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『ウィル・スミスによるビンタ』への反応の日米差から考えるジェンダーフリー

Photo by aniestla on Unsplash


あまり興味を持ってなくてここまでオオゴトになるとは思っていなかったんですが、アカデミー賞授賞式でウィル・スミスが、妻を侮辱されたとしてプレゼンターのクリス・ロックにビンタをした事件が話題です。

色んな人が色んな事を言っていて、特に

アメリカじゃあウィル・スミスを擁護する声はかなり少ないが、日本だと「ウィル・スミスよくやった!」一色な反応なのはなぜなのか?

…という話が結構面白くて、なんか色々考えさせられます。

特に、日本ではウィル・スミス擁護派が多いのは、「男は女性を守ってやるべきもの」というような古いタイプの性役割が定着しているからで・・・みたいなみたいな分析を結構聞いたんですけど。

この記事では、こういう↑議論は、単に「フェミニズム的に日本社会を批判する立場」から重要なんじゃなくて、「フェミニズム的理想と日本社会を共存させる」ために大事な議論を含んでいるんじゃないか・・・みたいな話をします。

「はじめまして」の人に少し自己紹介をすると、私は学卒で外資系コンサルティング会社に入ったものの、そこにある「グローバルに共通な手法」と「日本社会」との間の分断を超える視座がそのうち切実に必要になるなと思って、その後わざわざブラック企業やカルト宗教団体とかに潜入したりするフィールドワークをした後中小企業コンサルティング的な仕事をしている人間なんですね。(詳しいプロフィールはこちら)

つまり「あらゆることで進んでいるとされる欧米の文化」の押し付けが「非欧米」社会における巨大な摩擦を引き起こす現場・・・のような環境で、どうすれば「どちらの理想も」取り入れる事ができるのか?について色々と実地に模索しつつ、たまにこうやってウェブ記事や本を書く「思想家」的な仕事もしているわけです。

単に「遅れている社会を断罪・糾弾しまくる」だけだと、大都会の学歴と資本に守れた特権階級でのみ物凄くシビアな「推奨されるマナー」を普及させることはできますが、社会全体で見た時にはむしろ反発が募って全然逆の方向の価値観に振れていってしまうゾーンも出てきてしまう。

結果として「優しい配慮がある環境」で生きられる人間の数がむしろ減ってしまいかねない。

そこでどうすればいいのか?「古い社会」と「新しい理想」を対決関係にせずに溶け合わせて、その「理想」の配慮の中で生きられる人数をリアルに増やしていくにはどうしたらいいのか?というテーマの中で今回のウィル・スミスのビンタを考えるという記事になります。

(体裁として有料記事になっていますが、「有料部分」は月三回の会員向けコンテンツ的な位置づけでほぼ別記事になっており、無料部分だけで成立するように書いてあるので、とりあえず無料部分だけでも読んでいってくれたらと思います。)

1●日米の男女の色々な反応はどうなっているのか?

とりあえずまず、色々なタイプの人がどういう反応をしがちだったのか、をざっくり傾向として見ていきたいんですけど。

自分は特にハリウッド界隈に興味がなくて最初は日本語ニュースや日本語SNSの反応でしか見てなかったんで、アメリカでも

「まあウィル・スミスの気持ちはわかるし、よくやったと言える部分もあるが、まあ暴力はいけないよね」

…的な感じに受け取られているのかなと思っていたんですよね。

しかしアメリカでは、なんかどうやらウィル・スミスは本当に一線超えてダメなことをしたサイコパス、みたいな評価の方が主流みたいで。

これはアメリカのメディアのTwitterですけど、青色になってるのが「クリス・ロック擁護派」、赤色が「ウィル・スミス擁護派」らしいです。

へえ、クリス・ロック擁護派の方が断然多いのか!と思いますね。

いわゆる「共和党が強い地域」の方がウィル・スミス擁護派が多いように思いますが、まあそのへんも予想通りなようにも思います。いわゆる「ジェンダーロール」的な課題に関する難しい立場の違いがあるというか。

日本においては、結構女性がむしろ「ウィル・スミスかっこいい!」てなってる人が多い印象で、一方でアメリカの女性の間では、「奥さんは奥さんで自分で対処できる自立した大人なのにウィル・スミスがしゃしゃり出るのはオカシイ!」みたいな反応が多いらしい。

