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復刻「パンテオンの人人」        (牧野英一、昭和3年[1928年])

〔まえがき〕

 ここに、論文「『パンテオンの人人』の論理」(ヘーゲル『小論理学』牧野紀之訳註、未知谷、2018年の巻末に収録されています)の元ネタになっている名文『パンテオンの人人』を、牧野紀之氏の許可を得て、全文掲載することになりました。
  
 牧野英一については、上記「~の論理」(現在最もお手軽なのは、pdf鶏鳴双書の中の『生活のなかの哲学』を手に取って頂くことだと思います)を読んで頂くとして、掲載するにあたって注意した点を予め記します。

 今回、およそ100年近く前の文章を再掲するにあたって、その文章の風格と響きを損なわないために、以下の三点以外は原文と一切変えていません。

  • 「であつた」や「依つて」などの、われわれ現代人からすると促音(っ)で読むところは、その「つ」を「っ」に代えました。

  • 「傳 → 伝」「缺 → 欠」「壓 → 圧」のように、旧漢字を修正しました。

  • 編集者の注を、一部文中に〔〕で補っています。又、難読漢字については編者の判断でルビをいれました。しかし、カタカナのルビは原文ママ。

 それ以外の、仮名遣い等は、原則として元のものと全く一緒ですが、それでも一読してよく分かる、心地よいリズムの文章になっています。編者としては、是非一度、味わってもらえると嬉しいです。

 なお、原文の引用元は以下の通りです。

牧野英一 著『パンテオンの人人』,日本評論社,昭13. 1頁~47頁
国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1257373

(参照 2023-01-24)

 一 〔ベルトロー、その①〕

 昨年(一九二七年)の十月二十五日に、パリーのパンテオンで、ベルトローの誕生百年の記念式があった。内閣議長のポアンカレ―が演説をした。わたくしは、近く、ポアンカレ―が獅子吼してゐるその光景の写真を手にして、その高い石の壁と円い天井とをおもひ出し、その壁と天井とにひびきわたったであらうところのその雄弁のほがらかさをおもひめぐらしたことであった。
 マルスラン・ベルトロー〔Marcellin Berthelot, 1827-1907〕は化学者であった。かれは、同時に、政治家でもあったし、また文人でもあった。フランス人は、議員であり、国務長官であったベルトローのことを、今、憶ひ出してゐる。アカデミーの一員として、その不朽の四十の名の一つとしてのその名を追想してゐる。しかり、かれはしかく政治家であった。又、しかく文人であった。しかし、そのいづれよりも、かれは化学者として特に世界の人類のために大きな仕事を残したのであった。その誕生百年にあたる十月二十五日には、世界のあちらでもこちらでも記念式が執り行はれたとのことである。さうして、わが国も亦そのために盛んな記念式を挙げたのであった。
 わが国での記念式のために、ベルトローの息ルネ・ベルトロー氏が来朝された。ルネ・ベルトロー氏は哲学者である。息たる氏は、その父君の数多き長所のうちで、哲学的な方面を承け継がれたことになるのであらう。去る一月十二日の夜、氏は、日仏文化講演会のために、わが国の公衆に向って、フランス現代の哲学を講ぜられた。さうして、その席において、わたくしも、亦、フランスの文化に関し、わたくしの立場から若干の物語を為すべく主催者から需められたのであった。
 わたくしは自然科学について事を論ずる資格のある者でない。しかし、ベルトローが人類の恩人であることを考へてゐる者である。国家のこと、社会のこと、乃至人類のことを考へてゐるわたくしにとって、ベルトローの名はなつかしみの深いものであるのである。わたくしは、パンテオンにおけるその日の記念式のことをはるかに考へながら、たまたま思ひ及んだ若干の人人のことを、興にまかせてうち語って見たのであった。
 凡そ、パリーを見物する人人は、その第一の日程においてパンテオンへおまゐりをするのである。セーヌの左岸の最も高い地点なる巴黎丘モン・ド・パリの上に聳えてゐるその圓屋根の廟、昔はお寺であったのであるが、今はフランスの国家の廟として人人がそこに祀られてゐるのである。その軒には、高く、『偉大なる人人へ、感謝する祖国より』と彫りつけてある。その廟のなかに、ベルトローは、一九〇七年三月十八日のおなじ日に歿くなられた夫人と共に、祖国から感謝されつつ葬られてゐるのである。
 曾てかつてこの廟におまゐりをしたときには、その入口に、ロダンの『考へる人』のブロンズがかざってあった。近く、わたくしが、重ねてここにおまゐりをしたときは、そのブロンズは他所へ移されてゐた。しかし、この廟の入口へはひろらうとするについては、何人も、フランスといふもの乃至フランス文化といふものの如何なるものなりやを深く考へさせられるのである。パリーの守護神たる聖ジュヌヴィエーヴのお墓の跡だといふこの建物には、フランスが感謝する人人、フランスが誇りとする人人、フランスの偉大を成し、フランスの文化を形造った人人の遺骸が、祖国の手に依って葬られてゐるのである。かのミラボー〔Mirabeau, 1749-1791〕(1)をはじめとして、かのヴォルテール〔Voltaire, 1694-1778〕をはじめとして。
 われわれは、案内人の案内に依って其の人人の柩ををがむことができる。その案内人は、やや鼻にかかったフランス語を、こころよく石の壁にひびかせながら、案内をしてあるくのである。曰く、これはジャン・ジャック・ルーソー〔Jean-Jacques Rousseau, 1712-1778〕の墓。かれは一七一二年に生れて一七七八年に歿くなった。十八世紀の最も大なる思想家、かの民約論の著者、かのエミールの著者、最もよく自然を愛好したかれ、自然にかへれと最も高く叫んだかれ……と。
 わたくしは、かくして、いろいろの柩ををがんだ。曰くヴィクトル・ユーゴ―〔Victor Hugo, 1802-1885〕。曰くエミール・ゾラ〔Émile Zola, 1840-1902〕。曰くジャン・ジョーレス〔Jean Jaurès, 1859-1914〕。
 
