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"する"ということ、"在る"ということ

7/7(日)東京都知事選、巷では『七夕首都決戦』なんて銘打たれてお祭り騒ぎになっている。
選挙公報やまとめサイト、YouTubeで候補者の動画を漁り、「"彼"に東京都政を託してみたい」なんて自分の考えがぼんやりまとまりつつあったところで、

朝、いつもより少しだけ濃いめに淹れた珈琲を飲みながら、期日前投票の用紙を手にふと考える。

ある意味、西洋哲学の集大成とも言えるフランスの実存主義哲学者ジャン=ポール・サルトル(仏: Jean-Paul Sartre1905-1980)は(個人的な解釈だけど)確かこんなことを言っていた。

『実存とは、世界に投企されてはじめて現実存在たり得る』

著書「存在と無」の"無"、つまり"存在とは無である"とはどういうことかというと、僕たちの存在というのは世界に向けて行為をしてはじめて存在するのであって、行為をしていない存在は実存(現実存在)ではない、ということを意味している。

誤解を恐れずに言うと、サルトルは僕たちの「行為」の重要性を説いた哲学者だとも言える。

何を考えているかではなく、何をするかで世界と繋がる。サルトルの実存主義とはそんな哲学だ。

彼に言わせてみれば、"する"ということは、"在る"ということに唯一必要な条件なのかもしれない。


そういえば、前に付き合っていた人が「私はほんとはもっと素直で、わがままじゃなくて、いい子なの!」って言っていて、そうなんだねえと思った反面、そんなこと言ってなんの意味があるんだろうって素朴に思ってしまったことがあった。

"あの人、ほんとは優しい人なんだよね"みたいなものに(実存の)本質的には意味はない。と思う。

世の中を(あるいは自分自身を)断罪したいわけではないけれど、この世界において意味があるのは"ほんとは優しい人"ではなく、ただ"人に優しくできる(している)人"だけなのかもしれない。なんて昔だめになってしまった人間関係(元恋人とは別の話)をふと思い出してしまい少しだけ憂鬱な気分になる。

この場合の「意味はない」は価値(value)の話ではなくて、倫理的(ethical),存在論的(ontological)な意味で、だ。"ほんとは優しい人"の優しさは、優しくできなかった時点では存在しなかったことと同じになる。
マルクス的な唯物論(社会や構造が人を規定する)の見方をすれば行為の責任は個人だけに背負えるものではないけれど、あくまで実存主義的に言えば行為の責任は絶対的に個人にある、とも考えられてしまう。「責任」って哲学的にもとても難しくてデリケートな問題だ。

ただサルトルに言わせてみれば、僕たちは"そうである現在"、"そうしている現在"の行為に実存主義的な責任を負わなくてはいけない。


ちょっと話は逸れたけれど、サルトルや実存主義者にしてみれば「政治に関心がある」ではなく「政治に参加している」ことのみが意味があることであり、それこそが世界に自らの実存を投企することであり、アンガージュマン(engagement)することなのだろう。

もちろん実存主義的な考え方がいつなんどきも正しいわけではない。価値判断や選択基準は色々あって、思考の立脚点や視座、パースペクティブを一点に傾倒せずにいくつか同時並列で使い分けながら、その都度状況やタイミング、TPOに合わせて自律的に選択するようなスキゾ的感性(浅田彰)をもつことが現代社会を生きる大人の嗜みの一つなのかもしれない。なんてことを社会の荒波に揉みくちゃにされてフリーランスに行き着いた20代最後の年になって思っている。


うーん、

ちょっと難しい話になったかもしれないけれど、今日言いたかったことは『選挙に行こうよってサルトルが言ってたよ』ということと、『優しく"在る"ということは、優しく"する"こと(だけ)なのかもしれない』ということ。

選挙に限らず、人間関係や社会に参画する上で「行為」の大切さを最近、痛切に感じている。

きれいな言葉だけ並べても意味はないし、"思ってても言わなかったこと"は相手にとっては"思ってなかったこと"と同じだし、優しくしてなければ優しくないのと同じだ。

当たり前?確かにそうかもしれないけれど、当たり前がいちばん有難いことを僕たちはよく知っている。当たり前を何度も問いなおすということが哲学という営みなのかもしれない。

今夜は期日前投票にいって"彼"に清き一票を投じて、美味しいナチュールワインでも買って帰ろう。

もちろん開栓は『七夕首都決戦』の開票後に。

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