一方で、日米ともに男性の反応は、女性と比較するとまあそこまで良いとも悪いとも言ってない事が多いかな?という印象ではあります。僕もそうだったんですが「へえ、そんな事があったんですね。(おしまい)」ぐらいの感じで。

ただし勿論、人によっては激烈な興味をもたせる事件ではあるみたいで。

私は経営コンサル業のかたわら「文通」を通じて今を生きる個人の人生を一緒に考えるっていう仕事もしていて(興味あればこちら)、そのクライアントに「恋愛対象は男性のゲイなんだけど、普段女性の格好をする事によって初めて自分自身の安心を得られて、しかし性自認はあくまで男」という大変難しい性質の人物がいるんですけど…

その「彼」がこの件について結構興奮して「ウィル・スミスは悪くない。時に人間はこういう態度を示すことが必要なんだ」みたいな長文メールを送ってきてくれて、へえ、そういう風に感じているのかと少し驚いた事がありました。

あと、その彼のメールで紹介されていた「はてな匿名ダイアリー」がなかなかおもしろくて。

これ↑、タイトルだけ読むと単純なフェミニズム的に「欧米アゲ、日本サゲ」をする文章かと思いきや、文章全体を見るとある種のフェアさがあるというか、結構考えさせられる話が多かったです。

「ウィル・スミスかっこいい!」ってなってるのは日本ではむしろ女性の方が多そうな感じなのに、それを全部「日本社会が女性を二級市民として奴隷化してきたからだ」みたいな角度から批判していても解決できないと思うんですね。

一方で、事実関係として客観的に整理した上で、じゃあ今後の日本の男女が納得できるあり方はどういうものか?を考える・・・というのが今後に非常に大事なステップなんじゃないかと。

そういう話をもう少し深堀りしていきたいんですけど。

2●単純に善悪化しないで実際のところを観察することから始めると?

さっきの「はてな匿名ダイアリー」をちょっと長めに引用しますけど・・・

別に日本が間違ってるとかアメリカが間違ってるとかではなく、明白な違いとして成人女性の扱いが違うのだ。女子供なのだ。
そしてそれを男性も女性も(むしろコメントを見ると女性の方が)肯定しているのだ。
AV出演の選択についても、日本では女性を守ってあげなきゃという視点で語られるが、アメリカでは自己選択権として真反対の議論がされるだろう。
それは日本の女性にとってありがたいことだろうし、悲しいことだろうと思う。
18歳男性の起業の権利や失敗の責任については、勝手に挑戦し、勝手に責任を負うことになるのが当然なのに
18歳男性のAV出演の権利や失敗の責任については、勝手に挑戦し、勝手に責任を負うことになるのが当然なのに
18歳女性のAV出演の権利や失敗の責任については大人たちが守ってあげなければいけないと議論しはじめる。
それが日本なのだ。
「妻は夫が守ってあげないといけないからね」「ウィル・スミスよくやった」
それが日本なのだ。
一方、アメリカでは評論家のミカ・ブルゼジンスキーはこう吐き捨てた。
"Jada can take care of herself’"と。

アメリカ人と違って日本人がウィル・スミスを称えるのは女性を一人前扱いしてないから(はてな匿名ダイアリー)

この文章がいいなと思ったのは、「だから日本の男が全部悪い」みたいな話にしてなくて、ちゃんと現状を冷静に把握してるところなんですよね。

要は日本女性がまず「男に古いタイプの性役割を期待している」構図があって、そこで「守られたい」という欲求があるので、それに答えてアレコレと差し出がましいおせっかいを社会の側がするし、女性の自由を縛るような有形無形の社会構造が放置されたりもする。

これをさらに一段掘ると、そもそも日本女性が「守られたい」という欲求を持つに至った原因こそが女性を二級市民化する家父長制の影響があるのであって!・・・いやいやだって女もその「守られる特権」を手放さないじゃん!・・・みたいな永久ループに入っていくんですけど。

ただなんか、日本女性もあまりおせっかい的に庇護される代わりに奉仕を求められるのもそろそろ辞めたいと思っているし、日本男性も「男性の特権を廃止するなら女性の特権も廃止しろ」みたいな気持ちも結構あるしで、この「永久ループ」的でない解決の道も見えてきているんじゃないかと思う部分もあるんですよね。