(1)〔編集者注〕Wiki.frによれば、フランス革命の代表的な主導者の一人であり、1791年4月4日、パンテオンに移送された最初の人物。しかしその翌年、ルイ16世の王宮にあった金庫から国王派に買収されていたことなどを示す証拠が見つかり、国民公会(Convention nationale)はミラボーの遺骨をパンテオンから除外することを決定。同じく革命主導者のマラー(Jean-Paul Marat, 1743-1793)のものに移し替えられた。

 二 〔ルソー、その①〕

 ルーソーの石の柩の一面には扉が両つ彫つけてある。その扉の一つが半ば開かれて、なかからたくましい腕がさし出されてゐる。その腕が松火を持ってゐる。その松火には火があかあかと燃えてゐる。まことや、ルーソーは、十八世紀の当時において、暗黒な思想の混沌のなかに、あかい松火をうち照らした人であったのである。
 時計職の伜として生れ、数奇を極めたその生涯に関しては、固より世に之を説くべき人が多い。わたくしは、ただ、かれの小さな著述たるその『民約論』について少しばかりを語って見たい。
 『民約論』は小さな著述である。さうして、最も多く世に語られる書物である。しかし、誰やらがいったやうに、この最も多く世に語られる書物は、実は最も少なく世に読まれてゐる書物であるといふことである。
 しかし、世の人人は、少ししか読まないこの書物から大きな教えを受けたのであった。世の人人は、民約論といふ松火のひかりに因って、中世の暗黒から目ざめたのであった。世の人人は、自分が如何なる標的に向って如何なる地歩を進まねばならぬかを知るに至ったのである。
 ルーソーは芸術的に自然を愛した。曾て、サヴォアの山村をわけて、シャンベリーの町から幾キロ。わたくしは、そこにルーソーの旧居をたづねたことがある。その小さな窓から、晴れわたった日のうすもやの中に、サヴォアの山と村とをながめ、牛の群とゆく人のかげとに見とれた晩秋の一日を、わたくしは、今もありありと覚えてゐる。かれは、ここに自然を愛し、また自然の愛すべきことを説いたのであった。かれの芸術は、要するに、自然愛に帰着するのだ、と人は説いてゐる。
 しかし、かれは、また、同時に、論理的に自然を尊重すべきことを論じたのであった。いふまでもなく、当時の社会は中世文明の行きづまりになやんでゐた。しかし、その行きづまりを如何に打開すべきかを知らなかった。そこに、かれは、進むべき方向を世の人人に示したのであった。それは『自然』に外ならぬとしたのであった。
 『民約論』の劈頭へきとうにかれはいってゐる。『人はその生るるや自由である。しかし、到るところ鉄鎖につながれてゐる』と。事実としての社会では、人人はその鉄鎖につながれることの甚しきに苦しまねばならぬのである。しかし、かれは叫んだ。『人はその生るるや自由である』と。生るるや直ちに鉄鎖につながれるべき運命のこの世では、人人は、その生るるや互に自由なることを知らなかったのである。かれの一言は、まづ世の人人をして自己をさとらしめたのであった。
 しかし、世の人人がその自由を互に主張するのでは、実は互にその生存を全うしてゆくことができないのである。それで、かれは、直ちに、『社会的秩序』といふことを揚言ようげんしてゐる。曰く『社会的秩序といふことは神聖な法律である。これがすべての他の事物の基礎になるのである』と。
 それで、問題は、一方において、生来の自由といふことを予定し、他方において、社会的秩序といふことを確認し、さうして、この両者を連結し、調和するの要諦如何である。かれは、之を『契約』に求めたのであった。
 人の自然状態は自由である。しかし、人の社会状態は『神聖なる法律』である。この両者を連結するために、中世では、君権神授説なるものが行はれた。シャーレマンは法王の手に依って戴冠したのであった。ヨーロッパの君主たちは、自己の権力を天の神から授けられたものと考へてゐたのであるとし、さうして、その故をもって、世の人人はその君主たちに服従してゐたのであった。神のかくの如き摂理に因って人の自然状態と社会状態とが結びつけられるものとされたのである。
 かくして、ルイ大王は自ら称して『国家はわれなり』とした。中世の文化がそこに爛熟らんじゅくしたのであった。しかし、その時には、世の人人の生活は『鉄鎖』につながれたものであったのである。

