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博士課程に入るまでのいくつかの偶然

世間には、博士論文の内容やその執筆を振り返るという趣旨で書かれたものは、比較的あるように思う。ただ私の場合、そこまで上手に書き進められた自信もないし、博論執筆からバックワード形式に進めることで削ぎ落とされてしまうことにもどこか抵抗を覚えてしまう。

そんなまどろっこしい心情を持った人間が書く文章なのだから、おそらく本文も歯切れが悪く読みづらいものになるだろう。美味しくはないけど、試しに口にしてみる。それくらいの心づもりを持たれた方に、読んでいただけたらと思う。大学院生の方であれば、食わず嫌いをせずに何でもいいから口にしてやろう、という気概を持たれた方も多いことに少し期待もして…。

本文は、博士後期課程に入学してから博士論文の本審査を終えるまでの期間を振り返るものである。(以下、めんどくさいので、博士課程=博士後期課程、修士課程=博士前期課程とする)

書き手の私が期待していることは、博士課程という共通の経験を過去、現在、未来のどこかで重なる人たちと何かしらの対話が生まれたらと思う。もちろん博士課程そのものにご自身の縁がなかったとしても、私がそんな経験をしていたのかと興味を持っていただけるだけでも大変嬉しい。

いずれにしても、本文の内容とも重なるところではあるが、博士課程の期間とは、どこか「ひとり」の経験として捉えやすい。そして同時に、様々な方にお世話になり、「交流」する時間でもあった。「ひとり」の経験や「交流」の経験を、誰かと共有してみたい。そんな素朴な動機から書き始めたものなので、偉そうにしたいわけでは毛頭ない。


博士課程が始まるまでの話

私の博士課程が始まったのは、5年ほど前のことだ。そもそも、修士論文を書いているような頃に、博士課程に進むことはほとんど考えていなくて、そのまま自分は企業就職すると思っていた。とはいえ、修士課程そのものはかなり前のめりで講義やゼミに参加していたことも確かであった。その理由は単純なもので、研究が楽しかったからだ。

小さいころから勉強は好きな方だった。イメージとしてはハリーポッター作品に出てくるハーマイオニーのような感じで、どんどん手を挙げて自分の主張をしたがるし、授業後に先生をつかまえて気になることを質問するようなタイプだった。これは今でもほとんど変わっていなくて、自分の無意識的な習性に近い。

あとは必ずしも授業だけが学びと思っていなかった。野球やバレーなどでコーチから教わる技術的なこと、ふとしたときに店主から聴く話、おじいちゃんやおばあちゃんの知恵、それらと学問的な学びの差は、私にとってはそれほど大きなものではなかった。他にも授業で幕末のことを教わるときに、読んでいた歴史小説や歴史考察と比較して批判的に考えてしまうこともあって、授業だけが全てではないとも強く思っていた。

そのこともあって、○×方式で正解を頭に叩き込むような受験勉強には、あまり向いていないとも思っていた。もちろん自分の実力が足りていないことも自覚していた。できる限りの時間を使って世界史や日本史を必死に勉強したにもかかわらず、一応センターの模試では90%ほどあっても、二次の模試では5%にも満たない点数しか取れない。「これだけやってもこの程度か、自分にはまぁ才能がないな」と、相変わらずの諦めの早さは当時からあったように思う。(ややこしいことに、当時読んでいた五木寛之さんの『人間の覚悟』という本にあった、諦めることは明らめること、つまり明らかにすることだという考えにも多少なりとも影響を受けていた。)

そんなこともあって、大学の方が水が合う感覚はあった。実際に入学当初にシラバスを広げたときには、かなり気持ちが昂っていた。あまり自分の専門科目を意識せずに、気になる科目を片っ端から受けていた。経済学や経営学の所属であるものの、法学部の人気講義の法思想史に参加し、文学部の東南アジア史、日本美術史、死生観の哲学などの講義も受講していた。どれもとても触れたことのない新鮮で楽しいものばかりで、今でも内容は頭に残っていて、むしろ時間が経つにつれてそのありがたみは増している。

ただ、他学部の単位転換を最大まで受講していたこともあり、自学部の単位を落とすことも多く、成績はおそらくかなり下位の方だったように思う。それでも、休学承認を依頼するためにゼミの指導教官の研究室を訪ねたときに、「カモメくんは、面白い。こんな哲学とか歴史の単位を取るゼミ生はいなかった。君は自分の考えとか感覚を大事にしているから、経営者や研究者が向いていると思う」とコメントをいただいた。そのときに何か直接的に影響があったかは自覚はないが、そのような先生からの言葉は、なんとなく自分にとって大きなセーフティネットになっていたように思う。学部から大学院に上がるきっかけになったのも、修士課程までお世話になったゼミの先生からのちょっとした選択肢の提案からだった。

その後、先生の予言が当たることも含め、提案を吟味した結果、修士課程にそのまま進んだ。自分が学部時代に窮屈に感じていた多数の単位を取る圧力から解放されて、修士時代はじっくり腰を据えて学べる環境をありがたく思っていた。もしかしたら珍しいのかもしれないが、専攻している経営学で私はどこかジェネラリストのようなところがある。事業戦略、会計、ファイナンス、組織論、人事、どれもアレルギーなく好きだった。これも先生からいただいた「カモメくんは経営者っぽい」という言葉に、今にして思うと当てはまっていたようにも思う。経営者のような立場に立つなら、どのファンクションも重要なものとして認識するからだ。実際に仕事で経営実務をすることにもなったので、驚くくらいに先生の予言は当たった。ただ、別に先生の予言通りにしようとも思っておらず、気づいたらそうなっていたという感じだ。

