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優しいとか強いとか自立とか他者とか、そういうことについて


フリーランス美容師が集う次世代型コミュニティーサロン・シェアサロンに在籍してもうすぐ1年になる。

正直、今まで関わってきたコミュニティーの中では格別に居心地が良い。それは属人的な要素(代表夫婦がほんとにめちゃ素敵、所属しているスタッフが良い人ばっかり)はもちろんあると思うけれど、システムや唯物論(社会が人を規定する思想)的な要素が深く関わっていると個人的には思う。
それは構造の問題でもある、というように感じていたりもする。

いまのサロンはそれぞれがリスペクトを以って関係性を築いている。今までのコミュニティーでは当たり前にあったような悪口陰口、派閥争いや人間関係の絶妙な機微、パワーバランスや、権威と権力の分岐と相克など、全くと言っていいほど感じられない。(僕が鈍感なだけ説は否定できないが、そうではない!とここでは主張させてほしい)

これまでの彼ら(彼女ら)に無くて、いまの彼ら(彼女ら)に有るものってなんだろう。

一応付言しておくと(付言が癖になってるなあ、敵を作りたくないという愚かな処世術かも)、今までのコミュニティーを否定して貴賤を語りたいのではない。再記しておくが、属人性の問いではなくてシステムの問いだと思っているからだ。


怒らないで聞いてほしい。哲学は暴力と最も遠い営みだ。怒りそうなら今は読むのをやめてほしい。


それでは続けよう。

ひとつ経験則として、所感として重要だと思えるのは「自立(自律)」という概念だ。
経済的自立、精神的自立、社会的自立...。なにかに(もしくは誰かに/会社に/システムにetc.)依存しないで自立(自律)的に生きるということは、社会に参画する上でも、あるいは他者と誠実な関係を結んでいく上でも、分水嶺となる重要な指標のひとつのように思える。

『優しく在る為には、強く在らなくてはいけない』

そんなことを社会人8年目、いや、引いては人生29年目にして、痛切に実感させられているここ数年だ。

誰かに優しく在る為には、強さ(経済的、あるいは社会的、もしくは精神的な)が必要である。そんなことを近代経済の父、渋沢栄一も言っていた。「勝って、守るんだ」と。


それでは、"強い"ってなんだろう。

経済合理性の資本主義社会において、単純(かつ短絡的な)指標である年収が平均より高いことを意味するのだろうか。それとも社会的に尊敬されるようなポジション(社長、取締役、起業家、個人事業主etc.)で社会に影響を発揮しているということを意味するのだろうか。あるいは明確に数値化できない"徳"のようなものを精神の礎として、人格的に秀で、成熟していることを意味しているのだろうか。

そうではない。"強い"ってそういうことではない。と、ここ最近は思い始めている。

一度立ち止まって"弱い"ってなんだろう、なんて考えてみる。

ある概念(a)を定義するには「(a)ではないもの、ではないもの」という消極的な方法でしかものごとを定義できないという、シニフィアン/signifiantとシニフィエ/signifiéの恣意性について語ったのは言語学者ソシュールだった。

(強さ)を定義するには「(強さ)ではないもの=弱さ」を観照してみて初めて、概念としての「(強さ)=(弱さ)ではないもの」に至ることができるのということだ。

"弱さ"ってなんだろう。
少しずつ、概念の思惟に沈潜していく。

ここで僕がシェアサロンで働きながら経験則(ドクサ/doxa/δόξα)的に感じている「自立(自律)」の概念をひとつ導入してみるとすれば、それは「自立(自律)していない」つまり「依存している」という状態であると仮定できる。

「依存している」とは自分の実存(現実存在)を他者の存在に依っているということだ。

少し憚られる思想ではあるので大きな声では言えないけれど『誰かが居るから、強くなれる』という手垢にまみれた箴言には、正直に言うと僕はある程度距離を置いている。
あっけらかんに言うとすれば、それは"強さの定義"ではなく"弱さの否定"のように思えてしまうからだ。

強く在るとは決して『誰かが居るから、強くなれる』ではなくて、『ひとりで居ながら、弱く在り続けられる』ということだと思う。

自分の存在が弱さを予め孕んでいて、脆弱的(fragile)な存在であるということを正視して、受け入れて初めて、逆説的に強く在れるのではないだろうか。

建築家、青木淳さんが提唱している『フラジャイルコンセプト』という概念が僕は好きだ。ある意味では場当たり的で、逃げ道を用意している日和見で受動的な思想だという批判も想定されうるが、それは一方では芯を食っていて、本質的な在り方であるのではないかと思えるからだ。

