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台湾人の父とのこと

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台湾に家庭を持っていた父が日本で私のお父さんになり、台湾に帰るまでの記憶を書き記しておきたいと思っています。
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みーちゃんと松山へ(18歳)

「みーちゃんは,同い年の友達でねえ。 小学校ばあしか出ちょらんきよ、
字ぃも読めんで、わたしがずーっとおしえちゃりよったりしたがよ。 それで、みーちゃんは私のことが好きで好きでねえ。うんと、ようしてくれたがよ。」(母談)

当時、公立の女学校は、全国的に10校程度しかなく、四国では高知県に存在していた。菊が通ったのは、高知県立高知高等女学校で、 現在の高知丸の内高等学校である。

貧しいながらも、

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龍園の記憶

台湾人の父と、日本人の母の記憶を綴りたいと思います。
母の語り、私の経験したこと、など。
台湾に家庭を持っていた父が最後に日本から台湾に逃げた時、日本に残された娘達はどこを頼ればよかったか?渉外交渉のできる行政書士さんに助けて頂いた経験についても、今後綴っていきたいと思います。