unlimited登録してれば無料で読めます)

しかし、ほんとマジで長いんで、ちょっと普通の人は挫折しがちだと思います。

でも、最近ひょんなことから読んだチェーホフの『ワーニャおじさん』という作品は、戯曲なこともあって数時間で読めて、かつ「ロシア文学ならではの、西欧文明のどんづまりで行き場を失い暴走していく男のドラマ」を濃縮スープのように味わえる傑作だと感じていて、それをぜひオススメしたいわけです。

今、アメリカのアカデミー賞に作品賞含め4部門ノミネートされた(邦画としては異例の事らしい)『ドライブ・マイ・カー』という映画(村上春樹原作)が話題になっていますが、この作中で凄い重要な役割を果たしているのが「ワーニャおじさん」なんですね。

僕は光文社の新訳で読みましたが、青空文庫(著作権が切れた古い作品が公開されている)にもあるので、無料でも読めます。

光文社新訳版

青空文庫版

さっきも書いたけど名前が錯綜して読みづらいので、慣れてない人はこの記事で、「あらすじ」と「登場人物の関係」を予習した上で読むと急激に理解しやすくなると思います。

「ある程度以上の年齢になった男が、人生への絶望から暴走しはじめて悲劇的な結末に突き進んでいくロシア文学的ドラマ」は、現代日本に生きる読者にも「物凄く自分ごとのように」感じられるリアリティがあります。

2●『ワーニャおじさん』はどんな作品か?

『ワーニャおじさん』が発表されたのは1897年で、日本では明治30年、日露戦争が始まる7年前です。

当時は西欧の帝国主義的な支配がその他の地域を脅かしたり、また一方で西欧の「新しい進んだ思想や技術」が紹介される中でロシアのような辺境社会における人心が混乱していく様子が、今の日本社会から見ても「めっちゃ普通に共感できる」感じで伝わってきます。

田舎の荘園を管理する仕事をしてきた実直な仕事人の主人公、ワーニャさんは47歳の男なんですが、亡くなった妹の夫であるセレブリャコーフ教授のことを昔は凄く尊敬してたんですね。

田舎育ちの自分たちの家族から、妹が嫁いで行った先が「都会に住む大学教授」というインテリっぽい職の人であることが嬉しくて、セレブリャコーフ教授の説を非常にありがたく読んでは誇りに思い、せっせと彼に仕送りをし続けてきた人生だったわけです。

しかし、老いて退職したセレブリャコーフ教授が、田舎の荘園に引っ越してきて同居するようになってからが問題なんですよ。

遠目に見ている分には「輝かしい自分たちの誇りの象徴」だったセレブリャコーフ教授が、近くで一緒に暮らしてみると生活リズムも合わないし愚痴っぽいしみすぼらしいし、あれだけ「自分たちの誇りの源泉」だと思っていた人が”こんな人物”であることが情けない気持ちになってくる。自分が長年彼に仕送りを続けていた事を感謝してくれている様子はないし、むしろ端々の行動から見下されてる感じが伝わってくる。

さらにはこの教授が先妻(ワーニャおじさんの妹)が亡くなった後再婚した後妻エレーナさんが凄い若くて美人な事が二重三重になんかムカつくぞ!!!となっていくわけです。

一方で、出入りする医師のアーストロフという男がいるんですが、彼は事あるごとに非常に「意識高い系」の事を言う人で、西欧に比べてロシアがいかに遅れているか、ロシアの自然がロシア農民の無知によっていかに壊されていっているかを常に嘆くような事を言っている。

ワーニャおじさんは密かに教授の後妻のエレーナさんが好きなんですが、エレーナさんはワーニャにはつれない態度だけど、意識高い系のアーストロフ医師は好きなんですよね。

それだけでなく、教授と先妻の娘(ワーニャおじさんから見て姪)で、一緒に荘園の管理の仕事をしているソーニャさんもアーストロフ医師の事が好きなんですよ。

それだけでなく、ワーニャおじさんの母親マリアさんも、息子のワーニャよりも、セレブリャコーフ教授とか、都会のインテリが毎月送ってくる冊子に書いてある思想の方に入れあげていて、常にそれと比較してワーニャをディスるようなことを言ってくる。