 三 〔ルソー、その②〕

 中世の文化が爛熟して王権制度がその極点に達したとき、すなはち、国家がルイ大王の一身に集中するものとされたとき、世の人人は封建制度の混沌裡から脱してはじめて国家生活らしい生活を営むに至ったのである。しかし、かやうな王権制度の下においては、人人は、自己の自由をたのしみ、自己の独立をよろこぶことができなかった。されば、その制度の下における国家生活は、『鉄鎖』につながれてゐるものと解せられざるを得なかったであらう。
 王権制度は、封建制度が、おのづから爛熟し、おのづから崩壊したところに成立したものであった。それが世の人人に国家的生活を知らしめたのであったことは、その大きな社会的作用といはねばならぬ。しかし、王権制度がしかく爛熟して見ると、そこに、また、王権制度そのものの崩壊の契機が成立してゐたといふことになるものでもあらうか。世の人人は、『鉄鎖』をふり解くことを考へるやうになったのである。
 ルーソーは、この『鉄鎖』を敢てふりほどかうとしたのではなかった。何となれば、『社会的秩序』は『神聖なる法律』であるので、われわれは、その『神聖』を保持せむとする限り、その『鉄鎖』は、どこまでも、われわれをしばらねばならぬからである。しかし、其の『鉄鎖』を『鉄鎖』と考へないで、どこまでもやはり『社会的秩序』であると考へるの方法を、かれはわれわれに教へむとしたのであった。そこで、かれは、われわれが、その自由なる『自然状態』から『神聖』なる社会的秩序に移るのは、一に『契約』に依るものと考へねばならぬとしたのであった。
 蓋しけだし、文芸復興以後、近世文化の特色とされてゐるものは、いはゆる自我の覚醒である。中世のヨーロッパ人は、教権にしばられてゐた。王権に虐げられてゐた。しかし、その教権と王権との下に、おのづから社会的秩序が統制されるに従って、文化の発展があったのである。その文化とは、要するに、自我をみづから意識することであった。自我の意識は、一方において、経済の発達、なかんづく商業のそれと相表裏した。他方において、学問の進歩、殊に自然科学のそれと相伴った。さうして、その結果として世の人人の思想に大きな転回を興へた。コペルニクスが天動説を地動説に転回したやうに、君権神授説が社会契約説に転回するやうになった。かく思想がコペルニクス的転回を全うしたところに、十八世紀の末から十九世紀のはじめに跨ってのヨーロッパの変動があったのである。
 『契約』を基本として社会を考へることが、事実としては歴史的に無限のことであり、規範としては合理的に承認しがたきことであるにしても、当時の人人は、ルーソーの松火の光りに因って、従来の神権説から民約説へと行くべき道をみとめたのであった。
 契約本位の考へを経済学に導き入れたとき、それはいはゆる『経済人』の理論となった。これを法律にとり込んだとき、それはやがて『人権宣言』の『人』となった。フランス大革命の一七八九年にできた基本法『人権宣言』は、その第一条において、『人は其の出生及び生存において自由及び平等の権を有す』と規定したことである。
 自由平等の人が社会的秩序を全うするのは契約に因るのである。所有権は契約に依るの外他から干渉を受けることがない。かくして、諸国の憲法は、皆、所有権不可侵の原則を掲げ、コード・ナポレオンをはじめとして諸国の民法は契約の自由を認めた。
 刑法においては、それがいはゆる罪刑法定主義となった、如何なる行為をもって犯罪と為し、之に如何なる刑罰を科するかは、一に、予め、法律の定めたところに依るといふのがそれである。諸国の憲法は之をその明文に載せた。コード・ペナルをはじめ、諸国の刑法が之を明かにした。
 之を倫理的にいふときそれは『独立自尊』である。それはやがて自由競争を意味する。十九世紀の文化は、要するにそれに外ならない。――
 さうかうして、わたくしの歩みは、いつのまにか、ルーソーの柩から、更にユーゴ―の墓の前に来た。

 四 〔ユーゴ―、その①〕

 わたくしは政治家としてのユーゴ―を茲で論じようとはおもはない。さりとて、文学者としてのユーゴ―は、わたくしの論じ得る限りでない。さあれ、その流浪多難の生涯を了へて、一八八五年にかれが歿くなったとき、かれの遺骸は先ず凱旋門において人人の礼拝を受け、続いて、それがおごそかにこのパンテオンに葬られたのだ、といふことを考へて見ると、わたくしは、一言なくしてその柩の前を過ぎゆくに堪へないのである。
 かれの芸術はいはゆる古典主義に対する浪曼主義を明かにしたものだとされてゐる。古典主義とは何ぞや。それは型の文学だと説明されるのである。古典主義の文学はその爛熟した形式において一定の型を有ってゐる。その型を守らない限りにおいては、何ものも文学として許されない。しかし、浪曼主義はそれを破ったのであった。
 古典主義においては、保護されてゐる文学者と有閑階級ゆうかんかいきゅうたる読者とをもってその当事者とする。この点において、浪曼主義は全くその態度を異にするのである。ユーゴ―はそのミゼラブルの序において次の如くいってゐる。
 曰く、『法律と慣習とによって社会的処罰が存し、文明の真中に、人為的に地獄ができ、聖なる運命がこの世の宿命に因って紛糾させられる間は、世紀の三つの問題、すなはち貧乏に因る男の失墜、飢餓に因る女の堕落、闇黒に因る子供の萎縮が解決せられざる限り、或所に社会的窒息が可能なる限り、換言すれば、なほ広い見地から見て、この地上に無知と悲惨とがある限り、このやうな書物も無益ではなからう。一八六二年一月一日』と。
 学者は、古典主義の文学をもって、正確と端正との文学だとし、空想と天才とを排除した文学だといふ。之に対して、浪曼主義は、正確と端正とを離れて或ものを把へようとするのである。空想と天才とに依って或ものをつかまへようとするのである。そこに盗人のジャン・ヴァルジャンがあらはれて来た。売春婦のファンティーヌがあらはれて来た。警察官のジャヴェールがあらはれて来た。
 ジャン・ヴァルジャンは盗人である。かれはパン屋の窓の硝子を破ってパンを盗んだ。かれがしかく窃盗を為すに至ったのは、要するに寡婦かふとなった姉の餓ゑたる子供のためにせむとするのに在ったのであるが、罪刑法定主義を基本原則とする刑法は、動機の如何にかかはらず、これを重い窃盗とし、これを重罪としてゐるのである。かくして、かれは集治監に十数年を送らねばならなかったのである。
 かれは、その永い監獄生活ををはって故郷へかへらうとするの途、ミリエル僧正の邸に一夜の情を受けながら、なほそこに窃盗を敢てしたのである。前科者なるかれは、村の旅籠屋に泊めてもらふことができなかった。懐のさみしいかれは、恩ある僧正の銀器を盗まねばならなかったのである。
 しかし、モントルーイ・シュール・メールの市長たるマドレーヌとしてのかれは、人として完全な人格を持ち、事業家として非凡の材幹を持ち、市長として最も適任だとされるのである。かれを中心として、その町はよく治まり、その事業はよく栄え、さうして、世の人人は満足してその生活を遂げてゆくのである。
 罪刑法定主義は法律生活における貴い型である。十九世紀の文化がその出発点としたこの主義は、その倫理的構成において最もよく個人の人権を擁護するものであるはずである。しかし、ユーゴ―の示すところに依ると、ジャン・ヴァルジャンは、かくの如き動機をもって為したるかくの如き窃盗の故に重罪犯となったのである。その市長として、事業家として、否、実に人そのものとして円満かくの如きジャン・ヴァルジャンは、終生、警察官につけねらはれねばならぬのである。

