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「手段が目的化する」という言葉に、人生史上最大でピンときた話(『ぶんしょう舎』第3回)

『ぶんしょう舎』第3回の講師は、橋口幸生さん。「コピーのこと、文章のこと、人生のこと。」という講義だった。

共感する面白さと反省が随所にある。
「ご相談させてください」、言うわ。言ってしまうわぁ。
「こそあど言葉の連発」、気づかずやってしまうんだよな。
「就職活動では、なぜか全員がチームワークの大切さかリーダーシップを学んでしまう」。確かに!PCの前で笑ってしまった。

そして、学びや背中を押してもらえる言葉も多い。内容を叩き込んで実践していくのが、今後の課題だ。毎回の講義で、2時間の中にとんでもない量の技術や助言が込められている。ついていくのに必死だけど、とにかく楽しくて刺激があって、充実しているのだ。

橋口さんの講義のアーカイブを見ながら、なぜか自分は大学時代のことを振り返っていた。今回はそれを、感想として書こうと思う。

長々と文章を書く始まりは、おそらく「教育実習」

振り返ったきっかけは、講義の序盤にあった橋口さんのスライドと言葉だ。

日本全体で発信しとけば伝わるという態度が問題としてある。
読み手への想像力を欠くと何が起きるか:長くなる

つい長々と文章を書くときがある。でも、どうして?何か始まりになるような地点があったか・・・・・・?考え出して、あぁと思ったのは、「教育実習」だった。

自分は教育大学の出身。卒業のためにほぼ全員が通らなければならない関門が、教育実習だ。3年次に3週間、4年次に2週間、実践的に科目を教えることを学ぶ。
特に3年次は慣れない中で、授業や資料を準備しなければならない。ルームシェアをした友人と、本当に寝る間も惜しんで3週間を駆け抜けた。

実習で学び、かつ教壇に立つ上でも欠かせなくなるのが、「学習指導案」である。

教員(学習支援者)が授業・講習などをどのように進めていくかを記載した、学習指導・学習支援の計画書のこと
ーWikipedia

教員になれば毎回のようには作成しない(はずだ)が、実習時は毎授業作成していた。授業をしたり学んだりする理由、指導の目標・留意事項や計画を書き、指導をしてくれる教員に提出する。授業後には、実際の授業内容と指導案を見比べて、質疑や指摘を受けるのだ。

10年ぶりくらいに指導案を引っ張り出して眺めてみた。長い。長すぎる。
1文の字数も多ければ、抽象的な言葉も多い。そしてパッと見で読む気がしない・・・・・・。ギッチギチに詰め込まれた文章を見て、「言葉ダイエット」どころじゃないなとドン引きした。

でも当時を考えれば、この指導案を作成した理由も分かる。大学の授業でも作成方法については学ぶものの、実践の場で作成したことはない。先輩からもらった指導案のコピーは、同じようにギッチギチに字で埋め尽くされている。
「このボリュームじゃないと指導受けるのか・・・・・・」。先人の資料を目の当たりにし、単位を前にすれば、そりゃ文章もカサ増しするだろう。意味分かって使ってる?って言われそうな抽象的な言葉も使うだろう。今となってはとんでもない話だ。

なんとなく体裁を整えようと、長々と文章を書いてしまう。そうなるのに教育実習が与えた影響は、小さくないと思う。
ただ、教育実習だけが唯一のきっかけかと考えると、影響を与える出来事はまだまだある気がする。

「手段が目的化する」という言葉に、人生史上最大でピンときた

例えば読書感想文。「原稿用紙2枚書いて提出しなさい」とだけ言われると、感想を書くこと以外に「2枚書く」というノルマが急浮上する。
例えば卒業論文。2万字とか4万字とか言われると、「大事なことだから何度でも言います」みたいな瞬間が増えるのだろう。

「感動した。良かった。」だけの文章にならないように、本を読み込めば、2枚分の感想は出てくる。
単位を出す為には、ある程度の調査や研究が必要で、それを担保する文字数が2万字もしくは4万字である。
枚数や字数の設定には、おそらく背景がある(と思う)。でもその背景は説明されないから、数だけが目立つ。すると、文章は冗長になるし、抽象的な文章で膨らませもする。

「手段が目的化する」という言葉に、正直あまりピンときていないことが多かった。けれど、今ほどこの言葉に納得ができたことはない。人生史上最大に腹落ちしている。

橋口さんは「みんなが長い変な文を書くきっかけは、就職活動だと思う」と言われていた。けれど、その前後にも同じような要素があるのかもしれないと考えた。

「察する文化」と言うけれど

小学生の時に書く読書感想文はともかくとして。大学の卒業論文なんかは、本当なら字数設定の背景を察することができると良い。課題を出す側と出される側で、どこか食い違いがあるのかもしれない。
橋口さんが「丁寧マウンティング」で例示されたメールも、もしかしてそういう食い違いがある・・・・・・?と感じた。

メールを出した側は、丁寧に理由や背景を文章にすることで、「結果は察してほしいです」。メールを受けた橋口さんは、背景は察することもできるから、「結果は明確に知りたい」。
気遣いができるほど、「察する」ところに違いがあると、文章がどんどんかけ離れた方向に行ってしまうのだろう。

「卑屈語」と言われたが、ものすごく上手いなと思ってしまった。自分も、ネガティブな話題ほど取り繕ったような表現を重ねる。保険をかけるかのように「ご相談させてください」を多用する。

「察する文化」とはよく言うけれど、「察する」がいきすぎたり違ったりすれば、まあまあ問題だな。良い意味で心にゆとりを、嫌われてもいいくらいの気持ちでやっていこう。


橋口さんの講義を受けて、過去の自分を振り返ることができた。書く技術を学んだのだから、これからは技術を叩き込んで自分を向上させることが大事。
橋口さん、本当にありがとうございました!

・・・・・・まぁ最後まで書いて、問題があるとすれば。
「これ言葉ダイエットしたら、きっと文章量は半分になるんだろうな」ということなんですけど。

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