ワーニャおじさんとしては実直に働いて25年間ずっと教授に仕送りをし続けてきたプライドがあるのに、教授はちゃんと感謝するそぶりもなく自分を見下しているように思えるし、母親もエレーナさんも姪のソーニャもみんな「なにかインテリっぽいもの」に入れあげて、事あるごとに自分をディスってくるような環境に置かれていることにだんだん我慢がならなくなってきて・・・からの、最後は

「ロシア文学の必殺技」=「俺の人生はなんだったんだ!的に暴走する男が生み出す悲喜劇」

…へと物語がドライブされていくわけですね。

ここまでの説明をザツな図にまとめると以下のような感じです。字が小さいですがクリックで拡大して読んでいただければと。

見事に、「ワーニャおじさん47歳」を周囲のあらゆる人がディスってくる、「包囲網」が存在していることがわかりますね。(この図をクリックして別タブで開くと保存できるようになるので、ワーニャおじさんを読まれる時にはぜひ適宜これを見ながら読んでいただけると幸いです)

そしてここまで読めば、いかにこの課題が「現代的」な、日本社会でも、アメリカ社会でも、そしてもちろんロシア社会においても「まさに今起きている現象」だと言えることがわかるでしょう。

そしてプーチンの暴走を支えているものも、プーチン個人だけではなくロシア民族全体が共有する「西欧文明の圧迫を受けたどんづまりにおいて行き場を失って暴走する男」的要素そのものであることが理解できるはずです。

特にここ最近の人類社会では、こういう話題は「ワーニャおじさん」が全部悪い、時代遅れの老人が無理やりなエゴで他人に嫌がらせをしているからケシカラン・・・という理解で決着する方向でやってきたわけですよね。

「そうやって不幸ぶってるワーニャオジサンだって恵まれている。私達●●はもっと酷い目にあってきたんだから」的な論理で、とにかく社会の変化に対応できない存在としての「ワーニャおじさん的なもの」に全部おっかぶせにいって、

「お前は我慢して自分で自分をケアして文句も言わずに静かに生きて一人で寂しく死ね」

…みたいな流れになりがちで、そういう断罪が非妥協的かつ攻撃的に行われるようになればなるほど、行き場を失った「ワーニャおじさん」的感情が、「反・意識高い系」のムーブメントを強烈に押し上げてくる結果になってきた。

プーチンの暴走は明らかにそういうエネルギーに後押しされているし、アメリカではトランプ現象が収まらず、バイデンは弱腰だからこうなったのだという批判も合わせて与野党の支持率が逆転するようになり、2024年には二期目のトランプ大統領誕生の可能性も夢物語ではなくなってきている。

ではどうすればいいのか?

3●「ワーニャおじさん」は自分が辛いと認めること。女性は「本当の男女平等」に向けた一歩先の責任を

村上春樹原作のアカデミー賞候補映画『ドライブ・マイ・カー』は、物凄く「ブンガク的」な映画なのでそういうのは苦手な人は3時間もあって辛いでしょうけど、個人的には我慢して最後まで見ると深い印象に残る名作だったと思いました。

ざっくり言うと現代社会の中で「ワーニャおじさん」的などんづまりに置かれた男が、自分が辛いと感じ、傷ついている事を自分で認めて、その上で他人と協力しあって生きていく道を見出していく物語・・・みたいな感じでしょうか。

「ワーニャおじさん」的状況に置かれた男は、古い世代の「男らしさ」に縛られて、そこで「自分は今傷ついている」ということを認められずに、逆にその「古い男らしさ」を維持するために暴走しはじめる・・・みたいなところがあるわけですよね。

一方で、こういう「古い男らしさからの脱却を」的な話になると、「だって古い男らしさを捨てたら女性から選ばれないじゃん」みたいな話が日本のネットでもよく話題になるんですけど、これはほんと実際にあるんですよね。

「古い男らしさを捨てる」=「誰からも相手にされなくなるけど仕方ないね、社会の隅っこでただ寂しく死んでください」であるならば、そりゃ「古い男らしさ」にこだわり続けるワーニャおじさんたちが出てくるのも当然みたいなところがあって。

ここで、女性に「男女平等なのだから一歩先の責任を」という話が出てくるわけですが、それが単に「こじらせてる中年男性の精神をケアする役割を担え」みたいな話だと、女性から見てそんなことやってられるかよ!みたいになるのもわかる。

