【往復書簡】「舐められたい男ナンバーワン」になりたい。

上の壇珠さんの記事へのお返事です。

おはようございます!!もちろんおはようございます!!おっしゃるとおりおはようでございます!!挨拶さえ自由にできるっていいですね!時差を逆手に取って、むしろそこから好きな理屈で勝手度を増す。圭吾さんは、こういう発想の転換がいつもポンポン湧いてきますよね。

おはりがとうございます!!壇珠さんにはお見通しですね!!全部バレてました!!基本的に「言いたいだけ」で生きているので、理屈は全部あと付けです!!まず最初に暴論を吐き、あとからロジックを組み立てればいいのだと思います!!私の実家は床屋なのですが、営業時間外はデッドスペースになることを「もったいないなあ」と思った私は、勝手にバー営業をはじめました。店名はBAR.BARBERです。前々からBAR.BARBERと言いたかったからです。バババーババーバBARと悩みました。ババアの格好をして酒を振る舞う『BAR婆』も候補に上がりました。最終的に寅さんの格好をしてバーテンの寅さんを自称したりもしたのですが、一回で飽きて自然消滅しました。

私が6年間続けた『いばや通信』というブログが、先日、一冊の本になりました。いばやとは『やばい』を逆から読んだだけで、要するにギャグです。自分がやばいと思うことをやっていればそれを面白がってくれるやばい人々が現れて、化学反応が起こり、結果とんでもないわっしょい状態になる。これが、いばや通信開設当初の仮説でした。この仮説は見事的中しました。ブログを通じて壇珠さん(そして読者の皆様!!)と出会えましたし、編集者様と出会い、本になり、国会図書館に永久保管される流れになりまして、私としては「やったぜ!」という感じです。ギャグも、極めればひとつの生き方になるのですね。途中、何度もボロクソに言われる機会に恵まれたのですが「諦めないでよかった」と思います。俺の人生に、幸、ありました!!!

わたしがイタリアに来て嬉しく驚いたことのひとつが、イタリア人たちに感じられたその身軽さでした。彼らが少し前までなにかを力説していたのに、ちょっと経ってからあっさりとそして堂々と意見を変えることに驚いてそこを突っ込むと「さっきは本気でそう思っていたんだ、でも変わったんだよ。だから伝えているんだろう?」と、むしろこちらの石頭をあしらわれるということを何度も経験しました。そのたびに、日本ではこの「コロッと意見を変える」ということを蔑視する空気があって、自分がそれに染まっていたのだと痛感しました。「考えが変わりました!」と堂々と説明できる人でありたいです。圭吾さんにはいつもこれを感じます。考えてみればわたしも、石頭よりも変幻自在であることに憧れます。

この姿勢、大大大好きです!!私自身、人と話す(出会う)ことの醍醐味は「自分の価値観がぶっ壊される」ことだと思っています。私にも、一応意見なり考えはあります。しかし、それを死守したいわけでは全然なく「もっと素敵な考え方があれば、そっちに取り替えたい」と常々思っています。そのため、基本的に俺を殺してくれと思っています。この、俺の、俺というつまらない人間の思考を粉々に打ち砕いてくれ。世の女性陣にも「俺の石頭をかち割ってください」とお願いしたいです。男は、女に振られた瞬間にバケる生き物だと思います。女に振られた勢いを通じて、自分自身を振り切っていけるか。そこが問われています。私の場合、20歳の頃に彼女に振られて歌舞伎町でホストになり、24歳の頃に彼女に振られて躁鬱病と統合失調症と椎間板ヘルニアになり、28歳の頃に彼女に振られてホームレスになり、多岐にわたる体験を積めました。あの時期はただただ錯乱していただけなのですが、振り返ると「グッジョブ、俺」と思います。自分自身を振り切れない男は死ねばいいのだと思います。死んで地球の肥やしになればいいのです。

舐め回す行為はときにキモく、ときに愛撫になります。猫も牛も、他の動物は自分や子どもや他の動物を舐め回しますよね。撫でる効果を持ちながらの「お前の表面にあるものを俺の体内に取り込む。そして俺の体内にあったものをお前の表面に塗る!」という一方的で献身的な交換の行為です。免疫力の押しつけ。これは攻撃なのか愛なのか。もはやその境界が崩壊しています。