 五 〔ユーゴー、その②〕

 ファンティーヌは売春婦である。しかし、何故に、彼女は、しかく売春婦にまで堕落したのであらうか。大学生に誘惑されるに至った彼女にも、固より、責むべきものがないとはいふまい。しかし、そこには宥恕ゆうじょすべき何ものも無いとはいひ得ない。しかも、誘惑した大学生は、社会上、法律上、何等の責めらるるところなくして暮らしてゆかれるのである。
 ファンティーヌは終に売春婦にまで堕落せねばならなかった。抑もそも、ナポレオンはその民法において淳風美俗を維持せむことを欲した。かくして、私生子に対しいはゆる『父の捜索』を禁じた。私生子はその父に対して何等の要求をも為すことができない。さうして、私生子の母は、そのかよわい手に、私生子に関する全責任を引受けねばならぬのである。その結果は、要するに、売春婦への堕落である。
 しかし、ファンティーヌは、私生子コゼットの母として、その私生子に母としてのあらゆる愛を惜しまなかった。世に母らしい母があるとするならば、売春婦ファンティーヌはまさにその一人にちがひない。彼女の売春婦であったことは疑ひないが、彼女は、母としてコゼットを育て、養ひ、愛し、いつくしみ、為さざるところなく、尽さざるところなく、さうして、病裡に後事を市長マドレーヌに託しつつ死んだ。
 警察官ジャヴェールは、警察官として最も典型的なものであるといはねばならぬ。かれは、国家の命ずるところ、法律の命ずるところに対して、自己の職務を尽し、その間少しも自己を省るところがなかった。かれは最も忠実なる役人として、最も勤勉なる警察官として、日夜、絶えず、ジャン・ヴァルジャンを追ひかけた。ジャン・ヴァルジャンは、古い自己の罪悪を、今更、かくしおほせようとするのでない。ただ、託された三尺の孤コゼットのために、ジャヴェールの眼をかすめようとあせるのである。ジャヴェールに依って象徴されてゐるのは疑もなく国家である。法律である。この国家と法律とに対してどこまでも争はむとするのがジャン・ヴァルジャンの立場である。かれは、逃げることと隠れることとに依って、国家と法律とに対し争をつづけるのである。
 ジャヴェールは終にジャン・ヴァルジャンを捕へ得るまでにその努力をつづけたのであった。しかし、しかくジャン・ヴァルジャンを捕へむとしたときは、かれは、ジャン・ヴァルジャンが意外にも自己の貴い恩人であることを発見せねばならなかった。かれは、かくして、犯罪人を捕へることに代へて自殺の途を択んだ。
 国家は、自己の罰せむとする犯罪人に依って却って自己の存立を維持してゐる、といふことを発見せねばならぬことになった。わたくしは、ユーゴ―の浪曼主義が、ここに至って、むしろ極端に馳せてゐることを考へねばならぬ。かれの天才と空想とは、ジャン・ヴァルジャンを考へ出した。ファンティーヌを考へ出した。ジャヴェールを考へ出した。しかし、それは浪曼主義の産物である。かれがその三つの人格に依ってわれわれに教へむとしたところは、所有権及び契約の自由の社会と罪刑法定主義の文化とに対する熱烈な批判であり、深刻な論評であった。固より、その批判論評には多大の真理が含まれてゐることを拒むことができない。この意味においてミゼラブルは永く聖典として続くであらう。しかし、その批判に用ひられた論理、換言すれば、ミゼラブルに示された三つの人格は、浪曼主義の架空のものであり、ただ、ユーゴ―の理想のものであったに過ぎないのである。
 われわれは、この意味において、実証的な観点からの研究を希望せねばならぬ。われわれは、かくして、ゾラの柩の前に足をはこぶことになるのである。