さらに言うとその「こじらせ中年男性のケア役を女の人に求める」みたいな話は、ワーニャおじさん本人からしても

「別にそんなことしてほしいわけじゃねーわい!バカにするな!俺は子供か!」

…みたいな話ではあるんですよね。なんかここで

「はいはい、女の人がホステスさん的に扱ってくれたらうれちいでちゅよねー、たまにはそういうふうに扱ってあげますから、あとは黙って静かに死んでってくださいねー」

…みたいな扱いをすること自体が、「ワーニャおじさんたち」にとって結構本質的な侮辱になる回路もあったりする。

そうじゃないぞ!そんなことをしてほしいわけじゃないぞ!でも自分でもどうしたらいいのかわからないんだ!というワーニャおじさんの叫びが、人類社会で放置され続けると、いずれプーチン的モンスターとなって暴走しはじめることになる。

4●ローカル社会の実地の協力関係を破壊しない”新しい意識高い系”を

そもそもなんでこんな鬱屈が暴走しはじめるのかを考え直してみますと、結局社会全体の価値観が「欧米(当時は西欧)」中心になりすぎて、ありとあらゆる面で「自分たちは遅れている」みたいな話ばかりが溢れていて、誰もその社会のリアルな問題解決に真剣になっていない状況自体が、今まで実直に働いてきたワーニャおじさんからしたら我慢ならないわけです。

「自分たちの代表として知的な潮流を組み上げてくれるはずのセレブリャコーフ教授」は全然頼りにならないし、愚痴っぽいしやたら自分たちを見下してくる。

かといって「意識高い系の男」は常時自分たちロシア人の伝統をディスるようなことを言いまくるけど、その「解決策」としては凄くフワッとしたわけわからんことしか言わないから頼りにならない。(にも関わらず女にモテてやがるのがムカつく)

先月出した私の本で使った図ですけど、

日本人のための議論と対話の教科書より

こういう感じで、「針先に穴が空いていない注射器」を両側から必死に押し込んでいるような状況にあるために、社会の中で「協力して現実の課題に向かう関係性」がどんどん破壊されていってしまう。

「私達って西欧に比べて本当に遅れてるわね」
「そうかな、じゃあどこを変えればいいのかな?」
「わからないわ、でもとにかく遅れているのよ。私達は野蛮でどうしようもない劣等民族なんだわ!」
「そんなことを言われてもね・・・」

…みたいな行き場のない会話だけがあちこちでなされるようになっても、その社会の固有の問題を実地に解決していくことは全然できないわけです。

5●「ワーニャおじさん」の劇全体を女性の立場から見ると?

ここまで「ワーニャおじさん」の劇全体を「男の立場」というかワーニャの立場から見てきましたけど、これを女性側から見てみると、また違った情景があるんだと思うんですね。

女性からすると、最初は別にまんざらでもなく一緒にいた男が、やたら卑屈になって、

「お前は若くて美しいからどうせ俺なんか嫌ではやく死ねばいいとか思ってるんだろう。絶対そうだ!それでさっさと別の男に乗り換えたいと思っているんだろう!」

…みたいな事をグジグジ言うシーンが頻発するんですよ(笑)

女性から見ても、最初は「そんなことないわ、どうしてそんなことを言うの?あなたと一緒にいたいと思っているわよ」みたいな感じなんですが、あまりにも何度も卑屈なことを言われるのでうんざりして来るんですね。

で、何か「頼れる男」を探した結果、なんか言ってることよくわからんけど素敵っぽい感じがするアーストロフ医師に気持ちを入れあげてしまったりする。

この状況が「ワーニャおじさん」からしてムカつく理由は、以下↓のようなことなんですね。

女性の思いを大きく吸収する存在はその社会の「進むべき方向」を決める大きな役割を持っているのに、その「女性が持っている本能的な”投票”力」を一手に吸い上げている意識高い系の男が、「その社会が持つ具体的な課題」にちゃんと向き合ってくれずに、夢想的に「理想化した欧米の像」を利用して現地社会をディスるようなことしかしない状況にあること

でもこれって、「頼れる男」が権威ある老教授セレブリャコーフから意識高い系の男アーストロフに移ったというだけで、女性から見て「頼れる男」を常に欲していて乗り換えてるだけじゃない?という話ではあるんですよ。

そうじゃなくて、「古い社会の抑圧」を糾弾するムーブメントを主導してきたなら、その先で「新しいその社会の調和」を目指す地に足ついた工夫の積み上げをエンパワーしてくれないと困るよね・・・というのが「女性があと一歩踏み込んでほしい領域」なんですよね。