人間の三大欲求って、食欲・睡眠欲・性欲とされていますが、性欲って「舐めたいと思う力」なんじゃないかと思います。コミュニケーション欲求と言えばいいのか、性行為だけを意味する言葉ではなく、免疫の交換、菌の交換をしたいと願う欲求だと思います。私は、好きなひとには「舐めたい」と思います。こんなことを書くと誰もわたしに接近してくれなくなりそうで恐いですが、正直、舐めたい。現在様々なものが自粛ムードに置かれていて、オンラインが大活躍しています。しかし、どうしたってオンラインじゃできないことがある。それが「免疫の交換」であり「菌の交換」だと思います。生身の人間が発している周波数とでも言えばいいのか、きっと、目には見えない何かが『ある』のだと思います。それを波動と呼ぶ人もいるし、私のように菌(免疫)と呼ぶ人もいます。それに触れたい、それを自分に取り込みたいと思う力が『性欲』だと思います。だから、気持ち悪い人を見ると「生理的に無理!」と感じるのだと思います。お前の菌を、俺に取り入れたくないという感覚が、生理的に無理という思いを抱かせるのだと思います。そう言った意味で、私は「舐められたい男ナンバーワン」になりたいと思います。

なんか攻撃的に見えてしまうと思うのですが一切気にせずに書いてみますと、「音楽をナメるな」と言う人は、音楽のほうから「あんたあたしの何なのさ」「頼んでねーし」と思われていると思います。「音楽に対して真剣になれ」と言い換えたとしてもやはり音楽のほうから「は??こちとらあくまでも人類が楽しむためのものなんですが」と思われていると思います。世界も人生もそうで、「世界をなめるな」「人生をなめるな」と言う人は、世界や人生から「え、いや、楽しんでもらっちゃうほうが嬉しいんですけど」と言われていると思います。それに対してなんと答えるのだろうと思います。

ありがとうございます!!ありがとうございます!!ありがとうございますとしか言えない!!おぎゃーーーー!!小生、定期的に「お前みたいな人間だらけになったら、社会はまわらねえんだよ」的なことを言われます。しかし、舐められたい男ナンバーワン(候補生)に言わせてもらうと「そこまでしなければまわらない世の中なら、とっとと潰れてしまえばいい」と思います。もっと言えば「みんながやりたいことだけをやったとしてもまわり続ける、いまよりも素敵な惑星になるから安心しろ」と言いたいと思います。なにビビってんだよ、と。必死か、と。世界の器を舐めんじゃないよ、と。そんなお前を俺が舐めてやるよ、と。楽しめるかどうかが全部なんだよ、と。

わたしは、たくさん語弊のある表現ですが、貧困や病気や不遇を不正解だとは思いません。豊かさや健康や幸運だけを正解だとは思いません。大変な境遇にある人を、それをこなせるだけの強い魂だと思います。そのおかげで、その逆もあるのだと。反対も然りで、豊かな人がいてこそ貧困を経験できる人がいる。もうそう考えると正解も不正解もどっちが上も下もありませんよね。汚れ役を演る人は、誰かが清いことを支える一要素だと思います。孤立したものなどどこにもないのだと思います。これは自分にも言えることで、自分に汚れることを許すと、自分に汚れることのないところがあるのを発見するのだと思います。

家なし生活をしていた頃、ロンドンでお会いした女性から「あなたは、家がないことを楽しんでいるように見える。生活は貧しくても、精神は貴族だ」と言われたことがあり、とても嬉しかったことを記憶しています。当時、私は、自分に課していたファッションテーマがありました。それは「いかに家がありそうに見えるか」でした。当たり前と言えば当たり前過ぎるテーマですが、私はギャップが大事だと思っているので、いかに家がありそうに見えるかに命を燃やしていました。そして、意表を突く形で「実は家がないのです(どや)」と真実を告げる瞬間にエクスタシーを感じていました。家がないことを、かわいそうなことだとして生きることもできる。だけど、家がないことをかわいそうなことではないこととして生きることもできる。私は、自分が置かれている状況を「いかに楽しめるか」が問われているように感じていました。だから、悲壮感を漂わせることだけはやるまいと思いました。

自分が不幸かどうかは、自分で決めることができる。私は、昔から「決めつけてくれるな」という反骨精神が根強くあったものですから、普通だったら落ち込むはずの場面で「落ち込んでたまるか」とか「ここでより一層元気になったら痛快だな」という発想方法で生き延びてきました。出来事は変えられなくても、それに対する解釈は自由に変えることができる。それならば、泣く道よりも笑う道を選びたい。笑えるポイントを見つけ出せる人間でありたい。その思いが、私をタフに鍛えてくれた気がします。探そうと思えば面白いポイントは結構見つかるもので、結局は意識の問題なんだなと思いました。私の愛する松岡修造先生は「失敗したら、ガッツポーズ!」と言っています。普通だったら落ち込むはずの場面で、ガッツポーズをする。これは、ある種のロジックの崩壊です。しかし、ロジックの崩壊は新しいロジックの誕生でもあります。失敗しても、ガッツポーズをしてもいいのです。成功してもガッツポーズ。失敗してもガッツポーズ。さすれば、我々は無敵です。

