僕が映画『怪物』が大嫌いな理由
カンヌで脚本賞を受賞し、興行的にも大成功を収めた今作。
羅生門的手法で物事を多角的に見せ、我々が認知できるのはあくまでも一面に過ぎず、見えない部分、得体のしれない部分=怪物であり、そういった意味では人間は皆が怪物と言える。
なるほど、タイトルと映画の内容も上手くハマっているし、画の綺麗さ、役者の演技も名監督と名優の化学反応も素晴らしいと思いました。
だがしかし、僕は言葉遊びでなく、今作が大嫌いなので、その理由を忘れてしまう前に記録として言語化しておこうと思います。
個人の思想として
僕が今作に感じた不快感の根底を考えていたのだが、「マイノリティだから」「生きづらさを感じているから」という理由で人に迷惑をかけたり、傷つけたりする行為を是認、美化することが大嫌いなのだという結論に至った。
小学5年生にもなって、人ひとりの人生を終わらせる嘘をついているのだから、彼らの行為は決して許されることではない。勿論、人間だれしも間違いを犯すことはあるが、その責を現代の社会構造(セクシャルマイノリティに対する理解の無さ)に向けさせるような映画作りが僕にはどうしても受け入れられなかった。
特に、瑛太演じる教師が屋上から飛び降りんとする時の音楽室のシーン。夕陽に染められた美しい画面で、それまで鉄仮面を貫いていた校長が初めて穏やかな笑みを浮かべながら主役の少年と問答する。恐らく作中屈指の名シーンだ。
校長演じる田中裕子の俳優としての力、魅力が高すぎるせいで、なんだかいい話をしている風になっているけど、校長と少年は今まさに飛び降りるかもしれない人間を追い詰めた張本人だ。画作りが綺麗なものだから、より一層性質が悪い。
ラスト、登場人物たちが切り取られているが、田中裕子は散歩しているだけでもその表情で、あの悪辣な校長に「深み」を与えてしまうし、いじめっ子の少年も朝から新聞配達に勤しむ子であった。彼が新聞配達をしているからなんだと言いたいのだろう?「敵役にも悲しき過去アリ」みたいな安っぽい少年漫画のような演出。しかもそれを一瞬だけ映す厭らしさも大嫌いだ。
演出
卵と鶏の話ではないが、物語の根幹が嫌いだから演出も嫌いなのか、演出が嫌いだから物語も嫌いになるのか。定かではないが、とにかく細かい部分も嫌いだ。
映画を観る人間のリテラシーを馬鹿にしているのだろうかと感じてしまう程に、あまりにも分かりやす過ぎるメタファーの数々。
・亡き父の遺影はラガーマン、そして母からの「『普通に』結婚して幸せに~」
今作は主人公の少年のクィア性が明らかになっていくのが作品の肝なわけだが、冒頭からこんなど真ん中ストレートの演出されてしまっては「あぁ、今からLGBT映画やってくんですね」と感じて、作品の展開を楽しむワクワク感は霧散してしまう。(無論、LGBT映画を否定しているのではなく、これに関してはそこを隠した宣伝戦略に疑問符が付く)
・教師からの「『男らしく』仲直りだ。」「『男だろ』がんばれよ」という声掛け。テレビに映る、道化としてのオネェタレントたち。
理由は同上である。何気ない一言で人を苦しめることを表現したいのは分かるが、全然何気なくなくて、決め台詞なんじゃないかってレベルで出てきてしまうと興ざめである。
ここまで観客に「親切」な映画が現代には求められているのだろうか。
これはメタファーの部分ではないが、羅生門構造って同じ出来事の意外な側面が見えてくるのが面白い筈なのに、瑛太演じる教師がパートによっていくらんなんでも人間変わり過ぎていて、多重人格を疑うレベル。
長々と書いてきたが、僕の数少ない思想的な部分でどうしても許せない根底があったので、坊主憎けりゃという思考回路になっている可能性は否めない。とても評価の高い作品であることは理解しているので、絶賛できずに逆張り凡夫のようになっていることに悲しさを覚えつつも、黙っていられなかった己が怪物と付き合って生きていくしかないのであろう。
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