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7ヶ月の留学で異文化理解力は上がったのか?

一般に、留学すると「海外の文化や習慣を知り、異文化への理解が深まる」と言われている。

私も、留学前は「留学で”異文化理解力”を高めて、世界の人と分かり合える人になり、地球規模の問題の解決に貢献したい」などと、考えていた。

そして留学を終えた今、「"異文化理解力"なるものが上がったか?」を書きたい。
結論から言うと「上がった面もあるが、全貌の未知数や自分の至らなさを痛感したことで、相対的には足りない」と感じている。

留学や海外に興味のある人に、読んでもらうことを想定して書く。

※飽きないよう、スイスの綺麗な写真を挟んでいく。

異文化理解力とは?

異文化理解力について理解するために、そもそもなぜ違う国の人の言動は自分の基準とは"異"なるのだろう。この理解のため、まず視座・視野・視点について先に整理しておく。

人はそれぞれ、どの点に立ち(視座)、どの範囲を捉え(視野)、どこに着目するか(視点)、という世界の見方をもっている。

視座の位置は、地理的あるいは社会的に、生まれもった環境に依存する。たとえば日本で生まれ育った私は、物事を日本基準で考える。
視座の高さは、経験や努力で、ある程度まで高められる。
その結果、見えている範囲が視野で、注目しているものが視点である。

https://bizit.hatenablog.com/entry/vision-perspective-viewpointより

視座も視野も違うからこそ、自分には見えていなかった"異"なる考え方をもつ人が存在する。

そして異文化理解力とは、
・視点の理解:相手の言動を、その視点をもった背景も含めて理解し、
・自分の変化:相手の視点に合わせて、自分の認識や言動を変化させること
という、2ステップに分解されるのではと、私は思う。

たとえば欧州では、カフェなどのテラス席の人気がとても高いのだが、
1. 寒く日照時間が短い冬が長いからこそ、太陽の下で食事できる時間が貴重だと知り
2. 美白=善との自身の考えを改め、ランチ時にテラス席とどっちがいいか相手に聞き、合わせる
といった具合である。

異文化理解力が上がった理由

1) 視点の数が増えた

行ったことのある国や知り合いが増えて、視点の数が増えた。
たとえばミャンマーから見たアジアの政治問題や、欧州から見た日本の戦争謝罪など、問題そのものも、あるいは同じ問題でも違う切り口が増えた。

同時に「日本では?」と聞かれることも多いために、あらためて日本を鳥瞰的に見る機会が増え、視座が高くなったようにも思う。

2) 会話の糸口が増えた

英語力や知識の面からうまく話せないことも多々あった分、それを補うために質問力が高くなった気がする。

これらのおかげで、相手を理解するための最善の手段である、コミュニケーションの始め方・広げ方が磨かれたように思う。

異文化理解力が上がっていない理由

1) 受容ではなく、鈍感さで異文化を受け入れていた

先に述べた通り、視座の位置は、生まれ育った地理的、あるいは社会的なものにある程度依存する気がした。

たとえば私の場合、一緒にいる時間の長い、あるいは心地よいと感じる友達はアジア出身、あるいはアジアに興味のある子が多かった(もちろん例外もたくさんいるが)。

近隣諸国とは気候、歴史、食文化など共有しているものも多いために、視野の重なりが自然と広い。だから努力しなくても理解できることや、一緒にいて楽しいと思えることが沢山あったのだと思う。

一方で、留学先の欧州出身の学生は、成長思考、個の尊重、時間感覚などもより私の価値観とは異なり、アジア学生以上に理解に努力を要した。
また、現地の正規課程の学生は既にコミュニティがあったこと、ドイツ語など他言語で会話していたこと、などもあり、より強靭な精神が求められた。

留学中、日本と違う生活に疲れて自分の余裕がなくなったときなどは特に、相手の理解に割く気力は残っていない。
だから価値観が近い相手といたり、価値観が大きく違う相手に対しては、「他者を変える」ことは諦めて、自分が鈍感になることで乗り切れっていた。

これは背景も含めた本質的な理解や、自分の言動や認識の変化、といった異文化理解力とは次元が違う。

2) 世界の全貌の未知数が増した

とはいえ、どうしても主張が譲れなかった場合、合理的な理由にもとづき説明すれば、95%の相手は分かってくれた。

推察だが、物価世界一レベルのチューリッヒに住んだり、あるいは欧州屈指の大学に来たりするのは、経済力や学力の面で、社会の一握りの層だ。
だから、相手は説明すれば理屈は通用する人たちで、言うほどの異文化ではなかったのかもしれない。

だから、増えたと感じているその視”点”すらも、所詮は限られたものであり、所詮、世界の大きさに比べれば限りなく小さい”点”だ。

実際には今回の留学で出会えなかった、全く異なる哲学や理論で生きている人も、留学先には少なかった中東、南米、アフリカ、オセアニア出身の人もいる。
そう思うと、まだ見ぬ分かりあえない相手が、世界にはどれだけあるのだろうと感じた。

まとめ

冒頭の質問に改めて答えると、留学を通して異文化理解力は「上がった面もあるが、受容の難しさや全貌の未知数を知ったことで、相対的には足りなさを感じる」というのが私の答えだ。

また異文化というと、国レベルで括りがちだが、異文化理解とは、究極的には”〇〇出身の人”といった一般論ではなく、“〇〇さん”という自分とは違う、目の前の相手の理解である。

当然だが、そんな力が、半年強の海外生活で身につく訳はない。

それどころか、自分の知っている視点の増加につれて、目の前の相手にも勝手にあてはめて解釈したくなる危険すらある。
それで目の前の人を理解しようとする姿勢を忘れてしまうくらいなら、「知りたいので教えて」と素直に尋ねるほうが、きっとずっとマシだ。

また仮に相手をしっかり理解できたとしても、
相手と私、双方の主張を満たす合理的な解が存在しないこともきっとある。

異文化理解力は、まだまだ今後の人生の課題だ。

最後になりましたが、奨学金を給付してくださった公益財団法人経団連国際教育交流財団をはじめ、留学という貴重な機会を支えてくださった全ての皆様に、深謝申し上げます。

(参考:エリン・メイヤー「異文化理解力」, 英治出版)


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