 六 〔ゾラ、その①〕

 ゾラは、或意味において、十九世紀後半期の実証主義を代表するものといひ得よう。抑も十九世紀の後半期は実証主義の世の中であり、その実証主義はその中心を自然科学の進化論におくものであり、さうして、その進化論は遺伝論の上に構成されてゐるのである。さて、ゾラの仕事のうちで、わたくしが特に興味を持つのは、かれがその芸術に遺伝論を適用した点に在るのである。いふまでもなく、かれの芸術は自然派と称せられてゐる。自然を自然のままに芸術の上に現はすのが真の芸術だといふのである。さうして、その自然現象の一つとして遺伝が重要視されてゐるのである。
 それで、ゾラの芸術を説く学者は、ゾラをもって科学的研究方法を文学の創造に応用したのだと為すのである。かれは、地上に現に足を踏みしめてゐる人間をさながらに描かむことを欲した。さうしていはゆる『人間の記録』を作らむことを主張した。
 若し浪曼派が抽象的な或ものから出発してゐるとするならば、ゾラの自然派は具体的な事相から事をはじめるものといふことができよう。ユーゴ―が理性の要求として人物と事件とを描くのに対して、ゾラは、ひたすらに観察をそのままにと書きこなした。
 わたくしは、広くゾラの作物に対してその芸術に対する批判を為すに堪へる者ではない。ただ、一例として、その著『ルーゴン・マッカ―ル家の人人』につき、かれの自然主義の一斑を考へて見たい。二十巻をもって成れるこの小説は、一八七一年からはじまって、一八九三年に至ってゐる。或神経性の病婦人がもとで、この婦人がはじめルーゴン家に嫁ぎ、のちマッカ―ル家の人となって両家に子孫を残した幾十人かの事件を描いたものである。かれは、之を『第二帝政の下における或家族の自然的及び社会的歴史』としてゐる。一方においては、遺伝が自然的原因として人の運命を支配し、他方には、環境が社会的原因としてそれにからまり、そこに幾多の罪悪が成立し、そこに幾多の悲劇が生れて来る。かれは、遺伝と環境との二つについてその交渉を研究し、家族と社会との関係をそこに明かにしようといってゐる。
 例へば、その二十巻中の一篇たる『居酒屋』を考へて見よう。その女主人公のジェルヴェーズは、二人の幼児と共に第一の夫に捨てられたのであった。悲しい遺伝に加へるのにこの不幸をもってした彼女である。彼女はどこまでも忍耐強く実直にその人生の努力を持続したのであったが、終にその遺伝と、さうして第二の夫の不幸とに耐へきれないで、居酒屋への出入を敢てするに至ったのである。
 ジェルヴェーズは、第二の夫として男主人公たるクーポーと同棲することになったのである。ジェルヴェーズが実直な女であると同時に、クーポーは勤勉な屋根屋として模範的な労働者であったのである。しかし、或日不幸にしてかれは屋根から落ちて怪我をした。その怪我が原因となってかれは酒を飲むことを覚えるやうになった。悲しい遺伝が茲に芽をふき出したのであった。さうして、夫のその放埓から生じた家庭の不幸が、終に妻をも放埓に陥らしめることになったのである。
 遺伝と境遇との間に不可抗力が微妙なはたらきをするといふのである。そこに酒が大きな手伝ひをするといふのである。酒あるの故に人ははじめて不幸を忘れることができる。しかも、その酒のために不幸が一層大きくされるのである。ただ、これだけの事実を、ありのままにゾラは書きしるさうといふのである。
 ゾラの写実は、人間の酷悪なる方向を何の憚るところもなく赤裸裸に書いてゐるものとされてゐる。君子のまさに近づけるべき著作でないとされるところが、まさしくそこに在る。わたくしは、この点についてゾラに対する世の批評を無理でないとおもってゐる。
 しかし、ゾラは、かくの如きものをもって人間の記録だとするのである。かくの如きは蔽ふべからざる真理だとするのである。さうして、更に曰く『すべてを明示せよ。しからざれば矯正はできない』と。

 七 〔ゾラ、その②〕

 ゾラが人生の酷悪をそのままに赤裸裸に書きしるしたからといって、その酷悪な記載そのものがかれの仕事の全部であり、従ってその最後の目的であったとするならば、それは、おそらくかれの本意ではあるまい。現に、かれは次のやうな趣旨のことをいってゐるのである。――
 吾人は社会悪の諸原因を探究する。吾人は社会及び人間の迷路を明かにするために階級と個人とを解剖する。これは、吾人をして病的な題材を取扱はしめ、人間のみじめさと愚かさとのただ中に吾人をはひらしめるゆゑんである。
 しかしながら、吾人は、これ等を知るばかりでなく、更にその善きもの悪しきものとを超越し得るために必要な人生の諸記録を提供するのである。吾人が徹頭徹尾真摯に物事を観察したり説明したりするのはこのためである。
 さて、善きものをもたらし、善きものを発達させ、悪しきものに反対し、それを根絶させるのは、立法者の任務である。だから、吾人の作物ほど大きな道徳的影響を与へるものは他にあり得ない。といふのは、法律は依って以てそれに基礎をおかねばならぬからである。――
 果せるかな。かれは、しかく、現実を直視するに非ざれば人生をよりよからしめるの方策に基礎がないとしたのである。かれは、改造は実証的な立場の上に組立てられねばならぬとしたのである。『この地上に無知と悲惨とがある限り』としてユーゴ―はその浪曼的な主張を説いたのに対し、かれは先づ『社会悪の諸原因を探究すべし』として自然主義を主張した。ジャン・ヴァルジャンが実は架空の人理想の人であるのに対し、ジェルヴェーズやクーポーやは、現に生きてゐる人であり、現に居酒屋に放埓を尽くす人であるのである。
 ゾラはいふ。自分は、小説を書かうとするとき、まづ著作のその主人公の性格を明かにすることに第一の力点をおく。さうして、その性格を写し出すためには、その人物の気質と、その生れた家族と、その受けた感化と、その生活してゐる環境とを深く考へ、それから、その主人公の接近してゐる人物の性質、習慣、職業、境遇等を研究する。かくして、自分は、例へば或劇場の光景や或料理屋の光景やらを描かねばならない場合には、自分はこれ等の場所を能く知るために、十分実地の観察をする。世上のどんな小さな出来事でも、それが発生するためには、自然的な必然的な径路のあるといふことを自分は固く信ずるので、従って、その人物の性格乃至その境遇から如何なる結果が生れるかを、自分は研究し、表明しようとする。この点で、自分は、例へば、かの極めて僅かな糸口から深く探究して行って、遂に大罪を発見する探偵のやうなものである、と。
 かれは、その観察する具体的なもろもろの事実の裡に因果の系列を発見せむとするのである。この意味においてかれの態度はいはゆる自然科学的である。しかし、同時に、この自然科学的観察からして社会改良の合理的な規範を作り出さうといふのである。さればこそ、かれは、又、いったのである。『すべてを明示せよ。然らざれば矯正すること能はず』と。
 かれの四福音書について語るべきものがあるが茲では省きたい。要するに、かれの仕事はかくの如きものであったが、不幸にして、かれの芸術は、その改造の合理的規範の如何なるものであるかを積極的に示さなかった、ともいひ得よう。従って、かれは、酷悪な事実の羅列者として世に知られたのである。しかし、若し、十九世紀における思想の発展を論ずるならば、かれは、ユーゴ―の理想主義に一歩を進めたものであるのである。惟ふに、ユーゴ―はルーソーに一歩を進めたものである。ルーソーに依って示唆された原則に対し、ユーゴ―は手きびしい批判を加へたのである。批判としてはそれは適当であった。しかし、その批判には実証性が欠けてゐる。そこには、徒らいたずらにに人を嗟嘆さたんせしめるものがあるばかりで、何等のたしかな基礎がないのである。ゾラは実に、その基礎を実証的に作り上げようとしたのである。しかし、改造の仕事そのものは十九世紀に属しなかった。それで、かれは、十九世紀後半期だけの努力を全うして、一九〇二年に歿くなった。
 さもあらばあれ、ゾラが、如何に人道のための闘士として、理想に燃ゆるの人であったかは、ドレーフュス事件におけるかれの態度において明かにされたのであった。しかし、兎にかく、フランスは、ゾラを翰林院アカデミーに迎へることを拒んだ。拒んだ後、その死後、一九〇八年に、フランスは、翰林院アカデミーに代へて、パンテオンにかれを葬ったのである。

