Kei N.

都内在住29歳。日々の煩わしさと愛おしさについて。

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  • 詩|余白

    日常の断片と抽象的なイメージと、その余白。

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    エッセイ『人は苦手、だけど人が好き』過去投稿の中で人気の記事をまとめました。

  • エッセイ|人は苦手、だけど人が好き

    静かな憂鬱とプラトニックな希望を行ったり来たりする日々の、世界滅びないかなぁと思った昨日と誰かのふとした言葉に救われてしまった今日の話。

最近の記事

|あすも、あさっても

誰でもなくて誰でもあるような ありふれた日常に溺れて またねと手を振る頬に差すは 白んだ夕日と仄かな憂鬱 君の声はどんな風だったか 柔らかい癖毛のふわふわが懐かしい 変わらないものはひとつもないなんてことを 納得している人はどれだけいるのだろう 零れ落ちる虚飾に怯えて 明日もまたプラトンの美しい嘘を塗り重ねていく 明後日も、明明後日も 玉虫色の世界を ただ、ひたすら真白に

    • |うたた寝

      いつの間にか眠ってしまっていたみたいだった 甘ったるい嘘とほろ苦い優しさの香りに 微睡みの輪郭をそっと優しく撫でられて ふいに目が覚めた夕暮れ ティラミスみたいで美味しそう 君の薄い紫色の声が耳の奥の方を 微かに引っ掻いている ティラミスだったらよかったのにね 薄暮の湿度が皮膚と溶け合う 終ぞ、僕の嘘を君が知ることはなかった 君の嘘をもはや僕が知ることはないのと ちょうど同じように

      • 選んできたことと、選ばされてきたこと

        「人生は選択の連続だ」とシェイクスピアは言ったらしい。 今までの人生における選択を振り返ってみる。僕は一つひとつの選択を自律的に選んできただろうか。すべてが能動性の帰結と言えてしまえるだろうか。選んできたとも言えるし、選ばれてきたとも言える。選ばされてきたとも言えるかもしれない。 自律と他律のあわいを考える。 先日、豪徳寺のワインバーで友人と昼過ぎからゆっくり飲んで話した帰り道、通りがかりにふと気になって下北沢のギャラリーに立ち寄った。 そこでは東京を拠点とする小田倉

        • |真昼へ

          君が2番線ホームに飛び込んだ夏を 今年も僕は喪服で過ごす 円環するはじめましてとさようなら 回帰するアポロンとディオニュソス どうしたい? と聞いてみる明け六つ よし、もう一度 と君が言った真昼

        |あすも、あさっても

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        • 詩|余白
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        • エッセイ|人は苦手、だけど人が好き
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          |相槌

          あと一口残った白ワイン パイナップルと、なんとかっていうチーズ 言わなかった言葉 握れない手 視線 ただ うん とだけ 相槌は時々、祈りによく似ていた 改札を通って振り返る さよならの残り香はもうない ひとり電車にゆられて

          |相槌

          詩を初めて読んだときのこと

          詩を初めて読んだときのことを覚えている あれはそうだ、まだ10代の頃 ぼんやりと家族がバラバラになっていて ぼんやりと将来への不安を抱えていて なんにでもなれるような気がしていたし なににもなれずに終えていく気もしていて 誰もわかってくれない、と嘆いて 誰か話を聞いてくれ、といじける 思春期真っ盛りの頃の僕は 部活をサボって、生徒会室でちょっと寝て、 学校の帰り道にあるイオンの本屋で ぶらぶらと3時間も4時間も暇を持て余していた そんなとき、初めての詩集に出会った

          詩を初めて読んだときのこと

          |自由

          これまでとは違う言語で話をしよう 翻訳する必要のない対話を紡いで 意味を持たない音素を繋ぐ 時間にも空間にも囚われない 彼ではなく彼女でもない人達と 湖の底にあるスーパーマーケットに陳列された 非線形(ノンリニア)な未来を横目に泳ぐ そうして、ゆらりと沈んでいく 弱いサピア=ウォーフは 認知ではなく可能性を規定していて その向こうには自由が在った 論理空間を嚥下して 可能性の総体としての自由へと 深く、潜る 魚

          |自由

          |きこえる音、とどかない言葉

          わからない たぶん、とどいていない きいている たぶん、きこえていない ふたりの間にはなかったはずの 静かな川に、ひやりとする 僕は翻訳可能性に眩暈がして へたくそに口角をあげた

          |きこえる音、とどかない言葉

          29

          そういえば先月、29歳になった 今年は20代最後の1年となる 孔子は言ったそうだ「三十にして立つ」 これからどうしたい?どうなりたい? なにをしたくて、なにをしたくない? 休みの日の夕方 暮れはじめた西の空をぼんやり眺めながら ふるさと納税で届いたジャパニーズワインを ひとり空けて ふわふわした頭で やけに大きく響く鼓動を静かに感じながら 何度も自分自身に問うてみる いまは夜も更けて21:22 当然、簡単には答えはでない (酔ってるし) 考えるたびに違う答えが出