前に、1億円借金のある女性から海鮮丼をご馳走になりました。彼女はエステを経営していたのですが、経営難に陥り、結果的に多額の借金を抱きました。最初は「うわあ、もう、この世の終わりだ」と思う程度には落ち込んだらしいのですが、ふと、我が身を振り返った時に「あれ、あたし、1億円借金があるのに毎日温かいご飯を食べることができていて、温かいお布団で眠っていて、今日も無事に生きることができているぞ」ということに気づきました。1億円も借金を抱えたら生きていけるはずはないと思い込んでいたけれど、事実、こうして自分は平気で生きている。これはなんだ、と。その瞬間、彼女は自由を取り戻したと話してくれました。1億円借金があるひとから海鮮丼をご馳走になっている自分もどうなのかなとかちょっと思いましたが、相手が「それでいい」と思っているのならば、もう、それでいいのだと思いました。こちらから一方的に、相手を「かわいそうなひと」と決めつける必要はない。海鮮丼を奢られることを拒む必要はないのだと思いました。

「俺は不幸でいいんだ、子供のためなら構わない。だからお前は幸せになってくれ」と母はよく言っていましたが、ただ無力感に襲われるばかりでした。もしお母さんが楽しいのなら、子供はそれだけでハッピーだと思います。不幸でいられてもなにひとつ嬉しくなどなくて、そんな犠牲者の母よりも「あの意地悪ババアめぶっ殺してやる」などと言い、怒りすぎて拳を握ってその拳に噛み付いているときの乱心した母を見るほうが嬉しかったです。

自分の好きなひとが、犠牲者や被害者でいることを見続けることは、いたたまれないことの極みだと思います。自分の不幸は耐えられるけれど、自分がいるために自分の大事なひとが不幸になる姿を見せつけられるのは、一番の拷問だと思います。自分の存在が母親の負担になっているのならば、自分が消えればいいのだ。自分なんかいなくなればいいのだ。そういった思考にたどり着くのは、時間の問題だと思います。事実、私も、昔はそのような考え方を採用していました。ただ、ある日、悶々とした日々を過ごしていた母親が、お笑い番組を見ていたときに忘れられない事件が起こりました。ナインティナインの岡村隆史さんが坂から転げ落ちる典型的なドリフコントだったと思うのですが、それを見て、母親がこれまで見たこともないほどの爆笑をしたのです。阿曽山大噴火と言った感じで、瞳に涙を浮かばせながら大爆笑をする母親を見て「ああ、吹っ切れたな」と思いました。実際、その後、母親は快活さを取り戻しました。もう、どうなってもいいやという、諦めにも似た前向きさを取り戻した母親は、爆笑するという体験を通じて生きる力を取り戻しました。これは、息子的にも最高に嬉しい出来事でした。そして、私は「笑いの力」を信じるようになりました。爆笑したからといって、問題が解決するわけではありません。しかし、お笑いには問題を無効化させる力があると思います。そんなことどうでもいいじゃないかと、問題を吹き飛ばしてくれるのです。問題を抱えたまま、生きようと思わせてくれるのです。

我々の往復書簡(狂人書簡)が、どうしても笑いの方向に走ってしまうのは、本能的に「ユーモアの力」を信じているからなのではないでしょうか。大事なことが書かれていたはずなのに、読み終わった後には「ああ、楽しかったな」という感覚だけが残る。あとはなんにも残らない。これって、人生ととても似ているなあと思います。なにが楽しかったとか、なにが面白かったとか、具体的にはすぐに思い出せないけれど、まるごとひっくるめて「いろいろあったけど、トータルで最高だった」という感覚だけは永遠に残る。

語弊たっぷりの表現になっちゃいますが、私は、人類は滅亡してしまっても構わないと思っています。人類の本音は「滅亡したくない」ではないと思います。滅亡してしまってもいいから、いま、この瞬間を思い切り生きていたいだと思うのです。滅亡したら生きていられないじゃないかというツッコミは野暮で、これは「滅亡するほど楽しみたい」「滅亡するほど笑いたい」「滅亡するほど生きていたい」ということです。滅亡しないように、滅亡しないように、滅亡しないように窮屈で退屈な日々を送るよりも、滅亡したとしてもいいからいまこの瞬間を本気で生きていたい、本当の意味で生きていたい、これが我々人類(少なくとも自分自身)の本当の望みであると思うのです。たとえ人類が滅亡しても、地球がなくなってしまったとしても、銀河の彼方で、我々の無垢な魂は「滅亡しちゃったね」と、ケラケラ笑っている気がします!どんな時も、無垢な魂はケラケラ笑っているのだと思います!

バッチ来い人類!うおおおおお〜!