自分たちは「抑圧されてきた被害者」なのだから、ただ注文をつけるだけが役割で、そこから先それを実現するのは誰か知らないけど自分以外のやるべきことでしょ

というようなムーブメントがアメリカ由来で世界中に撒き散らされ、そのまま放置されすぎていることが、「荒ぶるワーニャおじさんたち」の気持ちの持って行き場を失わせて暴発する不幸を生み出している。

「黙らされないぞ!」はいいから、その先に「黙らされないからこそ、一歩先の着地点の提案や模索もやっていくぞ!」という動きがあれば、ワーニャおじさんたちだってその動きを頼もしく思えるようになるし、「プーチン的に暴発する男」が痛快だと感じてみんなで後押ししてしまうようなこともなくなる。

6●「警察の命”も”大事でしょ?」

例えばアメリカでBLM(ブラックライブズマター)運動が盛んになったときに、アメリカの悪癖としてすぐに「敵と味方」に分かれて踏み絵を踏ませるようなことをしはじめるんですよね。

そりゃ過剰な暴力を振るって黒人青年を殺した警官はダメですよ。それは誰も反対してないでしょう。

一方で、そこら中に銃を持ってる人がいるアメリカ社会で警官やるってほんと大変なことなはずで、そしてその抑止力の恩恵を受けてアンタだって普段生きてるんだぞ…という部分を否定する必要は本来ないはずなんですよ。

それを考えると、

どうすればスラム的環境の中で、黒人に差別的な暴虐を振るわずに、治安維持活動を円滑に行うことができるか?

↑これについて、BLM派の方こそむしろ真剣に具体的方法を考えるようなことが必要なはずなんですよ。

それは常時録画するっていうような話でもあるし、あの首筋を膝で抑える危険な方法ではない、暴れる犯人を取り押さえる安全な体術を標準化して共有する…みたいな話かもしれない。

別に素人だから具体的な細部までわからなくてもいいけど、「そういうのを考案することが必要ですよね」というコンセンサスを押し上げていくことならできる。

そういう「態度」を見せさえすれば、保守派側が反発してエスカレートして「暴走する男」を押し上げたりする必要が、根本からなくなるわけですからね。

そういう地道な議論をしようとする人を全員出会い頭に「お前は差別主義者の仲間なのか!」と罵倒し、自分の街から遠いところで暴動や略奪が起きていても応援し、一方でそういう暴動が自分の家の近くで起きたら警察に電話する・・・みたいなムーブメントが、いかに無責任に社会の紐帯を引き裂いてしまう行為であるか、真剣に考えられるべき時だと思います。

結局アメリカでは、物凄く些末なマナー的レベルでの「黒人差別」はどんどん一罰百戒みたいに厳しくなっていくようで、初等教育が学区ごとに余りに違う状況にあること…みたいな格差の根本原因は常に放置されたままになってしまう。

そりゃトランプみたいな「暴走する男」が出てくるのもわかるよね、って話なんですよね。

こういうのはトランプ本人の行為の「ここがダメだ」と言う批判をしているだけではダメなんですよ。「トランプがここまで持ち上げられてしまう根本原因」の方を責任持って解決するようにしていかないと。

BLM側の「ベタな正義」と同じぐらい警官側にも「ベタな正義」があるので、「メタな正義」を目指して話を動かしていかないと、一方的に「全て敵側が悪い」という論理で押し込もうとするとどんどん社会が引き裂かれていって具体的な細部も工夫の積み上げをすることが不可能になってしまう。

そもそもロシアという存在が、歴史的に常に「西欧由来の意識高い系の思想が現実に合わない部分」を無理やり引き受けさせられる貧乏クジを引かされてきた存在ですよね。

「フランス革命の理想」は良いけどトバッチリでナポレオンに戦争を仕掛けられて大変な思いをすることになったのがロシア。

「共産主義の理想」は西欧では「そういう話もあるね」で終わったけど、ロシアはまさにそれを「実行」に移して大変な苦労をすることになってしまった。

西欧はその「極論を実行したロシア」を横目に見ながら、資本主義の過剰な部分を修正して「ちょうどよい湯加減」で生きることができたりした。

その「改革を求める側」が、「社会の逆側のワーニャおじさん」に「全部お前が悪い」と押し付けてしまうここ100年200年の人類史の流れ自体が、そろそろ限界に来ているわけです。

これも先月出した私の本からの図ですが、以下の「質問2」と「質問4」にちゃんと向き合う必要があるわけです。それが「メタ正義感覚」なんですね。

7●メタ正義的な「令和の仕切り方」・・・を押し上げていこう

具体的に日本ではどういうものか?