しかしそういう「新しい機運」を具体的な形にするには、絡まりあった糸を丁寧にほぐしていく作業が必要で、「全部相手のせい」にして糾弾してれば進む話でもないところが難しいんですよね。

特に問題なのは、単に「お互いの特権を廃止しろ!」と売り言葉に買い言葉でぶつけあって変わっていくと、とにかくあらゆる人がナアナアには生きられない厳しい社会になっていってしまう大問題があって、日本の場合それが「男女ともに嫌」だから伝統的な社会の惰性に戻ろうとするエネルギーが働いて、ちょっとずつしか社会が前に進まなくなってしまっているような印象を受けます。

3●「お互いの特権を廃止しろ!」と叫び合うだけだと逃げ場のない激烈な競争社会になってしまう

男女ともに「古い役割意識」を遵守するのはちょっとしんどくなってきているよね・・・というボンヤリとしたコンセンサスぐらいはあるけれども前に進みづらいのはなぜか。

それは単純に「そういうの」を一切排除していこう!ってなると、社会全体がどんどんネオリベ化してくるというか、お互い「それはお前の特権だ!廃止しろ!」と全力で叫び合う社会・・・になっていいのか?という危惧感があるからではないかと思うんですね。

誰もが「安住できる場所」を削られて切実に叩き合いをしていないといけない社会になると、透明性は上がって高学歴で有能な一握りの女性の福利は上がるかもしれないが社会全体がどんどんギスギスしていきかねない。

以下の記事で書いたように韓国は結構そういう感じになっていってるんですよね。

先日の大統領選挙で、20代の男女だけが性別によって投票先が全然違う結果になっていて、「どっちの方が特権を持っているか」で全力で抗争する世界みたいな感じになっている。

(なんかこの記事について「フェミvs反フェミ」的な話題は結局票数的には打ち消し合っているのだから大きな論点ではなかったのだ・・・という批判をTwitterで貰ったんですけど、問題はそこじゃなくて、「特権性の叩きあい」をヒートアップさせると結果として「保守派のネオリベ的競争主義」を押し上げるモメンタムが生まれるんだってところがポイントだと私は考えています。)

結果として選んだ政権がかなりネオリベ競争主義的方向にさらに振り切れていくような感じで、まあその方が経済全体の調子は良くなる可能性もあるけど、大丈夫なのかな?と思わなくもない。

まあ他人の国のことをとやかく言いたくないし、韓国人的にはそれを選ぶのが「らしい」選択肢だというのも理解できるんでそれはいいんですが、一方でそういう手法が「日本社会」に適合するのかという課題は別にありますよね。

ナアナアに義理の連鎖が縛ってくるような日本社会が嫌いな人は男女ともに韓国風にわかりやすく割り切った解決策を求めがちです。

しかしそれを「日本社会が拒否」しているのは別に「日本の男が特権を手放さない」からではなくて、「ネオリベ競争社会化が嫌だと感じているのは日本場合男も女も大勢は変わらない」という理解から始めることが大事なんじゃないかと。

4●平均値的統計でなく具体的な改善策を共有する

こないだYou Tubeで「モスクワ在住の日本人夫とロシア人妻」の日常動画とか見てたら、なんか結構ロシア人妻の『控えめな振る舞いで男を立てるようにしつつある意味常に自分を尊重するように強いてくる』的な少し古風な振る舞いが印象的だったんですよね。

アメリカでも保守的な州ではウィル・スミス擁護派が多いように、人類社会全体で見ればむしろこういう性差をベースに人間関係を構築している社会の方が現時点では多数派みたいなところはあるように思います。

だから放置していいという話ではないんですが、この構造が単に「差別主義者の男の支配によるのだ」という風に無理やり引きちぎろうとするから、むしろ”女性の半分”すらそういう新しい運動に対して反発を覚えるみたいな結果になるんじゃないかと私は考えていて。

「古い役割分担」も、それなりに当時の男女なりにメリットがあったから存在していて、今もメリットがあると感じている人たちはそれの継続を望んでいる

…というある意味で「当たり前の現状認識」からスタートして、とはいえ価値観も変わってきたんだし、色々と時代に合わせて変えるべきところを変えていきたいですね・・・という冷静な対話をいかに持てるかが重要なんではないかと。