 八 〔ジョレス、その①〕

 パンテオンにおける最も新らしい墓は、いふまでもなくジャン・ジョーレスのそれである。例のソシヤリストのジャン・ジョーレスのそれである。
 かれは、一九一四年七月三十一日の夜、兇徒の手にたふれた。さうして世界大戦争がはじまったのである。惟ふに、今日から見れば、大戦争は起らねばならぬものでもあった。されば、ジョーレスは、かやうな非業の死を見るべき宿命に支配せられてゐたのであらうか。しかし、また、若しジョーレスがかくの如き不時の不幸に遭遇しなかったならば、大戦争は起らなかったのだ、と考へる人もあるのである。
 何とかして起らむとする大戦争を喰ひ止めようとするのが、かれのねがひであった。七月三十一日朝刊のその機関紙には、かれは、『冷静が必要だ』と題してみづから署名した論説を書いた。内閣議長にして外務長官たるヴィヴィヤニー〔René Viviani, 1863-1925〕をケー・ドルセーに訪うて長時間にわたり意見を交換したのち、夕暮おそく自分の新聞社にかへった。多忙な事務をひとかたづけしたのち、漸くにして近所のレストーランで食事を採ったのであったが、その食事をまさにをはったとき、それは十時少し前であったとか、おもひかけずも或若者の狙撃に遇って、その弾丸にあたった。弾丸は背部からかれを襲ったのであった。
 政府は、直ちに、内閣議長の名を以て掲示を市内の各所の壁に貼りつけさした。其のおもひかけざる死を報ずると共に、『予は、予自身として、又同僚の名において、この社会主義的共和主義者のしかく早く築かれることになった墳墓に向って敬意を表する』とし、『氏は、この国家多事の日に、平和のために、政府の愛国的行動を支持した人である』とした。
 八月四日、かれを葬るの日、ヴィヴィヤニーは、かれの柩の前で演説をして、重ねていった。曰く、『われわれの尊敬と讃美とを集めてゐたかれの心情、かれの性格、かれの貴い良心、全部が義務のために捧げられた誠実にして簡素なかれの一生、この不屈の使徒、圧し砕かるる者を飽くまでも保護せむとするの決意』と。
 かれは学者としてその生涯をはじめた。ベルグソン〔Henri Bergson, 1859-1941〕と共に教授適任考査の試験を受けた。さうして、郷里に近いツールーズの大学に哲学を講じたのであった。
 かれは、その学位論文において史家ミシュレ―〔Jules Michelet, 1798-1874〕の著から語を抜いてモットーとした。それは、『すべての人が、さうして最も卑しい人までが、都市シテ―の中へはひり込まないならば、わたくしは市外に止まってゐませう』といふのであった。国の最も低い地位の者、社会の最後の一人のために、低いが上の低い、最後のうちの最後の者ならむことが、かれのねがひであった、といふことになるのである。
 かく、かれは、哲学者として始終すべくあまりに情熱の人であった。その情熱の故をもって、かれは、間もなく議員に選ばれて下院の人となった。かれは、以来、下院の一員として、フランスの左党を代表する一人として、その生涯ををはったのであった。
 かれの理想は、『全人類をして選民たらしめる』に在ったといふことである。『全人類ユーマニテ・アンテグラール』といふのがかれの標語であった。かれの学位論文のモットーがすでに之を明かにしてゐるのである。かれのために伝を書いた翰林院アカデミーのレヴィー・ブリュ―ル〔Lévy-Bruhl, 1857-1939〕は、かれの生涯をもって、社会的正義と人類の解放との理想のために終始したものといってゐる。かれはそれがために生きてゐた。さうしてまた実にそれがために死んだのであった、としてゐる。
 わたくしは、かれの著述演説のうちから二三のものを抜いて見たい。曰く、『労働が最上のものとされる社会といふほど貴い理想はないであらう。そこには、搾取も圧抑もなく、すべての人の努力が自由の立場において調和される。そこには、社会的所有権が基本とせられ、各自の個人的発展が保障される。あらあらしい競争から離れて、互に協力をすることにしたい。経済的に懶惰らんだな生活に代って創意と責任との世の中にしたい』と。
 曰く、『労働は、しばしば、屈従と困苦とに過ぎないものであるが、しかし、それは一の職務であり、喜悦であるものにならねばならぬ。今日では、労働は人と人との互の争である。来るべき社会では、労働は、すべての人がその力を一にして自然の宿命と争ひ、生活のみじめさとたたかふものであるべきである』と。
 ジョーレスが最後に目ざしたところは、正義を基礎とする調和である。しかし、調和といふことをただ抽象的に定め、正義といふことをただ冷やかに考へないで、かれは、更に、そこに、宗教的な情熱を加へ、弱い者に対するあつい愛の心を加へた、と人は説いてゐる。