そんなわけで修士時代は自分が研究者になるかならないかはあまり気にしてなくて、素直にその時間を楽しんでいた。同期には留学生の友人が多く(画面上に英語を打ちながら授業のリアルタイム翻訳にも挑戦した)、かつ純粋な学部上がりの学生も少なかったことで、講義受講者は一桁くらいの人数の中で、先生から自分に回答を求められる機会が多かった。「カモメくんは、どう思う?」が初球で飛んでくるのだ。ただ、不思議な流れだったけども、ここで自分の主張をぶつけさせてもらって先生からの応答を受けられる環境も、これまた水が合っていたように思う。


そんな修士課程から博士課程へと進むことを決めたきっかけも、いくつかの偶然が重なってのことだった。

起点となったのは、ある先生のアルバイトを始めたことだった。その先生のアルバイトを紹介してくださったのは、私の前にゼミ長をしていた先輩だった。

「カモメくん、少しいいかな」とゼミの合間に先輩から声をかけられた。「ちょっと頼みたいことがあって…」と話を聞くと、どうやら、ある先生のお手伝いをしてほしいとのことだった。聞いてみると、私がゼミの運営を何かと真面目にやっていたことがその先輩にはよく映っていたようだ。ゼミ長の仕事は、地味なことだが、毎回のゼミで読む文献、担当者、参加者の連絡などを細かく調整して運営するような役回りだった。断る理由もなかったので、二つ返事で承諾をした。

その先生は退官する前には有名大学で名誉教授の肩書きを持つほど、立派な実績をお持ちの方だった。当時はよく分かってなかったのだけど、その後に文献を読んでいると先生の名前を目にすることが何度かあった。先生のもとでの仕事は、とにかく楽しかった。なんせ、先生は自分が雲の上に感じるような先生方と同世代もしくは少し上に当たることもあって、有名な先生が思い出話にどんどん出てくる。周りからは賞賛されている先生であっても、「いや、こういうところはまだまだだと思ったよ」と批判的な意見を先生の口から聞くこともあった。それ以上に、退官後の先生からこれまでの振り返りを、読んできた文献や面白かった研究を含めてお聞きできることは、こちらがお金を払ってもおかしくない話で、仕事をしてお金をもらいながら聴く話としてはありがたすぎるものだった。日常的には、先生とは中島みゆきのファンという共通の趣味で、流れてくる音楽や美味しいビールのお店の話で盛り上がることもあった。

ある日、アルバイトのときに、先生のもとに学会からの知らせが届いた。それを見ながら、「カモメくんは、学会に行ったことはあるかい?」と先生はお聞きになった。(いえ、行ったことはないです)と答えると、「どうせだったら、一回行ってみるといいよ」とおっしゃった。物は試しかと思い、先生の提案にすぐに乗っかることにした。これがおそらく、私の博士課程の進学を決める最も大きな分岐点だったように思う。

学会に行ってみると、思っていたよりも自由なテーマ選択が多く、自分が修士論文で取り組んでいたテーマと近い発表者の方とも意見交換ができた。それぞれの報告者の人が自分の研究したいことを研究し、自分のスタイルで調査し報告されている姿に、素直に「面白そうだな」と思った。懇親会でも、当時の大会委員長をされている先生とある先生がつないでくださり、テキストマイニングの取り組みを相談すると、「とりあえず興味があるなら、一回、分析に入ってしまえばいいんじゃない?」と何気なくアドバイスまでいただけた。


そんな懇親会(当時は東大の地下食堂が会場)の階段を上がって外に出ると、所属大学のある先生と出会った。「おっす」といつもの挨拶をされながら、「え?来てたの?」と少しびっくりされている様子だった。たしかに、私は特に誰にも言わずに学会に参加していたので、先生から参加していること自体に興味を持たれたようだった。感想を聞かれたので、とても面白かったですと答え、理由や詳細を説明していると、うまく言えないのだけど、先生の何かのアンテナに引っかかった様子が垣間見えた。学会を面白いと思うのって珍しいし、いいことだから、会社に入っても来てみてもいいかもねとおっしゃられた。

その後に、先生から「せっかくだし、何か食べていくか」とお食事にお誘いいただき、街中華を一緒に食べながら、学会やアカデミアについてのお話を色々とお聞きした。これまた大きな偶然であり、大きな分岐点である。ちなみに、ここで登場する先生は博士課程の指導教官である(修士までの先生は退官されたので、修士と博士の指導教官は別だ)。

結果的に、学会に参加したことと先生からアカデミアについて様々な話をお聞きしたことで、それまで遠い存在だったアカデミアという進路に近づくことになった。修士論文という一つの研究に取り組むことと、アカデミアにはどういう人たちがいて、どのような具体的な活動をしているかを知ることは、実はあまり関連していなかったのだ。具体的なイメージを持てたことで、興味関心を持って、その後の検討に入ることができたように思う。

そのあとにも色々なエピソードはあったのだけど、大きな分岐点はここでの二つに代表される。二つとも、自分にとっては突然遭遇したちょっとした偶然の出来事だった。もちろん、博士課程に進むかどうか自体は、自分の中で色々と思考し、判断したものである。ただ、基本的な流れを支えているのは、偶然の出来事だったのだ。


博士課程になるまでの話を書いていたら、随分と長い文章になってしまった。ここで一度、このnoteを閉じたいと思う。

博士課程を振り返ろうと思っていたら、博士課程そのものは振り返れなかった。こんなぐだぐだな展開で恐縮だが、もしご関心あれば、次回の本編(?)を読んでいただけたら幸いである。


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