「論文とは、自分なりの読み方(解釈)を作りながら読むものである」
こんにちは!あいでんです。
先ほどまですごい雷でしたね。天変地異でも起こるんじゃないかと思うと、ぐっすり眠ってました。
それはさておき、本日も「会計学サマーセミナー in九州 2019」の運営のお手伝いとして1日を過ごしました。
ということでまたまた日記形式になってしまうことをご了承ください。
昨日の懇親会の話ではありますが次のようなお話を盗み聞きしました。
「論文は自分なりの読み方(解釈)を作りながら読むものだ、そのまま鵜呑みにしてはいけない」
こういう旨を仰っていたと記憶しています。
言われて見ると当たり前の話のようにも感じますが、頭の中がスッカラカンの私からすると「そういうものなのか」と。
でもよくよく考えてみると読書をしている時に似たようなことを実は誰しもやっていたりする(はず)。”自分なりの読み方(解釈)”みたいなものが生まれるからこそ理解できたり、それが深まったりするんじゃないかと思う。
ともすれば、手元に資料があるにも関わらず研究報告時間+質疑応答時間の間、何をいっているのか全くわからないのも”自分なりの読み方(解釈)”というものが存在していないからだと感じました。
つまり共通言語が存在していないので会話が成立するわけがないということです。
思えばよくある質問の方向性として「概念的部分の説明」を求める場合が多く、大抵はお互いの解釈をすり合わせていたことに気づく。
だから話している内容の方向性的なものはふわふわとしながらもわかっているのに何を話しているのかというのが全くわからんかったのかと。もちろんそれを構成するためのいろんな知識がないのが一番の要因であるわけですが。
そういえば、テスト期間も終わり採点が終了したことも関係あるのだろうけど、当大学の先生方が「概念の理解や定義ができていない」と嘆き(?)のような呟きを最近はよく見かけた。
おそらくそれは”単位”を取ることが目的になっているからだろうけど、それがいかに勿体無いことかをこういう場に参加させていただいたことで再確認した。
別に大学教授になろうなんて思っているわけでもないし、なれるとも思ってないけど、自分なりに”概念の理解や定義”ができるようになると「学ぶ(研究する)」ということがより面白くなるんだろうなと思う。
だからこそあんなに深い討論ができるし、深みのある面白い話ができるんだろうなと感じました。そしてそれが羨ましくもある。
これは当大学の商学部経営学科の学生たちであれば誰もが理解できることだとは思うが、1年次に「経営学総論(今は経営学入門?)」という鬼門がある。
2年間講義を受けたけど(1年次に単位取得できなかったので)、あれほど理解ができなかった講義はこの4年間で未だないだろうと思うし、もう二度と受けてたまるかと思うくらいには苦手意識がある。
当時は「なんてつまらない授業なんだ」というようなことを思っていたし、口にもしていたわけなんだけど、それはそれほど抽象的な話をしているからだろうと思う。
つまり、概念的な話をしていたからではないかと。
今では全くと言っていいほど記憶がないのでどういう講義内容だったか具体的なことは思い出せないが、今では少し楽しめるような気がする。
というよりも楽しめるような人間でありたいという希望的観測に近いけど(笑)。
以前のnoteを見返すとこんなことを書いていた。
テストを受けるのは正直なところめんどくさい側面もあるのですが、自分の理解度をその道のプロから直々に評価していただける機会でもあるので、実はかなり貴重だなと感じております。
4年生になってテストに”面白さ”を求めるようになりました。面白さといっても程よい難しさのことです。以前までは論述系は大嫌いで暗記系が大好物だったのですが、今は論述系が大好物で暗記系は残念に思うようになりました。
というのも、テスト勉強のとき以上に論述系のテストを受けているときの理解の深まり方というか、整理されるというか。とにかくあの60分の時間が好きになりました(笑)。
やっぱり自分は考えるのが好きなんだなと思いつつ、考えることを止めるようにはなりたくないと思いつつ、教授方が特に見返りを求めるわけでもなく懇切丁寧にご指導ご鞭撻いただけるこの期間を大切にしたいなと感じました。
やっぱり”学生の特権って素晴らしい”。
それでは、また次回!
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