 九 〔ジョレス、その②〕

 ジョーレスは次のやうにいった。『正義といふことは、すべての人に対しその人たることが十分に尊敬せられるといふことである。さて、人の人たることは、独立が認められ、活動的な意思が存立し、個人が社会に対し自由に且つ歓喜をもって応化おうげしてゆくところに存するのである』と。
 されば、ジョーレスの社会主義はマルクスの主張とは混同されてはならぬとされてゐる。マルクスは、正義といふことを一笑に付して、ひたすら科学の名においてその議論をすすめた。ジョーレスは、マルクスを学びマルクスを賞讃してはゐるのであるが、しかし、『吾人の社会主義はフランスオリジーヌのものであり、フランス的アンスピラションのものであり、フランス的カラクテールのものである』とした。
 かれは、『或階級が支配するといふことは人類ユーマニテに対する侵害である』とした。この意味においていはゆる有産階級の支配を排斥すると同時に、無産階級の支配といふことも亦之を欲しなかった。『社会主義とは或階級が社会において主位を占めるといふことを廃せむとするもので、従って、階級そのものを無くしようとするものである。されば、社会主義は人類をその本然の有様に立ちかへらせようとするものである』とした。
 マルクスが宗教と道徳と政治とをもって経済生活の上層建築に過ぎないとするのを、かれは斥けた。かれは、人の道徳的生活と経済的生活とを区別して考へるといふことには反対した。人類の歴史には、必然的な進化といふことの外に、理想的な一種の意味があるといふことを主張した。さうしていった。『良心と精神エスプリとが人類の間に勝利を占めることになると、人人は、この宇宙が、その本体において、強暴なものでもなく、又盲目的なものでもなく、そこには到るところに精神があり、アームがあり、畢竟ひっきょう、宇宙は、秩序と、美と、自由と好意ボンテとに向って欣求ごんぐしてゐることを認めるであらう』と。
 かれの理想はかくの如きものであった。さて、かれは、その理想を実現せしめるために如何なる手段を採らむとしたか。かれは、実に、おだやかな方法に依らむことを主張したのでる。かれはいふ。『われわれは理論として絶対的な或ものを持ってゐる。しかし、われわれは、その日その日に、現在の苦痛を少しでも軽からしめるやうな一つ一つの改革を、現に苦しんでゐる人人に適用して見たいとおもふ。われわれは、現在の事相に対して頑固に反対しようとはしない。かような反対は結局無駄なことである。さりとて、若し、われわれが少しでも現状をよりよくし得るときは、われわれはその改革を為すに躊躇すまい』と。
 又曰く、『方法は、要するに、今日の社会に、今日の社会以上の所有権を少しづつ入り込ませるといふことである。それに因って新社会の来るべきことが予告されるわけであるし、新社会の成立が準備されるわけである。改革は、一方において、現在の苦痛を和らげるものであるが、同時に、それは、将来のための準備でなければならぬ』と。借地法借家法や、工場法や乃至小作法や、さうして調停法やが、いづこにもかやうにはたらいてゆくのである。
 曰く、『将来の革命は合法性レガリテ光明リユミエールとに依らねばならぬ。無産政党といふことは暴力に訴へるといふことを意味するものでない』と。又曰く、『資本主義的な所有権は社会的なそれに代らねばならぬ。しかし、それは常に協調の方法に依らねばならぬ。その強調にはいろいろの色合ひニユアンスがあり得よう。それには、静かに論議を重ね、国民の多数の公正な意思に依って進まねばならぬ』と。
 マルクスとエンゲルスとが労働者に祖国なしとしたのに対し、かれは強く反対した。かれはいった。『ソシヤリスムは生活から離れない。従って国民生活から離れない。それは祖国をたよって祖国を改め、祖国を大ならしめむとする。祖国の尊厳を基礎として、その独立の上に全人類そのものに向上せむとするのである』と。
 かれは、終に、五十六年間のその生涯において、一度も国務長官たることを得なかった。かれは、その哲学と史学との業績と、その世に聞えた雄弁とにもかかはらず、また、翰林院アカデミーに迎へられることがなかった。さうして、重ねていふが兇徒の手にたふれた。しかし、平和が成ってのち、フランスの秩序が漸くにして回復した一九二五年、フランスは、この『平和の使徒』をそのパンテオンに葬ったのであった。

