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「僕は資本主義からできるだけ遠いところに行きたいんだ」

思えば素朴な青年だった。

中学時代から数学が得意で、そのまま数学科を目指して大学に入ったけれど、途中から物理学とコンピュータシミュレーションの方が面白くなって地球惑星科学科で修士課程まで進んだ。

そのまま博士課程に行こうと思っていたけれど、その前に少しだけ外の世界も見てみようと思って就職活動をはじめてみたら、面白そうな人がたくさんいるし、全然知らなかった「社会の仕組み」というものに俄然興味が出てしまって、進学するのはやめてビジネスコンサルティングの会社に入った。色んな企業の現場にいけそうで、「社会の仕組み」を知るにはもってこいだと思った。 新人研修中のワークショップで「あなたはなぜこの会社に入ったのか?」と問われ、僕は「知的好奇心」と答えた。

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会社に入ってみると、みんな必死に働いていた。同僚も、クライアント企業の人たちも、一生懸命に働いていた。僕も真剣に働いた。

仕事はなかなか刺激的だった。財務・会計や生産管理、企業ガバナンスなど、現場を見ながら、本も読んで勉強して、無知な(あきれるほど無知だった)僕は社会の色々なことを少しずつ学んでいった。

好奇心が満たされていくのは楽しかった。それなりに成果も出せるようになると、なおのこと楽しかった。けれど、同時にずっと違和感も持っていた。

組織内や組織対組織の関係の中では、組織を構成する人間の考えや思いを超えたところでものごとが決まってしまうことが多々ある。どこにも「悪い人」はいなくても、「悪い決定」は行われうるのだ。それはどこか株式市場の欠陥を指摘したケインズの美人コンテストの例え話に似ている。人は「自分が良いと考える決定」ではなく、その人が「周りの人々(状況)が良いと考えるだろう決定」をしてしまうことがあるのだ。

「企業の仕組み」を理解することは、「企業の論理」を知ることでもあって、「企業で働くこと」と「ひとりの人間として思うように生きること」のギャップを感じていたのかもしれない。その頃から、なんとなく「これは資本主義というシステムに対する違和感なのではないか」と思い始めていた。でも、資本主義が何かなんてよくわからないから、なんとなくでしかなかったけれど。

僕は結婚し、直後に東日本大震災を経験する。これをキッカケに、違和感を持ちつづける生活をやめる決心をして、夫婦で京都・大山崎に移住、コーヒー豆屋をはじめた。僕はコーヒー焙煎家になった。

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京都に来て2年目くらいのころ、ビジネスコンサルタントをしている中学からの友人が出張で京都に来るというので、久しぶりにふたりで飲んだ。東京で働いていた頃の違和感について話をしている中で、僕の口からふとこんな言葉が出た。

「僕は資本主義からできるだけ遠いところに行きたいんだ」

相変わらず資本主義が何かなんてわかっていなかったけれど、その感覚は強くなっていたように思う。

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コーヒー豆屋という自営業の暮らしは、お金に困ることはあっても、あの頃の違和感はなかった。やり繰りに頭を悩ませてはいても、心は晴れやかだった。

ただ、疑問は残った。

僕は自営業者として商売をしている。それは資本主義の中で生きているということではないのか?以前と何が変わったっていうんだ?

考えてもこの疑問に対する答えは見つからなかった。当然だ。だって、資本主義が何かわかっていないのだから。資本主義の「中」も「遠いところ」もあったもんじゃない。

そして、僕は資本主義について勉強をはじめることになる。
会社に入って少し経った頃から同僚の影響で哲学に興味を持ち、ずっと哲学に関する本を読んでいた。あるときそのすぐ近く(の学問領域)に経済学や経済思想という学問が広がっていることに気づく。ここから資本主義というものについて、やっと真剣に考えるようになる。書籍やドキュメンタリーなどを通じて知識を得て、僕たちの生きる資本主義という社会体制がどういう仕組みで動いているのかを、少しずつ朧げながら掴んでいく作業は、とてつもなく楽しかった。

ずっと感じ続けていた資本主義への違和感(だと思われるもの)と、今でも資本主義の只中にいるのではないかという疑問に迫っていくエキサイティングな挑戦。

ただ、僕が学生時代に学んだ自然科学とは違って、どんなに学んだところで哲学の世界で「これが資本主義です」という明確な定義は有り得ない。この社会の複雑怪奇を、自分なりに考え、思考を深める以外に道はないのだ。マルクス、アーレント、南方熊楠、宇野弘蔵、柄谷行人、中沢新一、東浩紀....。人文学の書物を開き、多くの知性から、少しずつ、少しずつ、ヒントをもらう以外にない。

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僕はいまその道の途中にいる。まだ答えは出ていない、というか答えなんてない。でも、いま、僕が掴んだ資本主義の本質(と思われるもの)が2つある。

一つ目は、資本主義はあらゆるものを<商品化>する運動であるということ。物やサービスなどに加え、自然物である土地や、企業の所有権(株式)などを<商品化>していった。そして、マルクスが指摘したように資本主義は人間の労働力をも商品化した(労働力商品)。ビジネス書を開けば「より高い賃金を得られるように自分の市場価値を上げよう」などと書かれているけれど、それは自分自身の労働力を商品として扱っているということに他ならない。(そしていま、「自分の時間」や「自分のスキル」などを<商品化>するサービスが生まれつつあって、資本主義の深化はいまこの瞬間も進んでいる。これについては別の機会に書くことにしたい)

二つ目は、資本主義は競争と成長を強いるということだ。事業者は市場の中で事業を存続させるために他者と競争し、成長していかなくてはならない。成長のためには生産の拡大が求められ、そのためには資本を増やし続けることが必須となる(資本蓄積)。

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「あらゆるものの商品化」と「資本蓄積による成長」

「資本主義とは何か」という明確な定義はなくとも、この2つが資本主義の持つ重要な要素であることは間違いない。

そう気が付いたとき、僕の疑問はひとつ解けた。すなわち、「僕は自営業者として商売をしている。それは資本主義の中で生きているということではないのか?以前と何が変わったっていうんだ?」という問いに対しては、いま僕は次のように答えることができる。

僕は商売をしている。でも、資本主義の本質である「あらゆるものの商品化」には関与していないし、「資本蓄積による成長」も拒否する。生きていくためのお金を稼ぐことは資本主義の本質ではないんだ。

僕はどちらにも加担しない生き方を選んでいた。なんとなくの違和感に従って、いまの生き方を選んだけれど、それは結果として「資本主義からできるだけ遠いところに行きたい」というなんとなくの想いを実現していたのだ。間違っていなかった。

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そしていま、僕はポスト資本主義社会がどんな世界なのかを思い描くようになり、少しずつ思考を進めている。

「資本主義とは何か」、「ポスト資本主義とはどんな社会か」。これからも考えて、考えて、書いていきたいと思う。

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中村 佳太|エッセイスト,コーヒー焙煎家
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