私はこういう発想を、「自分たちのベタな正義」と同じように「敵側が持つベタな正義」を対等に認めた上で解決策を探っていく「メタ正義感覚」と呼んでいるんですが。

特にこういう態度が大事だなと思うのは、日本のSNSでもいつも起きていることですが、平均値的数字で「古い社会を糾弾」することをやるたびに、逆側にアンフェアだと感じる感情が募っていく問題があるんですよね。

例えば、

「女性なのに勉強とかできても仕方ないよ」「女なのに数学できるなんて可愛くないね」「女は良い大学に行く必要はない」

…とか言うヤツがいたら、こりゃ現代の価値観的には相当な人が拒否感持つと思うんですよ。こういう風潮を取り去っていく動きをしていくのに反対する人は多くない。

しかしこれがなんか「平均値的な数字」を出して「糾弾」しはじめると、途端に社会の半分の人にとって物凄くアンフェアに見えるようになるんですよね。

なぜならそういう風潮を”社会の逆側”から眺めると、

「男なのに芸術系の専攻なんかして将来妻子をどうやって養うつもりなんだ」

…と言われている無数の男がいるに違いなく、そういう傾向的選択の違いが「統計的数字(進学性向の差とか平均賃金の差とか)」にあらわれている時に、それを全部「日本の男が悪い」っていう結論にする事のアンフェアさが、余計に問題をこじれさせる。

「女性でも今の時代数学できてもいいよね。有能なキャリアウーマンとして普通に働いている像をもっと普及させいたいですね」

このレベルの事↑は既に「普通に共有できるお題目」なんだから、いちいち「糾弾」とセットにする必要はない。

「ダメな営業マンあるある」みたいな話として、相手が買う気になってるのに、会社に教えられた営業トークをオウム返しに延々と喋ってウンザリさせる的な話がありますが、それと同じですね。

相手が買う気になっているなら延々と演説していないでサッと契約書を出して具体的な条件を詰めてサインをさせる段階に移行するべきなんですね。

これは私の著書からの図ですが、

日本人のための議論と対話の教科書

上図のように、「変革」の進行段階によって、「滑走路段階」と「飛行段階」の違いみたいなのがある。

まずは「黙らされないぞ!」「社会の側の事情に配慮するなど、それは差別主義者の味方をすることなのだ!」…みたいなのが必要な段階と、「実際にそれを社会の中で定着させていく」段階は別にあるってことなんですね。

前者の間はいくらアンフェアだろうとキャッチーな数字でぶん殴りにいくことが必要な段階もあるけど、社会全体が「じゃあ解決の道を探りましょう」ってなってるのにそういうアンフェアさが少しでも残っていると、感情的対立が余計に募って「もうお前らのいうことなんか一切聞いてやるものか!」みたいな感じになってしまう。

アメリカ社会ですら、数千万人のトランプ主義者が「意識高い系の論理に全部反対してやる!」となってるわけですよね。

さらには中国やアフガンやロシアや・・・みたいなのを考えると、「意識高い系のムーブメントがゴリ押しすぎて現地社会の実情と向き合う気がないと、結果としてその理想を保証されて生きる人間の数が減ってしまう」メカニズムがあることがわかると思います。

5●「男側の献身」に支えられていた社会の機能をシステム的に代替する

そうやって「アンフェアな平均値的数字を出して全面的な糾弾をする」のをやめて「具体的な改善を行う」ようにしていくと、だんだん「男側の献身によって支えられていた社会の機能」も見えてくるんですよね。

そしてそれを「新しい社会制度の構築」的な形で問題解決するようにしてこそ、「古い社会の抑圧」を超えていくことが可能になる。

私立大学医学部入試の性別による点数補正を改めて行くのは当然として、その背後にあるのは「日本の男が女を下に見ているから」なのか?という点をちゃんとフェアに見れば、世界一の高齢化社会の中で田舎でも貧乏人でもマトモな医療を受けられるようなシステムをギリギリで維持しようとする多くの人たちの献身がある事が明らかになるんで。

以下の匿名ダイアリーは昔読んで凄い印象的で・・・

ざっくり要約すると、

今の制度のままで女医が増えると日本の医療が崩壊してしまう!(のはわかってるが私も個人として幸せになりたいから彼と結婚して楽な診療科に行きますゴメンナサイ)

