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あなたにしかできないことを

どうすればいいんだろう、と立ち尽くしてしまうときがある。

あっちでは戦争が起こっていて、あそこでは不理解と不寛容が差別を生んでいる。こっちでは今年も教育を受けられない子どもが生まれていて、ここでは今日もあの人が一人部屋の中で泣いている。

どうすればいいんだろう。意識的にニュースのインプット量を制限しないと日常がままならない。

ほぼ一党独裁の国では首相をテロリストに銃殺された第一党の党首を決めるお祭りごとにコメンテーターがやいのやいの言い、顔のない投稿者たちがそれに対してやいのやいの言っている。子育てをしている友人はニューロダイバーシティーという言葉を聞いたこともない。

どうすればいいんだろう。自分自身の感覚と感情の波に飲み込まれてしまう。

なにをすればいいのかわからない。というより、なにから手をつけていけばいいのかわからない。今このnoteを書いている瞬間にもあの人は泣いていて、彼女の涙の滴を受け止めているうちにも彼が泣いている。

人間社会の歪みは穴の空いた花瓶みたいだ。水を注いでも注いでも満たされない。注がなかったら注がなかったで花は枯れてしまう。穴を塞いでみても目の届かないところに別の穴が空いている。
それなら、いっそ、花を、、、。


そうやって、考えても仕方のないこと、思い悩んでもどうしようもないことを考えてしまう夜がある。寝ても寝ても寝た気がしなくて、現と夢が地続きに何度も同じ思念を巡ってしまっていると気づく朝がある。

そういう気分ってたまにある。日常生活を過ごしていて情緒的な振れ幅はほとんどないので感情面で不安定になったり波風が立ったりすることはないのだけれど、なんだろう、こういう世界に対する感受性みたいなものはもはや自身のバイオリズムだと思っているから、定期的にこういう気分になることがある。

考えすぎだと言われたり、繊細だと揶揄されることがあるけれど、生まれ持った気質だから仕様がないとも思っている。上手く付き合っていくしかないのだ。むしろ感じないで生きられる人が羨ましいくらいに感じさえする。


そんな気分になってしまうとき、立ち尽くしてどすればいいのかわからなくなってしまうとき、僕には思い出す哲学がある。それは、哲学者であると同時に真宗の僧侶でもあった清沢満之(1863-1903)の超越思想と呼ばれるものだ。

彼はコスモロジーに立つという万物一体・宇宙有機体説でこう語っている。

有限無限同体なりと雖も、一個の有限は、無限と同体たる能はず。乃至百千万の有限も、無限と同体たる能はず。唯だ無数の有限相寄りて、始めて無限と同一体たるを得べきのみ。故に有限は無数ならざるべからず。無数の有限は、相寄りて、無限の一体を成す。其の状態を有機組織と云ふ。

『宗教哲学骸骨』

文語だからちょっと読み難いと思うけれど、哲学において「正しい言葉で正しく思考する」ことはとても大事なことなのでがんばって読んでみてほしい。

これは誤解を恐れず簡単に言うと、要するに有限のもの(僕たち人間)が無限のもの(阿弥陀如来、真如、つまり神や真実※仏教的世界観における)と同じである、という思想のメカニズムを「有機組織」という概念で説明しているものだ。

この有限のものの総体としての無限の在り方「有機組織」は言い方を変えれば以下のようにも表現されうる。

真如也。実相也。法性也。法爾也。必然也。自然也。道也。本体也。勢力也。不可知的也。不可思議的也。絶対也。神也。天帝也。阿弥陀仏也。本願力也。仏智不思議也。皆是他力也。無限也。大悲也。

『臓扇記』

ここにひとつの仏教哲学の本質がみられるのだと個人的には思う。そして、これは遡ればバラモン教ウパニシャッド哲学における「梵我一如」(宇宙の根本原理であるブラフマン(梵)と個人の主体であるアートマン(我)とが同一であるという考え方)にそのルーツがあるようにも思える。フラクタル構造(微少な部分と全体の部分とが相似している図形)みたいなものだ。一部が全部で、全部が一部。

一応付言しておくと、清沢満之の思想は如来蔵思想(実際に覚を得るための実践として苦行を強調する思想)の派閥なので、大胆かつ弛緩した現実肯定主義としてよく批判される本覚思想(単なる内在的可能性ではなく「現実に覚りをひらいている」という意味で修行の必要性を否定する思想)とは別物だ。


なにはともあれ、そんな"有限な一"を無限を形作る総体の一部としてみる哲学・思想は、僕自身の在り方や世界との関わり方を後押ししてくれている気がしている。

人間は「有機組織」というひとつの総体とも言える。僕にできないことは確かに沢山ある。僕の腕はたった2本しかなくて、1日の時間は24時間きっかりで、持てるハサミは1本だけだ。一生は(ほんとは300歳くらいまで生きるつもりだけどここでは一応)100年かそこらだ(と言っておこう文脈的に)。直接抱きしめられる人の数は統計学的にみれば150人くらいしかいない。

この限られた貧弱なリソースに絶望して立ち尽くしてしまうことがあるけれど、それでもいいのだと、清沢満之にそう言われている気がする。

そんな、直接には150人しか幸せにできない自閉した生き物は世界に70億人いて、最大多数の最大幸福の総体のキャパシティは1兆500億人分ある。現実はこんな単純計算ではいかないだろうけれど、それでも僕たちは自分自身の関心領域に誠実に向き合うこと、まずはそれを真摯にすればいいのだ。

僕は僕の、あなたはあなたのベストを尽くせばいい。あの戦争について悲惨な現状を変えたいと願う人もいれば、あのマイノリティに不遇な制度を変えたいという人もいる。大切な人の涙を止めたいと願う人もいる。

人には、たぶん役割がある。その役割に貴賎はないし多分に種々様々で、それが仕事で社会に参画することでもあれば、学問で世界に問うことでもあり、家庭で家族に愛を伝えることでもあるのだろう。そうやって各々が各々のフィールドでベストを尽くすことが「有機組織」という総体としての人類の在るべき姿なのかもしれない。


そして、最後に大切なことがひとつ。

ちらっと上記した如来蔵思想と本覚思想。これは好みの問題かもしれないし、それぞれにそれぞれの主義主張があって(僕は僕なりにそれぞれを理論的には理解しているつもりだ)、そこに本質の相対的な優劣はなく現象としての適不適があるだけだとは思うけれど、そうだとしても僕個人としては如来蔵思想に惹かれているのも事実だ。

弛緩した現状肯定がいいとは思わない。在るべき形で在るべきベストを尽くすという姿勢は、中世でも近世でも近代でもなく"現代"社会を生きる僕たちの責任だと思う。

ベストを尽くせ。役割を果たせ。そう世界に問われている。

ベストってどこにあるんだろう。役割ってなんだろう。そう自分に問うてみる。

僕にできないことを、彼ら彼女らはやってくれている。そうだとしたら、僕にしかできないこと、あなたにしかできないことってなんだろう。

まずはそれから始めよう。
きっとそこからしか始まらないのかもしれない。

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