ゼミ補講を終えて…


こんにちは!あいでんです。

今日は街で急に声をかけられました。それが中学自体の後輩だったのですが、よう気づいたなあと同時にそんな仲良かったけと疑問にも思ってしまいました(失礼)。

ちなみに目が悪い私は遠くから手を振られることと声をかけられるのがとても苦手で、たいていが無視してしまいがち。


▷はじめに


今日は後輩たちがゼミ補講でした。

福岡にもついに感染者が確認され、コロナウイルスに対する敏感度も上がってきている時期ではありますが、今後の重要な意思決定をするために安全に気をつけながら一堂に会しました。

重要な意思決定というのは数日後に控えている「台湾合宿(with 卒業旅行)」に行くかどうかの件です。


その意思決定をするために冒頭2時間は「事実」と「情報」を切り分けて、各グループでディスカッションを行い、意思決定に有用(必要)なエビデンスを収集しました。

結果的にどれくらいの人が行くのかは分かりませんが、とてもいい機会になったのでは無いかなあと思います。今日のnoteはその感想です。


▷ゼミ補講を終えて…


今回のグループワークはとても貴重だったなというのが個人的な感想です。

私自身、コロナウイルスについてはある程度調べているつもりでしたが、「事実」と「情報」に切り分けるということまでは意識していませんでした。

なので「事実」と「情報」が入り混じった状態です。


冒頭でファクトフルネスを例に出し、「人がどれだけ事実ではなく情報によって判断しがちなのか」という話がありました。

確かにこんな現代だからこそ情報はほぼ無限に手に入ると言っても過言では無いですが、それが事実であるかは全くの別問題です。そして、その事実が真実かどうかもまた別問題と言えるでしょう。


今回のグループワークでの重要なポイントは行く行かないの話ではなく、「それを決定するためのエビデンスが何によってもたらされているのか(挙証責任)」ということでした。

つまり、よくわからない曖昧な情報や他の誰かに任せるのではなく、自分の頭で考えましたか?という話だと理解しています。

では、自分の頭で考えるとは一体何なのか。


▷自分の頭で考えるとは…


これはゼミにお越しいただいた経営者の方の話と類似する点がありますが、私は「仮説と検証」だと考えています。「研究」と言い換えることもできるでしょうか。自分だけの「真実」を見出すための方法です。

仮説を立てるためには前提条件として「事実」と「情報」を切り分ける必要があります。情報もできるだけ一時情報の方が望ましい。

しかし、それだけでは真実には到底たどり着きません。


なぜならそれだけでは「わかること」と「わからないこと」に切り分けているだけでもあるからです。そのため、「事実」と「情報」をベースに仮説を立て、それを検証することでしか真実を炙り出す事はできません。

まさに卒論と同じことで、これこそが自分で考えるということだと私は理解しています。


ついついこういう時代なので自分が触れた情報が「事実」なのか「情報」なのかを切り分けず、そしてそれらがさも自分の考えかの様に誤認しがちだということに改めて気づかされました。

そして、いかに自分の頭で考えずに意思決定をしているのか、周りに振り回されているのかということにも改めて気づかされました。

そして、考えている様で考えてないんだなと。


コロナウイルスの騒動は色んなことを明るみにしている様にも思います。

「事実」なのか「情報」なのかを切り分けず自分の頭で考えていないからこそ、コロナウイルスを怖がっている割には対策が気薄だったり対応が不合理的なのでしょう。

もちろんそれらをやったところで感情的問題が解決されるのかという事は全くの別問題です。だからこそ人間は難しい。しかし、感情的問題を解決するために感情的部分のみに頼って判断してしまうというのは怖いことでもあります。


感情で判断するのと、感情的に判断するのは大きな違いです。前者は最終的エビデンスが感情であるというのに対し、後者はエビデンスからプロセスまで全てが感情だからです。その危うさについては前述の通りでしょう。

だからこそ「感情的になるな、論理的であれ」という教えにも繋がるのだなと気づかされました。


▷おまけ


3月の頭には自社主催のイベントを控えているのでコロナについては少し敏感な時期。もちろんこういう時期でもあるので敏感であることや万全を期すのは当然のことですが、自粛すべきムードみたいなのには少し違和感がありました。

週5の通勤通学やバイトや外出を辞めないのにイベントだけ辞めてもそんなに変わらないじゃないかと感じていたからです。手洗いうがい消毒にマスク等しか対策はできないわけだし、誰が菌を持っているのかわからない中で接触をゼロにするのは不可能。その点において他の病気と何ら変わらんし、しかるべき対策をしていれば十分では無いかと。

まあある種感情的問題でもあるのでしょう。日本はようわからんことに敏感ですし、イベントを中止するのも感染者がたまたま参加者の中にいただけで「あのイベントのせいだ」と袋叩きにされますからその対策と言えます。


それに、私自身こういうのには罹らない謎の自信があるのでマスクなどはなかなかしないタイプなのですが、対策をするのは他者のためでもあるということに気づきました。

例えば「我々が仮に台湾に合宿に行った際に、マスクもはめずに地下鉄をペチャクチャしているのは台湾人からしたらどう映る?私たちからすると中国人に置き換えてみるとわかりやすいよね」という話があった。

これは差別とか侮辱とかそういう意図は全く無いのだが、やはり直感的な判断というかそういう風に感じてしまうのは致し方のないことであり、これもある種の対策と言える。で、やはり我々が芳しく思わない様に、現地の人(他の人)も同じ様なことを感じるわけです。

パフォーマンスと言ってしまえばそれまでですが、そういう気遣いも大事なのだと気づかされましたし、この視点は完全に盲点でした。イベントを中止するのもそういう風に汲み取ることができます。


これまではポケーっとしていたコロナへの対応でしたが、一時情報に触れることや自分の頭で考えることなど、色んなことを考え直すいい機会になりました。


▷おわりに


最後に与太話を。

ゼミ補講後、今回お越しいただいたゼミOGの方とご飯に行ったのですが、ちょうど横の席のお客様がコロナなの話をしていました。その話がまさに情報に振り回されている様な話で、ちょうどゼミ補講後で敏感だったので少しふふふとなりました(馬鹿にしてるとかではなく)。

また、noteにこの様な表示も出る様になってまして書いてあることがまさにゼミ補講の内容だし、対応が適切だなあと。

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今日のゼミ補講って私からすれば本当はなかった場だし、なんかOVAっぽくていいなあとしみじみしていました。と、同時に来年度の話を聞きながら、もう卒業するんだなあと改めて切なくなってしまいました。

卒業式まで1ヶ月を切りましたし。終わりが近づいてきました。

それでは、また次回!


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