…みたいな記事なんですけどね。

日本におけるフェミニズムムーブメント的なものが、「医学部入試の補正の廃止を求める」声の大きさの半分でもいいので、

「そこを補正する以上、女医でも同じように厳しい診療科で働けて、かつアメリカのように貧乏人がマトモな医療を受けられない仕組みにもならない制度的な調整をしっかりやることが必要だ」

↑こういう議論を押し上げるようにしていってくれれば、しょうもない感情的対立の8割以上が吹き飛んでいくはずだと思っています。

「これ↑」ってそんな簡単なことじゃないし、単に理想化した欧米の事例を持ってきて日本はダメだね、って言っていれば解決できる問題でもない。

解決の具体策は別にわからなくてもいいけど、「そういう議論が必要だ」という風潮を押し上げるところまでフェミニズムがやってくれないと、結局社会の別の場所にシワヨセがいくだけに終わってしまう。

まあ、実際に「入試の差別」は撤廃されたわけなので、今後は女性の中からも、

「女の子はそんな難しいことまで考えなくていいんでちゅからね〜、全部古い社会が悪いって叫んでいればいいでちゅからね〜」

こういうの↑じゃ飽き足らないぞ!っていう気持ちになる女性も出てくると思うので、その中で「新しい着地点」を探っていくことによって、「古いジェンダーロール」を解体しつつ、「日本人が求める調和的な安定」をも維持できる具体策も積み上げていける情勢になるでしょう。

6●「意識高い系」と「現地社会の本質的事情」をどちらも対等に扱って解決する

ウクライナ紛争とかを見てると、”女子供”は逃げていいけど徴兵世代の男は国境を超えてはいけません・・・みたいな運用に当然のようになっていて、なかなか考えさせられますね。(車の荷台に隠れて出国しようとした男が晒し上げられたりしているのを見るのはちょっとウッとなります)

当然男なら戦うしか無い。戦って死んでもそれで妻子が守れるならいいよね・・・というのが「ここまでアタリマエのこととして通用」しつつ、それが世界的にも推奨される流れになってもいる。

人類社会にそこまで深く埋め込まれている制度が、単に「男が女を虐げている」という角度から告発しようとするから揉めるんですよ。

それはそれで男女ともにメリットがあったけど、時代の変化とともに合わない部分も出てきたので変えていきましょうね!というプレーンで当たり前な話をいかに共有できるかが大事。

私のクライアントの中小企業でも、女性の活用を進めるとなったら「社食に女性用メニューがない」とかいった課題から解決する必要があるけど、それと同時に「女性だけが優遇されているという不公平感」を男性社員に抱かせないような配慮が凄い大事なんですよね。

そういう『感情的共有基盤』ができれば、家事の分担をどうするとか、女性と見るややたら高圧的な態度を取るヤツがいるとか、「映画監督が女性俳優の出演と引き換えに性的関係を強要する事件」みたいなのに社会全体でNOを突きつけていくとか、そういうことがはじめて可能になる。

韓国の若者の男女対立があそこまでこじれてるのも兵役関係のアンフェア感がコアにあると思われることもあって、なんかこういう「男側の献身によって支えられていた社会の機能」をも、ちゃんと言挙げして対象化して解決していこうとするムーブメントが今後必要なんだろうなと思っています。

とはいえ別にそんな「特殊な方式」を取る必要はなくて、「今までの社会構造が女性のこういう献身を無視してきたのが良くない」と対象化されてきたのと全く同じように、「今までの社会構造が男性のこういう献身を無視してきたのが良くない」というのも「全く同じモード」でまな板の上にあげて料理していくプロセスを丁寧に社会全体でエンパワーしていくことが大事なのだと思います。

特に、日本社会の場合に難しいのは、「アメリカの一番良い部分」だけを選択的に取ってきて日本社会を批判すると、じゃあアメリカみたいな格差社会にまっしぐらでいいのか・・・みたいな袋小路になってしまう事なんですよね。

「アメリカの良い部分を日本でも実現するために、アメリカのダメな部分が日本でも起きてしまわないような算段を一緒に考えながら変えていきましょう」

こういう「社会にとって大事な問題解決の軸」が、非欧米社会においては常に「過剰に理想化した欧米の像を持ってきて叩く」勢力に崩壊させられてしまうことが、現代人類社会のあらゆる課題の背後にあると私は考えています。

