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産まなければよかったと言う母親に、これからの知性の在り方を思う

30代目前ともなってくると、地元の友人知人や東京でも20代中頃で結婚した友人にちらほら子供ができていたりする。

同級生が車を運転しているのを助手席で眺めながら「うわぁなんだか大人〜」と思ったのと同じように、親になった友人が子供に向ける温かい眼差しを、その目も綾な横顔を見ていると「そっかぁ親になったんだね〜」と不意に涙ぐんでしまいそうになる。

"親になる"、"親である"ことって、ものごとの表象的に"そうなった"時点は確定できそうなものだけれど、その内実はたぶん少し違っていて。サルトルが『実存は本質に先立つ』と言ったようにこの世界では実存(何をしたか、現実にどう在っているか)は本質(中身がどうであるか)に関係なく先行して、それだけが他者に認知される。

要するに、大切なのは"本当はどうなのか"ではなく"現実にどうなのか"ということ。僕たちは内面の変化を待たずして、外面の在り方で世界と繋がっているということなのかもしれない。


ところで少し前に、オルナ・ドースト著『母親になって後悔している』という世界中でベストセラーになった本を読んだ。

"女性は母親になるべきであり、母親は幸せなものであるという社会常識の中で見過ごされてきた切実な想いに丁寧に寄り添った画期的な書"という触れ込みで、子供を愛してはいるがそれでも尚産まなかった人生を想ってしまう母親へのインタビューを中心として賛否両論を巻き起こした社会的ムーブメントをまとめた一冊だった。

僕は書店で初めてこの本を見たとき、咄嗟に本能的な嫌悪感を感じてしまったのだけれど、少し落ち着いて考えてみると、とても難しい問題だと思うし、この本が存在していることそのものの意義については多面的な見方ができるとも思う。


まず大前提として、この本の著者、インタビューを受けた人たち、そしてこの本を読んで深く感銘を受けた人、救われた思いがした人がいることを否定する気は毛頭ない。

現実の社会課題としてジェンダーやフェミニズムの問題についての格差を是正したり、本来あるべきバランスに調整していくアファーマティブアクション的なものは実務的にも社会実装されるべきだと思うし、思想的な局面でもある種、過激な言論が振り子運動のように左右に触れ続けることで少しずつ真ん中の重心点に社会の認知が帰着するというのは歴史的な再現性もある程度は認められていると言えるとも思う。


そういう話をぜーんぶ前提として、の話をここからはしたい。

この言論(「母親になって後悔している」)にはそういった社会的ムーブメントという側面もありつつ、人権意識(概念)の拡張(?)のような側面も個人的には感じている。

例えば、この言論のバックグラウンドには言論の自由であったり、個人の幸福追求権であったりが意識無意識を問わず水面下で希求されているともとれる(例えば「私たちには思っていたけど抑圧されて言えなかったことを言う権利がある!」のような)。17世紀頃ヨーロッパを皮切りに啓蒙思想(理性で社会をより良くしていこう!)によって「人権」という概念が創生されて以降、理性、言い換えれば科学的論理的整合性をベースに僕たちの社会は設計されていて、そこから200年ちょっとくらいで少しずつ少しずつアップデートされて今に至る。

参政権を見てみても、その概念はお金持ちの成人男性から資産に関係なく全男性になって、人種の壁を越え、女性にまで少しずつ拡張されていった。

それはとても論理的で、左脳的な営みだと思う。論理的に考えれば人は人種も性別も年齢も性的嗜好も関係なく平等で、論理的に正しければその社会ではそれは正義になる。


だけど、どうだろうか。この左脳的な営みは諸刃の剣でもあるような気がしてならない。

個人が意見を表明することに何か(例えば国家)の介入があってはいけない。誰もが自分自身の意見を尊重されて、表明する言論の自由を近代以降の人類は認められている。

論理的に考えて、"理性がそう言っている"。

※一応付言しておくと、『啓蒙主義』というものの"理性的"という感覚は人間に都合のいい"理性的"ではなく、実際の啓蒙主義者は『私ではなく、"理性"が考えている』と捉えていたと言われている。これは現代の理神論(理性的なものを人間の範疇というよりも絶対的な神的なものとして信仰するもの)にも繋がっている。


だけど、少し思い返してみれば、数年前に物議を醸した『表現の不自由展』などが記憶に新しく、僕はこの一連の騒動に対しては賛成でも反対でもないけれど、人権という理性の問題と社会や個人の倫理観の問題は切っても切り離せないほど深く根っこの部分で繋がってしまっている問題だといえる。

『母親になって後悔している』も似たような構図の問題だと思う。母親個人の人権を理性的に承認するのであればこの言論や本の出版は何ら非難されるべきものではない。
だけど、この本が本能的に嫌悪感を感じさせるのは、それが倫理観の問題だからなのだろう。

もちろん倫理観というのは相対的であって、時代や社会に規定されるものなのでア・プリオリ(所与の/先験的な)なものではないけれど、僕たちが生きるこの現代社会の倫理観においては、

「そんなこと言っちゃだめじゃない...?」

個人的な意見を言わせらもらえるとすれば、素朴にもそんな風に思う。


それは正直、極私的な体験から影響しているフラットではない偏った意見だとも思っている。僕は小学生の頃、母親に「産まなければよかった」と言われ、それだけが問題では決してないけれど、それが親という概念に向き合う時のトラウマの一つになっているように思う。
自分自身が大人になって思い返すと、あの頃は彼女は彼女で大変なことが沢山あって、迷惑もかけてしまったのだろうなあなんて思ったりもするけれど、そうであったとしても子供心に死を真剣に考えてしまうほどに衝撃的な出来事として、今でもはっきりと覚えている。