例えば以下の記事で書いたような、「資本主義に対してイエスかノーか」みたいな二者択一を超えて、「資本主義の仕組みを乗りこなして自分たちならではの作品作りをする」という「鬼滅の刃の大ヒット」を支えた令和の仕切り方をするという話とか。

または以下の記事で書いたような「中小企業の給料を上げるための統合作業を、文化的反発に留意しながら丁寧に行っていくこと」みたいな話でもある。

さらには以下の記事で書いたような、「医学部入試の女性差別」を批判するだけでなく、その背後にある「日本の医療全体の制度的な歪み」を改善していく方向に議論を向けるべきだ・・・という話にも繋がってくる。

上記記事でも書いたけど、実際に医学部入試の女性差別が改善された今となっては、「なぜそこまでの事が必要だったのか」について、日本の男が性差別的で女を下に見ているからだ・・・みたいなアホな偏見ではなく「実際のリアルな理由」に目を向ける女性は今後増えてくると思います。

果てしなく「古い社会」をバカにしてさえいれば喝采を受けられた時代っていうのも、なんか女性を二級市民扱いしてるところがあるというか、

「女の子はそんな難しいことまで考えなくていいんでちゅよ〜ただ男が全部悪いって言ってればいいでちゅからね〜」

…みたいなのに飽き足らない女性も出てきてると思いますし。

さらにはそれは今回の「プーチンの大暴走」が世界に与えたショックの結果として、人類社会が向き合わなくてはいけない課題として今後立ち現れてくるでしょう。

そういう「メタ正義的な令和の仕切り」が主流になってくれば、ワーニャおじさんが限界までやせ我慢をした挙げ句暴発してまわりに迷惑をかけることもなくなるし、女性が何かこの社会に「提案」した時に無下に批判されて潰されるような事も必要なくなる。

そういう「共有基盤」ができれば、普段の家事の夫婦の分担がどうしたこうしたみたいな小さなすれ違いを解決することも可能になる。「全部男が悪い」と毎回吹き上がるのではなく一個一個のケースをフェアに精査できるようになるほど、その「結論」に対して、「分断されていない男社会全体」の側からの「遵守を求める圧力」を高めることも可能になるからですね。

そういう基盤を整備していかないと、大都会のほんの上澄みの学歴と資本に守られた特権階級以外の、日本全国の津々浦々に「良識的な優しさ」を押し広げていくことができない。

結局、「権威ある老教授セレブリャコーフ」も「意識高い系の男アーストロフ」も、過剰に理想化した欧米と比較して現地社会がダメだダメだというだけで、「その社会の具体的な課題」にちゃんと向き合う気がない存在を押し上げていたってダメなわけです。

そこでしっかり「現地の課題」を向き合う具体的な議論を盛り上げていくことができれば、さっきの以下の図の「注射器の先に穴を開ける」事が可能になる。

日本人のための議論と対話の教科書より

この「注射器の両側から押し込まれるエネルギー」を両方とも完全に相対化してしまった視座から、注射器の先に穴をあける行為が求められている。

欧米サイドの国として何世代も生きてきた蓄積があり、「欧米文明に征服される側の反感」も我が事として理解できる、私達日本人こそが、その役割を果たすべき時代がすぐそこまで来ているわけです。

罵り合いをやめて、具体的な工夫を積み上げていきましょう。

その方法については以下の本にキッチリとまとめておきましたので、ぜひお読みいただければと思います。(電子書籍もあります)

日本人のための議論と対話の教科書

この本は以下で試し読みできます。

長い記事をここまで読んでいただいてありがとうございました。

ここ以降は、「ロシア的男の美学」の背後にある感情的連帯をいかに切らずにいられるかが大事だ・・・みたいな考察をします。

以下のツイートはセルビアのベオグラードでの、「ロシア支持デモ」の様子なんですが、なんか凄い人が集まってるみたいなんですよね。

ロシア本国ですら「戦争反対デモ」が弾圧されつつ結構起きているぐらいなのに、ここまでまとまった「ロシア支持」デモが起きている国は世界的にも珍しいんじゃないかと思います。