以下の記事で書いたように・・・・(ちなみに同じアカデミー賞で話題のドライブ・マイ・カーの話を深堀りしている記事なのでご興味があればどうぞ)

大事なのは、「その社会の事情」と共通して向き合う姿勢を見せてくれないと、単にアンフェアな糾弾ばかりしているだけでは「対等な仲間」と思わない人が出てくるのも当然なんですよね。

女性も「男の柱」以上に鬼舞辻無惨戦でガチに活躍する、「鬼滅の刃型のガールズエンパワーメント」の先にこそ、日本社会の希望はあるし、同時に人類社会の分断を癒やす新しい解決策も見えてくるはずだと思っています。

「グローバルな風潮」と「ローカルな社会の事情」をどちらも一方的に押し付けることなく、現地現物に「生きている人が生きやすい優しい環境」を作るための協力関係を築いていくことが大事な時代です。(それができなきゃもう人類は第三次世界大戦するしかないぐらいの!)

そういう「お互いのベタな正義」を超える「メタな正義」をいかに共有していけばいいのか・・・という点について、私のクライアント企業で10年で150万円給料を引き上げられた成功例などから、社会全体の課題にいたるまで一貫して解きほぐしていく新書を先月出しました。

日本人のための議論と対話の教科書

以下のページで「序文(はじめに)」を無料公開していますので、よろしければお読みください。

長い記事をここまで読んでいただいてありがとうございました。

以下の部分では、「メタ正義感覚」っていうのはとにかく話し合いをしてナアナアな折衷案で誤魔化しましょうという話じゃないのだ・・・という話を、「日本人のための議論と対話の教科書」の中では結構しているんですが、誤解されやすいのでその点についてもう少し掘り下げていきます。

「相手側のベタな正義にも配慮する」ことは、単にナアナアにすることではなくて、そうすることで「相手を本当の意味で押し切ってしまうことが可能になる」という発想が大事なんですね。

特にウクライナ紛争勃発以後の世界情勢は、今までの「全部古い社会が悪いということにする」態度への包囲網をどんどん狭めて行く効果があるので、それを利用しながらいかに日本社会を「前に」転換していく動きを押し上げていくか・・・について、新刊の「第三章の後半」で書いたような内容を今の事情に合わせてアップデートするような記事を書きます。

2022年7月から、記事単位の有料部分の「バラ売り」はできなくなりましたが、一方で入会していただくと、既に百個近くある過去記事の有料部分をすべて読めるようになりました。結構人気がある「幻の原稿」一冊分もマガジン購読者は読めるようになりました。これを機会に購読を考えていただければと思います。

普段なかなか掘り起こす機会はありませんが、数年前のものも含めて今でも面白い記事は多いので、ぜひ遡って読んでいってみていただければと。

ここまでの無料部分だけでも、感想などいただければと思います。私のツイッターに話しかけるか、こちらのメールフォームからどうぞ。不定期に色んな媒体に書いている私の文章の更新情報はツイッターをフォローいただければと思います。

「色んな個人と文通しながら人生について考える」サービスもやってます。あんまり数が増えても困るサービスなんで宣伝してなかったんですが、最近やっぱり今の時代を共有して生きている老若男女色んな人との「あたらしい出会い」が凄い楽しいなと思うようになったので、もうちょっと増やせればと思っています。私の文章にピンと来たあなた、友達になりましょう(笑)こちらからどうぞ。

また、先程紹介した「新刊」は、新書サイズにまとめるために非常にコンパクトな内容になっていますが、より深堀りして詳細な議論をしている「みんなで豊かになる社会はどうすれば実現するのか?」も、「倉本圭造の本の2冊め」として大変オススメです。(Kindleアンリミテッド登録者は無料で読めます)。「経営コンサルタント」的な視点と、「思想家」的な大きな捉え返しを往復することで、無内容な「日本ダメ」VS「日本スゴイ」論的な罵り合いを超えるあたらしい視点を提示する本となっています。

さらに、上記著書に加えて「幻の新刊」も公開されました。こっちは結構「ハウツー」的にリアルな話が多い構成になっています。まずは概要的説明のページだけでも読んでいってください。(マガジン購読者はこれも一冊まるごとお読みいただけます。)

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