星と人の間に ニューヨークで絵描きとして生きる (4)
ニューヨークで、絵描きとして活動してきている啓茶(ケイティ)、ことKeico Watanabeです。
私がアメリカに来てから、27年。
これは私がニューヨークに渡って、絵描きとして生きてきた日々の物語です。
スタジオは100年前に建てられたビルの10階
とにもかくにも自分の城を手に入れた。
窓からはたくさんの窓が見える。それぞれの窓にはそれぞれの生活があり、色々な光を発している。
私のこの窓からも、私の光を発信して、マンハッタンの景気の中の一つの色になっているんだと思うと、ワクワクしてくる。
ここでの目的は「絵」を描くということ、このために私は生かされているのだと、自分に言い聞かせた。
いい年をして、こんなことしていて、将来設計もなくていいのだろうか。
その疑問はなるべく考えないようにして、とにかく進めるところまで進んでみようと生活が始まった。
シンプルな生活の中で、はっきり必要な物が見えてくる。
東京に住んでいる時に「ニューヨークに住んでいる人、誰か紹介してください」と、色々な人に声をかけたら、8年間ニューヨークに住んでいたという友人のカメラマンが ニューヨーカーの女性を紹介してくれた。
彼女は銀行でITの仕事をしていて、私にとってニューヨークの 辞書のような存在だった。そして唯一夕飯を食べに行こうと声をかけられる友人になってくれた。
「ちょうどハングアウトしていたし、オンザウェーで、寄れるからピックアップできるよ、心配しないで」
彼女の日本語にはよくわからないカタカナが沢山でてきた。
やっとアパートを見つけたと連絡すると、使っていない食器や包丁タオル等を持ってすぐに来てくれ、ベッドや生活用具を買い足すのにも付き合ってくれた。
定職のない私にとって、使わなくていいお金はとにかく節約して、ニューヨーク生活が始まったのだった。
このアパートは100年前に建てられたもので、天井が高く、オイルヒーティングの設備が整っているので、寒い時部屋に帰ってきて部屋が暖かいというのは、なんと心強いし、幸せなことなんだろうと何度も思った。
入居してから気づいたのだが、部屋は北側に面していた。
日本では南向きというのは良い条件になるが、洗濯物を干すわけでもないNYのアパートでは、北向きの窓の方が、陽の当たる景色を見て暮らせることになるし、夏の暑さも緩和できるので、良かったのだとわかった。
なにより自分だけのバストイレがあるというのは、幸せだ。
12畳ほどの板の間の部屋には小さな一人やっと立てるだけのキッチンのスペースがある。シンク、ガスコンロと冷蔵庫がある。
小さな棚に炊飯器とコーヒーメーカーだけのスペースしかない。電子レンジも欲しかったのだが、スタジオ空間へはみ出してしまうので諦めた。
窓ガラスの作りはとってもアンティークで、きちっと閉まらないので、10階の私の部屋には、ニューヨークの騒音や、パトカーの音や街のざわめきが24時間響いていた。
電話をかけていると、相手の人が、
「家に帰ってから電話をかけ直して良いですよ」と言ってくれることも多かった。
外の車のクラクションやサイレンが響くからだ。
「いえいえ、家からです」と説明すると、今度は向こうがびっくりしていた。
この音もだんだんと気にならなくなっていったが、たまに郊外の静かなところや夜の暗いところに行くと、ずっとスイッチが入いりっぱなしのようになっていた、感覚のスイッチを切ってもらえるような、ホッとできる自分に気づいて、びっくりした。
ニューヨークはいつも静かにならず暗くならない、ずっと眠らない街なのだ。
ビルが高いせいかネオンが強いせいか、マンハッタンで空を見上げることはあまりない。でもよく見ていると、飛行機も行き交い、星も見えて来る。
CDデッキのラジオからは懐かしいジャズの音楽が外からの騒音と混ざって心地よい。ダウンタウンの画材屋に行き、大きなイーゼルを購入し部屋の中央に設置した。
私の窓もマンハッタンの景色の一つになっているんだと、キャンバスに向かった。
* * * * *
最終電車のない街のプラットホーム
誰もが無口で暗闇に光が見えるのを待つ
レストランの仕事を終えた青年が
いつもの地図を眺める
すれ違った言葉、噛み合わないレール
行き先のちがう切符が2枚
たくさん言わないように
はっきり認めないように
涙がこぼれないように
今年もやってくるサーカス一座のポスター
バカルディーレモンをもう一杯飲もう
リズムに合わせて体を動かす
優しい気持ちになれるように
穏やかに眠れるように
祈りが空高くまでに届くように
だから一緒に踊ろう、踊ろうよ
しばらくの別れ、それとも今夜がさよなら?
だから一緒に踊ろう、踊ろうよ
東の空から星が消えるまで
* * * * *
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