『誰かが居るから、強く在れる』というのはそれはそれで美しい人類的な営みや在り方であると思っているので、根本を否定しているわけでは決してないのだけれど、メリットデメリットの損得勘定で人間関係を捉えているように思えてしまう節がある。

強く在る為には誰かが必要である、誰かは強く在る為に必要である、といった風に。

人が社会的な動物である以上は損得や実利的な効用(功利主義的な思想)で行為の意思決定をするということは否めないけれど、本当にそれでいいのだろうかという問いが頭の片隅で小さく、か細く、だけれども語彙麗しく淡々と囁き続けている。


僕たちにとって「他者」ってなんだろう。
損得勘定で判断するような、たんぱくでひんやりとした透明な存在なのだろうか。

いや、そうではない。

僕たちにとっての「他者」は常に既に「全き他者」であり、極彩色で轟音で、ありありとその存在と温度と湿度を感じざるをえないような、否が応なしに応答せざるをえないような、そんな存在ではないのだろうか。

それは損得勘定の問題ではない。デリダやレヴィナスが哲学したように、「応答可能性」や「責任」といった『倫理/Ethica』の問題なのだと思う。

デリダは言っていた。僕たちの存在は常に既に他者からの呼びかけによって成り立っていて、それには応答可能性の責任がある。正義とは、応答可能性への責任を果たすことである、と。

レヴィナスは言っていた。他者との関係は存在論に先立っていて、その倫理的基盤がなにより重要である、と。


要するに、僕たちは弱いから強く在る為に他者と一緒に居るのではない。"弱さ"や"強さ"という在り方の価値基準は他者との関係性において求めるべきものではなくて、それは自足されるべきもので(=『ひとりで居ながら、弱く在り続けられる』)、他者と関係するということはもっと倫理的な根本の在り方に関わっているということなのかもしれない。


他者との関係は本質的に倫理に根差している。

倫理に根差しているとは、「応答可能性」(『ねえ』に対して『うん』と応える在り方)と「責任」(『ねえ』の呼びかけは常に既に自分の『ねえ』の呼びかけの応答である)という、僕たちは関係の網の目に同時接続的に敷衍的に存在している、そうでしか存在しえないということでもあるのだろう。


強く在るために、あなたと居るのではない。

ただ在るために、在るがためにあなたと居る。あなたと居なければいけないのだ。


そうやって思考が発散的に巡っていくと、愛ってそういうことなのかもしれない。なんてことをふと思った。

ちょっと飛躍しているのかもしれないけれど、まあまあ、いまだいぶ日本酒を飲み明かしてこのnoteを書いているので多めに見てほしい。


存在の肯定。ただ在ることは常に既にただ応えることで、応えることによってのみでしか在ることはできない。

損得勘定ではない。そういえばフロムは『愛とは見返りを求めず、ただ与えることで充足する技術である』なんて言っていた。

ああ、そうか。そんなの出来るのかよ神さまなしに、なんて遠く思っていたフロムの面影が、その横顔が、酔って微睡むこの視界にぼんやり、いや確かに在り在りと感じられてくる。

勘違いかな、それでもいい。
だだ、今の感覚が心地良い。


強さとは。弱いってなんだろう。

自立、あるいは自律とは。

僕が今の今まで書いてきたことはとても左脳的な営みで、語彙の定義を巡る思索であり、哲学であると言えるのかもしれない。

言葉は僕らの思考に影響を与える。"弱い"サピア=ウォーフ仮説というやつだ。

だけど、そうだ。言葉は絶対ではない。ソシュールは言語の恣意性を哲学した、とさっき書いたじゃないか。ある概念(a=シニフィエ/signifié)と、ある言葉(a'=シニフィアン/signifiant)は必然的な繋がりはなく、たまたまランダムに繋がってしまっただけだ。

僕がやっていたのは言葉遊びだ。言語ゲームはほどほどにしなくてはいけない。


『『実存は本質に先立つ』』

サルトルの言葉が頭の中で何度も、なんどもリフレインする。僕たちに必要なのは本質(なにを考えているか)ではない。実存(なにをするか)だ。

わかってるよ、サルトル。世界と繋がるためには、世界に行為しなくちゃいけないんだ。考えているだけではだめだ。言葉を言語化して定義するだけでは僕の環世界に閉じこもって、安心安全に他者を排した円環の中で微睡んでいるようなものだ。

野に出よ。

行為せよ。

愛せよ。

自立(自律)せよ。

そうだね。そうしよう。

僕の実存は他者なしには実存足りえない。僕が在るのは、あなたが在るからだ。

どうもありがとう。
抱えきれないほどの感謝を言祝ぐ。

また明日。
今度はあなたの話を聴かせてほしい。

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