 十〇 〔ベルトロー、その②〕

 ベルトローの物語に立ちかへらう。ベルトローは、要するに、自然科学者であった。政治家としてはフランスの愛国者であったし、文人としてはフランスの芸術家であった。さうして、かれは、その化学に関する発明においてはまさに全人類のための科学者であったのである。
 かれの業績の最も偉大なるものの一は、いはゆる合成化学に関するものであるといふことである。従来、有機物と無機物とは全く区別して考へられ、無機物からはどうしても有機物をこしらへることができないものであるとされてゐた。しかし、かれは無機物からして終に有機物を合成するの仕事を成し遂げたのである。かれに依って、化学はまさにコペルニクス的大転回を成したのだともいひ得よう。
 かれの成功が基礎となって、その後、種種の元素から多様の合成が試みられることになった。自然には存しない幾多の化合物さへがこしらへられることになった。今日までに、化学者がこしらへ得たそのやうな化合物は二十万種もできてゐるとやら。若し合成化学のかやうな仕事が更にその発達をつづけむには、人生には大きな変革ができ上るにちがひない。
 一八九四年に、かれは、かれの『夢』を説いてゐる。そのいはゆる夢物語に依れば、人間の食物は、太陽熱と地下熱との利用に依って、空気と水とから任意に作られることになり、それが小さく錠剤か何かに作られて、手軽に人は生きてゆくことができるやうになる、といふのである。それはさる宴会の席上での演説であった。
 曰く、『紀元二千年にもなるならば、農業も牧場も労働者もなくなるであらう。土地の耕作に依って生活を維持することもなくなり、石炭坑も、地下作業も、従って、ストライキも、税関も、保護政策も、戦争も、人間の血で灌漑せられる国境もなくなるであらう。晴雨寒暑にかかはらず、人人は得べきものを得るであらう』と。さうして、なほ語を足して、『そのとき、若し、精神的化学が人間の道徳的性質を変更すること、われわれの化学が自然界の物質を変化せしめるやうであるならば、社会主義者の夢が成就されるであらう』と。
 『人人は、おだやかに、道徳を守りつつ生きてゆくことができる。それは、肉食といふことがなくなるからである。土地の肥瘠ひせきの論がなくなるからである。砂地ほどよろこばれることにならう。それは、今日の農業地より健康であるからである。そこに文化が栄えるであらう』と。
 『かくなればとて、人生の芸術と美と楽しさとがなくなるとおもってはならない。土地が今日のやうに利用されることがなくなると、いづこも、みどりと木と花とで覆はれることになるであらう。そこに、人人は、豊けさの裡に生活し、伝説的な黄金時代のよろこびを持つことにならう』と。学者はこれを評していふ。この予言に反対することは容易である。しかし、それは必しもかしこいことではない、と。
 なほ続いて曰く、『しかし、そこには人は懶惰らんだな生活をつづけるであらうと思ってはならない。労働は幸福をつくる。さうして、科学の発達は常に労働の増大を意味する。未来の黄金時代には人は今よりもより多く働くであらう。さうして働くに従って労働の効果を更に享受することであらう。人は、そこに、その智能的の道徳的の及び美的の発展を最高度に遂げるべき途を見出すであらう。自分は、労働と正義と人類の幸福とのために盃を挙げる』と。
 ベルトローの記念のために、新たに化学館メゾン・ド・ラ・シミーが創立された。世界の各国から寄附金が集まった。わが国からも送られたのである。ポアンカレーは、昨年十月二十五日、パンテオンにおいての演説においていった。『学者も亦祖国の市民であり、また全人類の一員である。かれは社会から離れてゐてはならぬ。苦しめる者求める者から離れてゐてはならぬ。化学館は、その窓から街頭の人人をながめるべきである。困厄と悲哀とに対してその門をしめ切ってはならぬ。化学館は瞑想の場所ではない。それは、生活と行動と進歩とのアトリエである』と。
 まことや、科学も、思想も、共に、みな、『生活と行動と進歩と』に対してのみ意味を持つのである。パンテオンは、ベルトローをそこに祀ることに因って、それを『生活と行動と進歩と』の神としたのである。わたくしは、ポアンカレ―が、ベルトローの業績を叙し、それに向って多大の礼讃をしたことが、また、十八世紀のルーソーに対するそれであり、十九世紀前半のユーゴ―に対するそれであり、十九世紀後半のゾラに対するそれであり、二十世紀初頭のジョーレスに対するそれであるやうに考へられるのである。
 わたくしは、はるかに、パンテオンの石の壁と円天井とにひびきわたったであらうところのポアンカレ―の雄弁をおもひやりつつ、十九世紀におけるフランスの思想の発展を回想せざるを得ないのである。

――東京朝日新聞、昭和三年四月一日以後――


〔後注〕

  1.  ベルトロー ──1827~1907。フランスの化学者。『合成に基礎をおく有機化学』(1860)で注目された。後年は政治家としても活躍した。

  2.  ポアンカレー ──1854~1912。フランスの数学者、物理学者。認識論的主張もある。 

  3.  ルソー ──1712~1778。スイスに生まれた。フランス啓蒙思想家の一人。文明を批判し、自然な生活に帰ることを主張した。主著に『エミール』『社会契約』『告白』など。

  4.  ユーゴー ──1802~1885。フランスの小説家にして国民的作家。ヒューマニズムの立場から多くの作品を残した。上院議員にもなり、ルイ・ナポレオンのクーデタ(1851)を弾劾した。代表作に『レ・ミゼラブル』『ノートルダム・ド・パリ』。

  5.  ゾラ ──1840~1902。フランスの小説家。ベルナールの『実験医学序説』の影響を受けて、自然主義小説を始めた。小説は科学的決定論の記録とならなければならないという考えである。代表作に『ルーゴン・マッカール家の人々』。この中に有名な『居酒屋』『ナナ』『ジェルミナール』などが入っている。ドレフュス事件では先頭に立ってドレフュス支持の論陣を張った。未來社会を夢見た『四福音書』もある。

  6.  ジョレス ──1859~1914。フランスの社会主義的政治家。迫り来る(第一次)世界大戦を防ごうとして奔走した。そのために暗殺された。

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