日常の”サステナブル”
”サステナブル”なんて表現を、日常生活の中で使うような人とは距離を置きたいと思っている。
なんだか意識高い系の代名詞のように思えるし、お高くとまってる感じで付き合いにくい。
もちろん、当の本人は「かっこつけよう」とかではなく、本心から未来の地球環境のことを考えているのかもしれない。
でも、なんか嫌で、私は好きになれない。
”社会的持続性”なんて、大仰で、自分には関係のないことだと思っていた。
とても身近なモノとは思えないからだろう。
でも、少し考え方を変えるだけで、”サステナブル”はぐっと身近なモノになるみたい。
”サステナブル”のそもそも論
そもそも”サステナブル”とはなにか?
”サステナブル(sustainable)”とは、英語で『持続できる』という意味を持つ言葉。
転じて地球環境破壊や資源の大量消費に対するアンチワードとして『持続可能な社会』を表現するために使われ始めた。
つまり、今後数百年で今ある地球資源や燃料を使い果たしてしまうような方法で消費をするのではなく、ずっとずっと未来まで人間が生活の質を落とさずに生きていけるような消費の仕方をしましょう、ということだ。
それには単に消費の仕方を改めるだけでなく、いかにエネルギーを効率よく、そして無駄なく生産・獲得するかも含まれる。
風力発電などに代表される再生可能エネルギーもそのひとつだ。
今の生活のために『自然から略奪する』のではなく、
今からの生活のために『自然とともに生きる』
地球環境に配慮しつつ、再生可能エネルギーによって生活を営んでいく。
これが”サステナブル社会”の基本形となる。
要は「もったいない」
この点、実は日本人の考え方の中に、世界から注目されているものがある。
”Mottainai”(もったいない)、である。
私は”サステナブル”とは”もったいない”だと思う。
”Sustainable” = ”Mottainai”
使えるものは壊れるまで使う。
傷がついたからといって新しいものを買ったりはしない。
たとえ壊れたとしても修理して使い続ける。
”サステナブル”を「もったいない」だと思うと、不思議とぐっと身近な意味を持つ。
そこに意識高い系の、お高くとまったイメージはない。
むしろ親近感がわく。
だって私たちは、毎日毎日「もったいない」を実践してるから。
まるで私たち自身が生粋の「サステナブル主義者」であるかのように。
鼻持ちならない”サステナブル”が、仲良くなれそうな”サステナブル”に思えてくる。
とはいっても、
「物を大事に使うなんてみんながみんなやっていること」
そのうえで、サステナブル社会にさらに一歩足を進めるために、私たちになにができるというのだろうか。
選択の中の”サステナブル”
私たちは思っていたよりもたくさんサステナブルチックなことを、しかも日々の暮らしの中でやっているみたいだ。
私の知り合いに、8年モノのスマホを使っている人がいる。
本人曰く「もう体の一部」らしい。
「やっといい味がでてきた頃合いだよ」と笑う。
なにもそこまでいかなくとも、2年でスマホを買い替えていたあの時期に比べれば今の私たちの社会は”サステナブル”に近づいたことだろう。
では、もう一歩なにができるか?
多少値が張るとしても、長く使える良いモノを選んで購入する。
1年使ったら別のものに買い替える必要のあるものじゃなく、
3年使えるものを選ぶ。
3年しか持たないものではなく、
9年ずっと愛用できるものを選ぶ。
『選択のサステナビリティ』。
1年使える5000円の商品よりも、
5年使える20000円の商品を。
確かに初期投資は痛いかもしれないが、耐用年数を考えて長い目でみるとかなりお得になる場合も多い。
商品の本当の価値 = 商品価格 ÷ 使用年数
そのうえ、価格の良い商品は満足感をあたえてくれる。
『所有する喜び』というやつだ。
小さな小さな持続性
”サステナブル”は小さくていい。
気合を入れて取り組む必要がある局面もあるが、私たち個々人においては”小さなサステナブル”でいい。
日々の小さな、何気ない積み重ねが、”大きなサステナブル”を生み出す。
そしてそれは、私たちの子供、孫、ひ孫の代になってようやく『膨大で巨大なサステナビリティ』を生み出すのだろう。
それでいいし、
それがふつうだ。
あなたが次になにか商品を買うときには、それがどんなものであったとしてもこのnoteを思い出してほしい。
あなたの小さな選択が、今後何百年の地球と人類に影響を与えるのだから。
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