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「問い」からとらえなおしたら「解」はどうなる?場づくりの意味の再考

みなさん、ワークショップ(場づくり)に参加したことあってありますか。
たくさんの人が「はい!」と答えるか、もしくは言葉は知ってると答えるくらい身近なモノになったのではないでしょうか。アート、演劇、まちづくり、福祉、教育、どんな領域でも参加型の体験をとうして、コンテンツを楽しむ手段として経験されたと想像してます。


さて、僕はというと、2002年、大学生のときに、教職員の免許を取るための授業で「エンカウンター」「体験学習」という言葉に出会いました。大きな意味では「ワークショップ」のことなんですが、手法や文脈に違いがあったりしました。


詰め込みからゆとりの入り口にいた僕世代(1983生まれ)は、新しい教育のパラダイムの入り口にいたように思います。教育界隈では「教えるからエンパワーメントする」、「覚えるより学び方を学ぶ」「先生の役割は教える人からファシリテートする人」いわゆる劇場型のスタイルから参加型のスタイルにパラダイムが変わっていった最初のころだったと記憶し、こういった手法に注目がいくようになっていった時代だったのではないでしょうか。


2021年現在、この流れは「アクティブラーニング」に集約され、教育界隈に関わっている人はよく聞く言葉でしょう。参加型のスタイルが取り入れていくにつれ、場づくりやワークショップという大きなカテゴリーも世に浸透していったかと思います。


パラダイムが変わる中、いち早くこの領域を大学で教え、向き合っていたK先生に出会えたのはラッキーだった。自分の中でのワークショップデザイン、ファシリテーションの原体験だったといっても過言ではない。あらためて、ありがとうございます!


さて、今回の記事は、ワークショップの歴史と功罪を紐解きながら「問い」を捉えなおしたら「解」はどうなるかを追ってみます。

ワークショップの歴史

msls授業


「エンカウンター」や「体験学習」などは大きい文脈で言うと「ワークショップ」(ざっくりと場づくりといってもいいと思う。)に含まれる。様々な領域で展開し、発展しているので定義が難しいが、ワークショップといえば第一人者の中野民夫さんの著書「ワークショップによると、

講義などの一方的な知識伝達のスタイルではなく、参加者が自ら参加・体験して共同で何かを学びあったり、作り出したりする学びと創造のスタイル


と呼んでいる。

この本によると、1946年、グループダイナミクスの創始者クルト・レヴィンがリーダーとなって、自由な討論や対話学習を行い、現場への活用計画を立案して、市民意識の向上や啓発、実践トレーニングをアメリカのコネティカット州で行った。


この手法がその後の社会教育や心理療法に多大な影響を与えて、Tグループ、エンカウンター、自己啓発、アート、まちづくり、演劇などの様々な形で参加型のスタイルが作られていった。


自分が軸と考えている「対話」だって、大きくいえばワークショップとくくれるかもしれない。


まちづくりにおけるワークショップ


サロンドシンヤ



まちづくりの文脈において1980年ころに山形県で行われたといわれている。そこから、90年代にかけて概念が広がっていったともいわれている。


が、現場の感覚知からいうと、2010年近辺、東日本大震災の復興とあいまみえながら地方に浸透していったように思う。ワークショッププログラムで一番有名な青山学院大学でプログラムが始まったのが2009年。



自分が受講したのは2012年だったので、2013年から自分の住んでる街でワークショップという言葉を使い、場を開きはじめた。最初のリアクションは「?」「ワークショップって何?」っていうことが多かった。が、2021年、「ワークショップ」という言葉をどこでもきく。かなり言葉自体が浸透してるんじゃないかと感じるし、様々な文脈で参加型の場が開かれていっているはず。


けれど、日本のまちづくりの文脈において「参加者が自ら参加・体験して共同で何かを学びあったり、作り出したりする学びと創造のスタイル」とは、ほど遠い場も多く、どちらかというと行政が「住民の合意形成を話し合う場があったという既成事実を作るためのスタイル」となってしまったようにも感じる。


そのスタイルとKJ法の横行もあい見えて、ワークショップ=ポストイットを貼っていくだけ、行政が話し合いの事実だけ作り、そのあと何もやらない、と思っている人も多いと感じる。その点に置いて、ワークショップを免罪符として既成事実を作るために使用した人々の功罪は大きい。


功罪が積み重なった結果、ワークショップで何か考えるより「なんかしようぜ、行動しようぜ」っていう考え方も聞くようになったし、当然の流れ。(そもそもあったけど。)


それでも、場をつくったほうがいいんじゃないかっていう提案

若手職員


ワークショップの現在地をお伝えしたところですが、それでもあえて「何かする」より「場を作ったほうがいいんじゃないかな」って思っちゃうんですね。もちろん、DOすることも大事だと考えた上です。特にcomplex、複雑な課題を扱う場合には。