          点と点を繋ぐように

          先日、お客様と施術中にお話をしていて なるほど、と今まで見ていた景色が ふと拓けた瞬間があった 「名探偵コナンってラブコメなんですよ」 主題歌のイントロを聴いただけで どの映画版のバージョンなのか当てられるという とんでもない特技(これはもはや才能)をお持ちの コナン好きのお客様はそう言って笑っていた 毎年この時期になると映画が公開されて もはや春の風物詩ともいえる『名探偵コナン』 この日本で詳しくはなくとも知らない人は いないのではないか、というほどの 認知度を誇る

          点と点を繋ぐように

          待ち合わせは

          朝、いつもより少し早い時間の電車に乗る ちょうど2方向に分岐した丸の内線が 1本に合流する最寄駅 5分違うだけで発車駅が違う車両が来るので いつもより少し早い時間の電車は 目算で乗車率115%ほど いつもの余裕のある車内と打って変わって ぎゅうぎゅうに混んでいた 寿司詰めにされた車内の中程には ベビーカーを畳んでグズる子供を抱き抱える お母さんがいて 「すみません、すみません...」と 人1.5人分とベビーカーを合わせた体積を 謝った回数分減らせることを信じているよ

          待ち合わせは

          自由に生きたい、と人は言うけれど

          「自由に生きたい」ということを 今までたくさん読んで、観て、出会ってきた フィクションの中の登場人物たちは言っていた 彼ら、彼女らの背中を追いかける どう考えてもたくさんのものに拘束されていて 朝、出勤する反対方向の電車に急に飛び乗ったり なんて到底できる気もしない僕たちは 「自由に働きたい」ということを 合言葉のように夜な夜な口ずさんでいる 自由ってなんだろう 会社に縛られたくない、依存したくない "頑張ればできるけど、とても疲れること" "頑張ってもできないこと

          自由に生きたい、と人は言うけれど

          健康的に生きる

          「simple is the best」 どこで知った言葉なのかも だれが言っていた言葉なのかも知らないけれど なぜか、だれもが知っているこの格言 シンプルこそが至上のものである 無駄を削ぎ落としたものにこそ 最上の洗練が宿る 本当にそうだろうか? そんな問いに出会ってしまった最近の話 ここ最近は建築がおもしろいなあ、なんて思って 建築史について勉強してみたり 都内の有名な建築を少しずつ観に行ってみたり しながら新しい趣味に肌を馴染ませている そんな今日この頃

          健康的に生きる

          なにをするかで世界と繋がる

          さいきん、納富信留さんの著書 『プラトン 理想国の現在』を読んでいて 現代人がプラトン哲学(主に主著『国家』)を 読む意義とは、みたいな問いに対して あーでもない、こーでもない、と考えていた 基本的人権という概念、 法治国家というシステム、民主主義という思想、 そしてそれらをうまく乗りこなせない人類、 そんな時代に"理想"を語るプラトンが果たす 役割とは... そんな、明確で簡潔な結論のないことと 今夜の献立はなににしよっかな、ということを 交代交代で考えながら電車に乗っ

          なにをするかで世界と繋がる

          ピッチャーであり、同時にバッターであるような矛盾

          さいきん建築に興味がわいてきて 建築史について勉強してみているときに モダニズム建築が抱える哲学的な問いに出会った 『建築は"自律的"であるべきなのか』 形而上学的な領域で 解像度荒く、ぼんやり薄目で概念を眺めると どうやら建築は哲学的で、哲学は建築的らしい ここでいう"自律的"というのは 18世紀ドイツの哲学者カントの哲学に 由来していて、とても小難しくて抽象的なので ふにゃふにゃにほどいて溶かして言い換えると "0→1"をしているか、ということ 別々のコミュニティ

          ピッチャーであり、同時にバッターであるような矛盾

          依存してしまう私たちへ

          なにかとか、だれかに依存してしまうことって 悪いことなのだろうか したくなくてもしてしまう人にとっては それはきっと苦しく、忌むべきことで したくてもできない人にとっては たぶん羨ましくて、少しだけ悲しいこと 依存の善悪と人の在り方のバランスは とてもぐらぐらしていて難しいと思う たった1人だけで生きていては 主体も他者も、存在も非存在も なにもかにも分からなくなってしまう ちっぽけで寂しがりやで群生生物的な 存在の在り方しか表象しえない僕たちは どうしたって、どこ

          依存してしまう私たちへ