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ギフテッド=天才の苦悩②いじめ・陰口・理解されない・孤独,etc

ギフテッド=天才の苦悩でよくある話は、いじめ・陰口・理解されない、などだと思う。私は大人になってから自分がギフテッドだと気づいたのだが、そのことが分かったのはネットで発表したオリジナル哲学理論がかなりのフォローワーさんから天才と評価されてしまい、ギフテッドだと認知されてからであり、子供の頃はあまり意識はしていなかった。しかし、自分は何だか周りと違うなという違和感だけがなぜかあって幼稚園の時から疎外感というか一種の孤独を感じていた。ここ最近、ギフテッドの息子を育てているママさんの毎朝配信しているメルマガを時々読んでいるのだが、このように書かれていた。

「ギフテッドの子供は得意なことはものすごく優秀だか、周りとの違いからコミュニケーションに苦手意識を持っている」

この文章で少し腑に落ちたというか納得した部分もあった。そしてこうも書かれていた。

「コミュニケーションに苦手意識を持っているので集団社会に溶け込むのが大変で、不登校になりやすい」

なるほど・・・これも納得。自分は勉強が好きで学校はそこまで苦ではなかったので不登校にはならなかったがしかし、やはり友達に合わせなければならないという一種の学校の同調圧力のようなものが苦痛であった記憶がかすかに残っている。自分の場合はIQ130以上と通常定義される普通のギフテッド児童と違って、学力やIQがずば抜けて優れていたわけではなかったので学生時代は自分がギフテッドなどと感じることはなかったが、周りの大人や教師によく「天才君」とからかわれて呼ばれたりして何だか「自分は他の子と違うのか?おかしいのか?」と感じることが多々あった。実際に、小学校高学年の時の算数の授業で誰も思いつかない「アルキメデスの法則」のような数学理論を応用して円柱の体積を計測器を使わないではかるという方法をみんなの前で発表したら案の定驚かれたことがあった。ギフテッドの本を読んで大人になってから分かったのだが、自分の場合は創造性のギフテッドらしい。だからそういう誰も思いつかない法則などを発見できたりする。だから、哲学など想像力が非常に重要な分野は得意でオリジナルの哲学理論を思いついたりするのだと思う。

そして、そのギフテッドの息子さんを育てるママさんのメルマガには以下のようにも書いてあった。

「ギフテッドはワーキングメモリーが低いけど、長期記憶力が優れていたり能力がアンバランスだったりもする」

これはいわゆるギフテッド2E=2Exceptionalと言われるもので、二つの例外という意味であり、ギフテッドは非常に得意な分野がある代わりに発達障害的な特性もあり能力がアンバランスであることが多いという。自分も場合はワーキングメモリーは120近くあって高いのだが、空間認知能力?のようなものは確か80以下などで非常に低かったような気がする。だから、接客系のバイトや営業、電話対応、事務の仕事などそういった類のものが全部苦手で学生時代もバイトで嫌というほど怒られたりクビになったことがたくさんあった。しかし、代わりに長期記憶力が優れ過ぎていて赤ちゃんや幼稚園の時の記憶を鮮明に覚えているのだが、普通の人はまずそんなことは覚えていないらしい。特にその時の記憶があるということは、赤ちゃんや幼稚園の時点ではっきりと自我があったということで、まわりの子たちはみんな大人の言うとおりにきゃっきゃ遊んでいて自分だけなぜか自我があるみたいな妙な違和感を感じたことがある。そして、それは幼稚園時代に特に顕著で、自分だけ嫌々先生の言う事を聞いていたのに、周りの子たちは何の疑問も抱かずにお遊戯をやったりお弁当を楽しそうに食べたりしていてそれが妙な光景に映った記憶がかすかに残っている。あれはいったい何だったのか?