僕自身が家族が大好きだったから、というのももちろんあるとは思うけれど、それを差し引いても親から「産まなければよかった」と言われた子供はどう思うだろうか。さっぱりと忘れて気にしないでいられる人も一定数いるかもしれないが、その一言だけで人生が狂ってしまう子供も必ずいるはずだ。

子育ての経験はないけれど、子供がとても柔らかくて、大人の不用意な一言で人生が変わってしまうことがあることくらいは知っているつもりだ。

あの本を、インタビューされた母親の子供が物心ついた頃に目にしたら、どう思うのだろうか。



世界は、社会は一方ではどんどん左脳化(理性を重視)しているように感じる。上述した人権意識の拡張はほんの小さな一例で、日本社会だけでも論破ゲームや言語化ハラスメントが横行しているし、対局を見ればEUを旗頭にしたSDGsやESG投資などがその最たる例とも言える。

しかし一方で、SNSや消費社会(主に広告業界など)はどんどん右脳化(感情を重視)しているようにも感じる。人の生理的な報酬体系を完全に熟知し、感情に、本能に直接語りかけるようなプラットフォームやコピーライティング、プロダクトブランディングが街中を席巻している。

そうやって左と右が拡大していくそのせめぎ合いの中間地点が、例えば年収800万以上は幸福度が変わらない問題(理性で承認欲求や競争意識を抑えられるのか)や行動経済学は科学ではない議論(心理作用によって実際の購買行動は左右されるというのは"科学的に"実証され得るのか)、そして子供に「産まなければよかった」と言う親は人権思想のみを俎上に載せてその言論は容認されうるのか、という問題なのかもしれない。


世界を見渡すと、上述したのはごく一部で、個人的には多面的にある諸要素の一側面として左脳化と右脳化のせめぎ合いのような事象がいくつも見受けられるように思える。


そんな中で、これから世界はどうなっていくのだろう、なんてことをふとした時に考える。

右脳化して見えるのはテクノロジーの一契機であるSNSの発展や資本主義社会の経済合理性の暴走でもあるから、それぞれがそれぞれのタイミングでパラダイムシフトを起こさざるを得ない局面を迎えると予想もできるので、こちらは悲観しすぎなくてもいいかもしれないけれど、左脳化がいきすぎた未来では僕たちは笑っているのだろうか。

論理的に、理性を用いて考えれば、ターミネーター的な世界線も容易に想定できてしまう。この地球全体の生命の最大多数の最大幸福にとっては人類の存在はどう甘く見積もっても、サービスタイムでポイント100倍を6回くらい繰り返しても、みじんこ1匹分の価値もない。
「アベンジャーズ」のラスボス、サノスみたいに指パッチン?で無作為に一定数の人類を減らしてみてもいい。

理性的に考えれば、身体みたいな不可逆不可塑的な燃費の悪いハードウェアなんて捨ててしまって(6時間くらい本読んでるだけで腰も首もバキバキになって、目も焦点がうまく合わなくなるような脆弱で不完全なシステムだ)、脳だけ電極に繋いで快楽ホルモンを担う中枢を程よく刺激してもらいながら、粗雑な人間関係から卒業して人類の積み重ねた叡智や極上の物語たちと永遠に向き合っている方がなかなかに有意義だ。

狂気の哲学者ベンサムよろしく、これらに快楽計算とやらで最大多数の最大幸福の選択を弾き出してみたらいい。きっと今よりもっとクレイジーで陳腐なSF世界に導かれるだろう。(上述したのはテキトーに書いたifストーリーだけど)


だけど、そうではない。そんなことはわかりきっている。

そもそも全ての概念に快楽という相対的で捉えにくい数値を合理的に当てはめるのには無理があるというのは功利主義批判では再三再四議論されてきたことだし、僕たちはすべての始まりの時点で非理性的非論理的なもの(「人類滅ぼすのはなし」、あるいは「人と人との身体の繋がりって温かくて心地いいよね」など)を前提として世界を築いているのだから、その本来のスタンスを見つめ直すときが来ているのだと思う。

理性的である、論理的であることがいつでもどこでも正しい振る舞いではない。論破ゲームや言語化ハラスメントはほどほどにして、改めて人の『知性』について最近は考えたりしてみている。

啓蒙主義をはじめ近代哲学の理性信仰は『知性』=「理性」であるというしがらみを生み出してしまった。それは一方では歴史的に類を見ないほどに圧倒的な経済的発展を成し遂げたけれど、もう一方では僕たち現代人はその暴走する壊れた車輪を止める術を知らないのかもしれない。


『知性』はもっと広い概念だと思う。理性だけでは語り尽くせないほど、もっと広くてもっと自由な気がしている。

そんな問いに、個人的なタイミングも相まって、ここ最近は向き合ってみている。

その中間地点である今の結論はここで語るには、フェルマーよろしく余白が足りていないので(ここまでで既に4000文字いっちゃってる...)、また日を改めて書いてみたいと思う。

世界はいま奇しくもテクノロジーのおかげさまで、個人のアイデンティティや幸福が多様化しているし、さらには自己決定権の裁量が歴史上最大値まで引き上げられている。

僕たちはいま、歴史上類を見ないほどに自由に人生を、幸せを選べる時代に生きている。

そんな時代だからこそ『知性』が、その概念の内実と外縁を論理的にも身体知的にも理解することが、そのまま個人の幸福や自己肯定感、自己愛とひいては他者愛に繋がっていくような大切なものになっていくのかもしれない、なんて思っている。

時代は今も先へ先へと進んでいる。思考のOSは古いものがついにガタが来はじめていて、気づいている人から新しいOSへとアップデートを目論んでいる。

こんなときこそ、そうだ。
当たり前を問う、哲学の出番だ。


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