何がセルビア人をそうさせるのか?一応広義の広義で言えば「同じスラブ系民族」という連帯心があるのかもしれない。(とはいえそれ言ったらウクライナ人もそうなんですが)

もっと言うと、20年前ぐらいにユーゴ紛争でアメリカ(直接的にはNATO)に爆撃されてるので、「アメリカにいじめられているロシアは仲間」みたいな気持ちがあるのかもしれない。

私は大学時代につきあっていた女性が文化人類学の調査でセルビア(当時はユーゴスラビア)に調査に行ったのに付いていって一ヶ月ほど滞在した事があるんですが、ホームステイ先のオジサンがバリバリの反米主義者で、結構衝撃的だったんですよね。

ムチャクチャ陰謀論っぽいビデオを見せられて、いかにアメリカが自分たちセルビアを悪人に仕立て上げているか力説されたり、NATOの爆撃で橋が落ちる瞬間、俺たちは仲間うちで爆撃音と同時に毎回乾杯して酒を一気飲みするパーティをしてたんだ!という自慢話とか(笑)

で、こういう話って中東でもあると思うんですが、結構「アメリカと真剣に戦った日本は信頼できる」みたいな感情ってあるな、と思うんですよ。

「欧米中心文化」の抑圧に抵抗してきつつ、かつ「欧米的秩序」の中で優等生的に経済発展をしている日本の歴史にちょっとしたカタルシスを感じてくれる回路があるというか、「日本は西側だけど俺たちの仲間だ」的なフィーリングがある。

G7の一員の日本という国が、ロシア制裁に加わらずに中立仕草をすると制裁に巨大な穴が開くので、そういうところはちゃんと「ダメなものはダメ」って態度で示していくことは大事だと思うんですよ。

しかし一方で「ポリコレとネオリベの押し売り」みたいなアメリカ型の秩序形成が世界の半分の憎悪を強烈にかきたてている現象の中で、「彼らとも共感する回路が残ってる日本」みたいな部分は、維持したほうがいいというか、むしろ人類が第三次世界大戦に至らずに済むためのカギですらあると思うわけです。

ここ以降、そういう「日本の両義的な部分」が、単なる「どっちつかずで無責任なコウモリ野郎」だと思われずに、世界中の「どちらのサイドの人」からも信頼される旗印にしていくためにはどうしたらいいか?とか、そこにおける「東京という街」が持つ可能性・・・みたいな話をします。

2022年7月から、記事単位の有料部分の「バラ売り」はできなくなりましたが、一方で入会していただくと、既に百個近くある過去記事の有料部分をすべて読めるようになりました。結構人気がある「幻の原稿」一冊分もマガジン購読者は読めるようになりました。これを機会に購読を考えていただければと思います。

普段なかなか掘り起こす機会はありませんが、数年前のものも含めて今でも面白い記事は多いので、ぜひ遡って読んでいってみていただければと。

ここまでの無料部分だけでも、感想などいただければと思います。私のツイッターに話しかけるか、こちらのメールフォームからどうぞ。不定期に色んな媒体に書いている私の文章の更新情報はツイッターをフォローいただければと思います。

「色んな個人と文通しながら人生について考える」サービスもやってます。あんまり数が増えても困るサービスなんで宣伝してなかったんですが、最近やっぱり今の時代を共有して生きている老若男女色んな人との「あたらしい出会い」が凄い楽しいなと思うようになったので、もうちょっと増やせればと思っています。私の文章にピンと来たあなた、友達になりましょう(笑)こちらからどうぞ。

また、先程紹介した「新刊」は、新書サイズにまとめるために非常にコンパクトな内容になっていますが、より深堀りして詳細な議論をしている「みんなで豊かになる社会はどうすれば実現するのか?」も、「倉本圭造の本の2冊め」として大変オススメです。(Kindleアンリミテッド登録者は無料で読めます)。「経営コンサルタント」的な視点と、「思想家」的な大きな捉え返しを往復することで、無内容な「日本ダメ」VS「日本スゴイ」論的な罵り合いを超えるあたらしい視点を提示する本となっています。

さらに、上記著書に加えて「幻の新刊」も公開されました。こっちは結構「ハウツー」的にリアルな話が多い構成になっています。まずは概要的説明のページだけでも読んでいってください。(マガジン購読者はこれも一冊まるごとお読みいただけます。)


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