人生初めてのいじめ

自分は、幼稚園の時からそんな感じで周りから浮いてたので案の定、いじめの標的にされた経験が一度ある。先生のいいつけ通りにお弁当の時間の前に布巾か雑巾のようなものでテーブルを拭くのが毎日の習慣になっていて、当番が毎日決まっていたのだが、自分は幼稚園なんて嫌々行ってたし友達もいなかったし先生の言うとおりに行動するのなんてまっぴらって感じだったので自分が当番だったことすら忘れてたのだが、それが周りの子たちをイライラさせたらしく同じテーブルで食べていたグループの子たちから集中攻撃されて「何やってんのよー」とか「早くしろよー」とかそれ以外にも散々ひどい罵倒を浴びせられた記憶が残っている。その場で呆然と立ち尽くして、永遠とずっと攻撃され続けていた。この時のことは今でも鮮明に覚えている。大人になってからはっきりと分かったというか一種の確信なのだが、人間は集団化すると怖いということ・・・また集団化すると人は変わり者や異物を真っ先に標的にして攻撃し排除するという習性がすでに幼稚園の時から備わっているということで、これは大人になってからも続くのだ。だから大人の社会でも学校と同じように当然いじめがあるのだと・・・
これは一種の人間の本能のようなものなのだと思う。いわゆる村八分というやつだ。猿やチンパンジーなどの世界にもいじめや仲間外れというのはあるらしいが、人間も哺乳類であり動物であることには何ら変わらないので同じようなことが起きるのだろう。また、私は幼稚園の時に先生にまで虐められた。案の定、先生の言う事をよく聞かないものだから、「この子は可愛げがない」と判断され先生からしょっちゅう怒鳴られてたらしく、その現場を自分の母親が目撃してしまったらしい。後で母親から聞いたのだが、母親が近寄ってきてその私に怒鳴っているところを見られたことに気づいた瞬間に、にっこり笑顔に戻りさも何もなかったかのように素知らぬ顔をして知らない振りというか演技をしたらしい。まあ、その先生は後から知ったが、実は子供が苦手で幼稚園の先生は合わなかったらしくその後すぐ小学校の教師に転職したらしいが・・・

そんなこんなで人生初のいじめが幼稚園であり、しかも先生にまで虐められたというのがトラウマになっている記憶がある。また、小学校低学年の時もある教師に対して自分が「算数なら得意だよ」みたいにことを言ったらしく、その人は多分「生意気なガキだな」と思ったのか「じゃあこの問題分かるかお前?」みたいにわざと意地悪な難しいなぞなぞみたいな算数の質問をひたすら自分に向けてきて答えられないと「お前はバカだな」みたいに言って大勢の子たちの前で恥をかかせたという思い出があり、非常に陰険で意地悪な先生がいた。そして、ついに私は泣き出してしまったので、さすがにその先生も慌てて私を慰めてきたのを少しだけ覚えてる。
GTOの神崎麗美のような学力の天才児ではなかったので、自分は明らかに周りの子たちと違うみたいな差別意識はなかったし教師をついに激怒させてしまい事件が起きてしまった!みたいなことはなかったのだが、それに近いようなことはあった。

いじめは会社員になってからもあった。他の記事にも書いたが、新卒で入った会社は一部上場企業でまさにエリート社会だったのだが、そこの会社では「君は優秀人材」と勘違いされていきなり何のノウハウもないのにネットワークプロジェクトに抜擢されたのだ。案の定、自分は理系でもないしITの専門家でもなかったのでそれで四苦八苦していて人事部にも相談できずにいた。しかし、そんな中で次第に同期や先輩に陰口を叩かれるようになった。「なんであいつがプロジェクトに?」みたいに陰口を叩かれていたらしい。そして、同期のある女性社員にはドアを開けてでようとした時に「あらごめんね!」みたいにわざと肩がぶつかるように出ていかれたことがあってあれは明らかに意図的だったのだと思う。多分、エリート社会でみんなそれなりに勉強のできる高学歴ばかりの会社だったので、私のような存在は疎ましく感じたのだろう。「天才を殺す凡人」というベストセラーでも秀才は天才に嫉妬するというようなことが書いてあったので、まさにその通りなのだろう。

孤独と疎外感

また、中学生の時にある担任教師に「お前は天才少年ドゥギーハウザーみたいだな。」「お前は友達がクラスにいなくて可哀そうだな」と言われた記憶がある。これは一体何を意味するのかは分からないが、多分「お前は天才だから孤独で人生可哀そうだな」と勝手にレッテルを貼られて同情されたということなのか?いまだによく分からないが、多少なり思春期で傷つきやすい時期でもあったのでその言葉がトラウマになって記憶に残っている。多分、その担任教師の天才のイメージというかストレオタイプでは「天才は孤独で不幸な人生を送る人が多いからこれからお前は人生大変だな。」という意味合いだったのだろう。また、高校の時もある英語の女性教師に「周りの子たちは大人なように見えてまだまだ内面は子供なのよ。あなたは周りに合わせて我慢してついていかなければならない。」と言われて同情されたこともある。案の定、大学ではサークルというのが苦手で、周りに無理やり合わせてみたもの自分にとっては窮屈で息苦しい場所でしかなかったので、たったの1年でやめてしまいあとの残りの3年間は高校時代からつき合っていた特定の友達と過ごす以外はほとんど孤独に大学生活を送っていた。そして、その時の友達も社会人になったら次第に縁が切れていって今では数人の友人とFBでかろうじて繋がっている程度になった。

