忍耐力についての考察。
私は昔から忍耐力がない。それは私の人生において、しばしばよく懐いた飼い犬のようについてきては早く遊んでくれと尻尾を振る。
勉強や部活から始まり、仕事、人間関係。今までそれらから幾度も逃げ出してきてやっと居心地がいい環境を整えても、やはりそれは拭いきれない。だからといって何もしないのもそれはそれで罪悪感や責任感や社会性などの主に外的要因から負い目を感じてしまう。
この焦りと忍耐力の欠如という自分の中の相反する要素にずっと苦しめられてきた。おそらくそれは私一人の抱える問題ではないのだろう。
しかし近頃ふとこんなことを考えてみる機会があった。
『継続できる人間は何を目指しているのだろう?』
大器晩成という言葉があるように、なにかを続けて芽が出る、ということは時間がかかるのは当然のだし、個人差もある。
だからそもそも自分の中の視点を変えればいいのではないか、と思うのだ。それは成果を保証されない人生という長く険しい道程において、成果そのものにある程度意識的に無視を決め込むことなのではないか、と。
もちろん、それを無視するだけなら、途中で目的地を見失ってしまう。その真っ暗な闇の先に目指すものがあるのか、という疑問に足が止まる。
だからそこにある灯を灯してやればいい。
それは達成感である。
「なんの成果もないのに、達成感なんて得られるわけないじゃないか」と言われてしまうかもしれないが、要は視点を変える、ということだ。視点を『成果の達成感』から『継続の達成感』に変える、ということなのだ。
言ってしまえば、継続も一つの成果として認識してしまうということである。昨日よりは前に進めた、少なくとも止めなかった、と。
だから何事も長く続けられるひと、というのはこの継続の鎖を断ち切っていない、という喜びのみにフォーカスして、たとえ道に迷おうが後戻りかも知れないと猜疑心が胸にこみ上げようが、ただ黙々と歩き続けることだけが喜びであり、成果なのだと認識することで、忍耐力を獲得しているのだ。
つまり目標に向かってほんのわずかにでも前に進むことができれば、それは人生に勝ったということであり、さらに自分自身に勝ったということにほかならない。やったね。
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