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選んできたことと、選ばされてきたこと


「人生は選択の連続だ」とシェイクスピアは言ったらしい。

今までの人生における選択を振り返ってみる。僕は一つひとつの選択を自律的に選んできただろうか。すべてが能動性の帰結と言えてしまえるだろうか。選んできたとも言えるし、選ばれてきたとも言える。選ばされてきたとも言えるかもしれない。

自律と他律のあわいを考える。

先日、豪徳寺のワインバーで友人と昼過ぎからゆっくり飲んで話した帰り道、通りがかりにふと気になって下北沢のギャラリーに立ち寄った。

そこでは東京を拠点とする小田倉瑠菜さんという作家さんの「たしかめる風」という個展が開催されていて、ちょうどよくご本人も在廊されていた。

ここ最近、クリエイティビティ("ものづくり"よりも広義なアウトプット全般という意味で)やその源泉、そしてその人の極私的かつ個別具体的な体験、感覚にとても興味があって、自分自身のインプットとアウトプットについても改めて考え直していた今日この頃だったので、たくさん興味深い話を聞かせてもらえた。

そんな会話の中で、なるほどなあ、、と唸ってしまうような感覚、問いを一歩進めるような気づきに出会う。

それは、シャッターを切るときの主体的体験、世界を切り取る瞬間の閃き、判断について話していたときのこと。


「『ぼーん』という感じがあるんです」

と小田倉さんは言っていた。これだ!という被写体やモチーフ、構図に出会ったとき頭の中で『ぼーん』という感覚があるらしい。

そんな風に『ぼーん』という極私的で抽象的な感覚を捉えたとき、またその感覚に捉われたときにシャッターを切った作品が個展にはいくつかあった。

それは例えば雲が掛かる澄んだ青空だったり、歩いているときに見つけた建物や色や枯れ草だったり。それはどれも特別ではなく個別的な日常にあるような、美しくて感性的な風景だった。

それらの美しい写真を眺めながら、彼女は撮ったのだろうか、それとも撮らされたのだろうか、なんてことをぼんやり考える。

美のイデアをレンズの向こう側に観照した感覚が『ぼーん』という心鐘を鳴らしたのか、それとも『ぼーん』は世界からの呼びかけと彼女のシャッターによる応答という相関関係なのか。

もしかしたらどちらでもあって、どちらでもないのかもしれない。それは自律と他律のあわい(間)にあるような、世界と世界-内-存在である人の実存が有機的かつ即時相関的に繋がった瞬間だったのかもしれない。

そして同時に、どちらでもいいのかもしれないとも思う。
それらのことがどうでもよくなるくらい、小田倉さんの撮った写真はどれも美しかった。



せっかくなので、自律性と他律性についてもう少し考えを深めてみる。

少し前に、メディア的身体論についての本を読んでいたとき「身体の受苦性」について論じられていて、おもしろいなあと思ったことがあった。要するに、身体とは苦(刺激)を受けることが始源となり初めて認知が始まるという受動性が根本にある、ということだった。

"受苦"というのは本来、宗教的な由来のある語彙だと僕は解釈をしているけれど、本質的には宗教学であろうと認知科学であろうと、また芸術的なクリエイティブ、アウトプットであろうと、人の実存的自律については相対として否定的で、根本的には受動的な性質を本質に見ているということなのかもしれない。

つまり、万物の霊長なんて吹聴しているご立派なホモサピエンスである僕たちは独立独歩で自立してすべてを認知し存在しているのではなく、環世界の中でとても環境依存的に存在しているということ。

詩人が書いたエッセイを読んでいると「言葉に書かされている感覚がある」という表現をよく目にする。アート界隈ではよく言われることではある。
それは方便的な、よくある修辞技法くらいにしか思っていなかったけれど、もしかしたらそんな感覚にも近いものなのかもしれない。

環境、他者などの外部からの刺激によって存在が成り立っているという、ある意味サルトルが言っていた通り「存在は無である」(実存は世界に投企されることによって初めて"現実存在"足り得る)ということなのかもしれない。


そんなこんなで色々と思考は巡って、改めて冒頭の問いに立ち返る。

僕たちの選択(もっと言うと行為全般)には自律性、自由意志はあるのだろうか。
これまで選んできたこと、もの、ひと、仕事や人間関係、生き方について、これから選んでいくものについて、どのように捉えていったらいいのだろう。

いま僕の中には、これからもすべて"選んでいく"という意志的な情熱もあれば、これまでと同様にすべて"選ばれていく"という受苦的な諦観もある。
そんな自律と他律のあわいが今のところの現在地点だ。寄せては引いていく波打ち際のように曖昧な境界線。

すべてが自分だけの実力と努力の帰結だという傲慢的な世界観ではなく、すべてが皆様のお陰様で自分が世界に為し得ることなんて本質的に一つもないという厭世的な世界観でもない。そんなあわいの感覚。

僕は生きているし、生かされている。

演繹的因果論ではなく、帰納的目的論でもない。誠実に、謙虚に。そうやってこれからも選択をしていくのだろう。

大切なのは、たぶん"撮っているし、撮らされている"という世界と自分の相関的な関係性を自覚的に見つめ続けること。そのインプットとアウトプットを循環、円環させて螺旋階段的に前に、前に、上に、上に歩んでいくことなのかもしれない。


ふらりと個展に立ち寄って素敵な出会いがあった夜、そんなことを考えたりした。


自由ってなんだろう、ということを最近ずっと考えている。いつまで経っても明確な答えは出ないけれど、考えれば考える程に、新しい問いに出会えば出会う程に、実は少しずつ何かが軽くなっていっている感覚があったりもしている。

肩の荷が降りているのだろうか、それとも重力から少しずつ解放されちゃったりしているのだろうか。

そうだとしたら、たぶんもう少しだ。
あともう少しで、僕が大好きな人たちみたいに軽やかに、心地よく空を歩くように生きていけそうな気がしている。

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