理解されないことと見下されること

自分は発達障害的特性もあり会社員が合わないと思ったのもあって、次第にうつ病とアルコール依存症になり(アルコール依存症はかれこれ10年以上)長らくニートやフリーターや底辺生活を送っていた。その時期はひたすら哲学病になり魘されていて辛い時期だったのだが、やがて10年たった時にオリジナル哲学理論「非常識超越平和理論」を思いついたのだが・・・

そして、今は特例子会社という障害者雇用の会社で働いているのだが、4年くらい前に同じような精神障害の問題を抱えている人と知り合いになりしばらく仲良くしていたのだが、自分はそういう人たちとも合わないと思った。それは、彼らはいわゆる努力するのが嫌いな勉強嫌いの低学歴が多いからだ。それで、人生に苦悩して精神病を発生してしまったのだと思うのだが、とにかく彼らは人生楽することを覚えてしまったので障害者雇用の会社で働くことの人生に満足しているところがある。楽して給料もらえて年金までもらえて狭いけどそこそこのアパートに住めればそれでいいのである。何しろその人は、今まであまり努力もせずに生きてきたのだろうし、仕事以外はゲームが趣味みたいな人で30代にもなって週末にゲームセンターに通い詰めるほどのゲーマーであり、そういう人生でもいいと思っているのである。要は人生とはコスパで考えると楽できて楽しければが成功なんてできなくても平気という考え方もある。でも、自分は根が負けず嫌いなのでそれをよしとしないところがあって、だからひたすら哲学してきたのかもしれない。しかし、そういう楽したいだけのメンヘラ系の人たちは真面目系メンヘラの人たちとは根本的に人生観や考え方が違うのだろうし、そもそも価値観がずれている。だから、彼らは自分のように努力することをよしとするという価値観にまったく価値を見出さない。そして、そういう人たちは勉強も嫌いでそして大半は平凡でありいわゆる凡人なんで、自分のようなギフテッドなのにメンヘラみたいな人たちがこの世にいることを理解できない。そして、勉強嫌いの凡人なので、私の哲学理論の記事を読んでもよく理解できないので「何なのこれ?」みたいに鼻で笑ってくる。どうやらそんなものには興味がまったくないから「こんなことを真面目にやってる人はバカ」に見えるらしい。多分、努力すること自体がバカバカしいと感じるタイプのメンヘラからすると「どうせ人生底辺なのに努力して何の意味があるの?」という考え方が根底になるのだろう。そして、その人はそういうあらゆる努力を鼻で笑っているような感じがする。でも、それは凡人だから理解できない、というのではなく多分その人がそういう人だからという面が強いので凡人のすべての人がそうとは言わない。でも、よく理解できないものはバカにしたがるのが人の本質なのだとその時思った。

そんなこんなで、その人とは縁を切ったが、自分が天才であることを評価してくれているツイッターの人たちは「その人は物事の本質がよく分かっていない。」「人のことをバカにする人はそれまでの人。」「その人はあなたを底辺仲間に引きずり込みたかっただけ。」とのアドバイスをもらい、なるほど・・・と思った。また彼らはこのようにも言っていた。「そういう人はそのうち苦労する。その時になってようやく気付く。」
確かにそうだな・・・と思う。人生楽ありゃ苦もあるさ・・・山もあり谷もあるからこそ人生なのであって、常に楽できる人生などあり得ない。少なくとも自分はそう思っている。そして、極めつけは本当に努力している人というのは他人の努力を決して笑ったりはしないということだ。他人を鼻で笑う時点で、本気で何かを頑張ったり努力をしたことが今までの人生で一度もないということなのだろう。自分が頑張ってる人間は他人がどれだけ頑張っているかも想像がつくから、それがどれだけ大変かも分かるし、したがって容易に人のことを笑ったりはできない。しかし、それが分からない人たちも世の中にはたくさんいるのも事実だ。残念だけど、世の中そういう人たちもいるのだろう・・・と。

今ではすっかり縁も切れてすっきりしている。









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