この記事に書いたように、人の認知にはそもそも限界があって「知らないことを知らない」まちがった問いにまちがった解をだしてしまっているんじゃないかっていう見方が土台にある。複雑な課題に対して、全体を捉えるための場があって、知らないことを知らない気づきを得てから、解を考えた方がいいんじゃないかなって思っていること。


また、全体を捉えるプロセスが作れ、その中で、参加したステイクホルダーの心理的安全が確保できるような土台が醸成できたとすれば、問いを出すプロセス、解を出すプロセス、そしてその経験を通して、ステイクホルダーの個人的内面の成長、関係性の質の向上、結果の質も上がるのではないかなっていう考え方がもとになっている。もちろん、そのプロセスはハードであることは間違いない。


講義などの一方的な知識伝達のスタイルではなく、参加者が自ら参加・体験して共同で何かを学びあったり、作り出したりする学びと創造のスタイルは、本当に骨が折れるのだ。


骨が折れるけど、問いから捉えなおしたらどうなるの?



問いから捉えなおしたらどうなるの?に対して、自分的に一番良いアンサーがこちらの記事だと思う。自分じゃないんかいってツッコミが聞こえてくるけど、共感したので。(筆者の場合、システム思考の文脈もふまえて言及するモノだったけど、自分でいう全体を捉えることっていう部分と近似値)


簡単にいうと

・スタバのカップがリユースされる仕組みを作ってっていう署名活動がはじまった。

・筆者は賛同しなかった。

・それは、スタバがステイクホルダー(行政やNGO、MITの研究者、競合フードチェーンなど)を集めてこの問題を解決するための「場」を持っていた。

・その場づくりのプロセスには、システム思考、場づくりのプロの第一人者であるピーター・センゲもいた。

・場づくりをしてわかったことは、「カップがどんな再生可能な原料でつくられていたとしても、その8割は、店舗で消費されるのではなく、お客による「お持ち帰り」であった。」ということだった。

・その意味をすることは、お持ち帰りされたカップは、道路やオフィスや家庭のごみ箱や、運が悪ければ路上や河川に捨てられたり、その後、自治体や業者によって回収されて、その多くが、焼却場や埋め立て地でその製品としての寿命を終える、ということだった。

・だからこそ、スタバだけじゃなくて、ステークホルダー、全体の問題だし、みんなで議論のスタートポイントをちゃんと考えたいよねっていう話。


筆者が考えるスタートポイントを考えたいっていうことこそ、自分にとっても問いを問い直す作業にあたるとおもう。やっぱりスタートが変わるとゴールが変わるから。簡単な「解」なんてないのに、すぐ「解」に飛びついてしまうことこそ問題を悪化させている可能性もある。


スタバの話し合いにおいて、「問い」を捉えなおして、到達した「解」が、結局どんな素材にしても8割が購入者が捨てちゃうんかいってある意味、絶望。それなら「スタバさん、リユースの仕組みつくって」ってソリューションを出したほうが進んでる気がする。

けど、8割捨ててるっていう現実があったときにスタートポイントとして、仕組みつくってというソリューションの方向は違うんじゃないかな、って個人的には感じる。絶望と向き合ってはじめてスタートできることもあるじゃないかとおもう。


(ここでは、あんまり言及しすぎない。あくまで、問いから捉えなおしたら、こういう風になったよっていう事例だと思っていただければ)

問いと解の「あわい」でのダンス


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ここまでいっておいてなんだけど、現実世界において、ステークホルダーを全員集めて話し合う場を作りませんか、問いを問いなおすところからはじめませんかっていう提案はなかなかむずかしい。話し合いの結果が結局モヤモヤして終わるなんていうこともザラ。「解」が欲しい、ソリューションが欲しい、現実が動いてるところが欲しいって思っていたらフィットしないこともある。


問いをといなおすことの領域ってまだまだマイノリティ。その価値もうまく表現しきれてないし、事例も多くない。


だからこそ、解でうまくいかないなぁとかなんか新しいことしてみたいなぁって感じている人は、問いを変えてみるってことも考えみたらいいかもしれない。また、そういった選択肢が増えて世界がまわるっていうことも願っている。

ワークショップの意味の再考:自分自身の備忘録


「参加者が自ら参加・体験して共同で何かを学びあったり、作り出したりする学びと創造のスタイル」

全体性を捉え、「知らないことを知らない」ことに気づき、話せ、きけて、自らの考え方や私たちの考え方に変容がおこるスタイル

心理的安全が確保されて、自分でも知らない自分に出会える。そのために安全・安心を感じれる。ファシリっていうかホストするっていうスタイルに意味が変化していってる。




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