[小説 祭りのあと(17)]二月のこと~マシュマロと黒い手のひら(後編)~
「昨日は本当にごめんなさい……」
幸と僕は有紀子さんに向かって頭を下げた。
幸は僕を引き摺ったことは覚えていたようだが、商店街中に響くほど叫んだことは記憶になかったようだ。
今朝になって陽治からお叱りを受けて、ようやく事の重大さに気付いたのだった。
しかしこいつ、僕には一言も謝罪の言葉がないのはどういうことだ。
お店の小さなイートインスペースに三人は座って話を始めた。
貴一さんが気遣って紅茶を差し出してくれた。
僕に向かって『頼むよ』といった風情で片目を瞑ったのを、僕は見逃さなかった。
「さて、どうしようね。彼にはお相手はおらんみたいだけど」
驚いた表情で有紀子さんは僕を見た。
あれだけ頻繁に贈り物をしているのだから、お相手はいるものと信じ切っていたのだ。
「あと一週間かぁ。そうだ。特別なプレゼントを渡してみたらどう?」
「そうよ。有紀ちゃんのお菓子、どれも可愛いくて綺麗で美味しいけぇ。きっと想いも伝わる筈よ」
まだまだ修行中の彼女だが、彼女の持つ天性のアイデアとビジュアルのセンスは、創り出すお菓子に見事なまでに溢れ出ていた。市外からも買いに来る人がいる程、新作が登場する度に話題になっていた。
そんな彼女でも、本命の彼へのお菓子というのは久し振りとあってか、間違いなく戸惑っていた。
しかも学生時代とは違い、今回はプロのパティシエとして作るのだから緊張度は半端ではない。
「何が好きなんでしょうね、男の人って」
「うーん。そこは気にし過ぎなくても…想いがしっかりと込められとるものを作って渡す。そこに伝わるものがあれば、それでいいんじゃないんかなぁ」
想いを込める。伝わるものがそこにある。全ては基本に戻ること。
自分のお菓子で誰かが喜ぶことを仕事にした有紀子さんは、いつも以上に真剣に考え出した。
その瞬間、僕の右ポケットが結構な熱を発し始めた。
これは…そうか……彼女になら、託してみてもいいかも知れないーーー
「ねぇ有紀ちゃん。これお守り代わりに持ってみん?」
彼女の手に僕は黒い石を載せた。まだ熱を帯びていたその石に、彼女は驚いたようだ。
「この石……とっても綺麗ですね。形は武骨だけれど、この黒さに深みがあります」
彼女は石を載せた手のひらをギュッと握って、参考にさせていただきますと立ち上がってその場を後にした。
これまでの人とは違って、彼女は僕が何も説明しなくても、黒い石のパワーを素直に受け止めた。
あの石がより大きな力を彼女に与えてくれるようにと、僕は祈った。
「何作るのか、楽しみじゃねぇ」
「いやいや、僕らが食べるんじゃないけーね。まさか試食しようなんて考えて……」
明らかにそのつもりの顔をこいつはしていた。彼だけの特別なものなんだと、僕はしっかりとこの娘に言い聞かせた。何でも人より先に知りたがり食べたがるのか、本当に困る。
さて次は、彼をどうやってバレンタインデーに店に来させるか。
その問題は僕が心配するまでもなく、何かに衝き動かされた彼ら自身で解決することとなった。
バレンタインデー前日。準備のために一時間早めの閉店をしようとしていた午後七時前のことだった。
パティスリー・ウエムラの前に猛スピードで到着した自転車を停めて、慌てて駆け込む内田君の姿が見えた。
「すみません。まだ大丈夫ですか?」
「あぁ。いつもどうも。もう大分無くなっていますけど、何がお目当てです?」
ショーケースの中の残ったお菓子を引き上げようとしていた貴一さんが応対した。有紀子さんは厨房の奥で片付けをしていた。
「いや、急にどうしてもこちらのモンブランが食べたくなって……」
機転を利かせた貴一さんは、奥の有紀子さんを呼んで接客を頼んだ。
「普通のモンブランはもう売り切れちゃって……もう一種類モンブランがあるんですけどそれはどうですか?」
そう言って有紀子さんがショーケースから取り出したのは、苺のホイップであしらったモンブランだった。
「これ、珍しいですね。でも俺、栗のが食べたかったんですけど…」
「あぁ。ケーキだと栗を使ったものはもうないですね。焼菓子だったら栗を練り込んだものがありますが…」
迷った挙句、彼は結局苺のモンブランを一つ購入した。
包装する彼女が厨房を見た一瞬に、貴一さんは『行け』と目配せをしたのだった。
「いつもありがとうございます。ところで失礼ですが、明日の夜はお時間ありますでしょうか?」
「えっ、確か業後の打ち合わせはあったけど…今日くらいの時間には空いてます」
「良かった…あの……明日お店にまた来て頂けますか?」
古い表現だが、まさに鳩が豆鉄砲を食らったかのように驚いている内田君。貴一さんは奥で笑いを堪えるのに必死だった。
「は、はい。今日より少し遅れるかも知れないですけど、大丈夫ですか?」
「大丈夫です。お待ちしております」
場にそぐわない彼女の接客表現に、貴一さんはまた声を殺して笑っていた。
そんなやり取りを二人がしている間に、貴一さんは明日の予約の残りを作る準備を着々と始めていたのだった。
「よーし。終了。お疲れさま。じゃあ後は頼むね」
お店としてのバレンタインデーの準備が終わった午後十時半。
貴一さんは店の鍵の在り処を有紀子さんに教えて、彼女の肩を軽く一回叩いて店を後にした。
彼女は作業台を綺麗に拭き上げて、頭の中に思い描いた彼への想いを形にする作業に取り掛かった。
翌日のパティスリー・ウエムラは行列ができて、文字通りてんてこ舞いの状況だった。
お店がようやく落ち着いたのは午後六時過ぎ。
僕は修理の帰りに店の前を通り、ガラス越しに有紀子さんに向かって手を振った。彼女は笑顔を見せて手を振り返した。
疲れは隠せないが、いつもにも増して生き生きとしているように見えた。
そうか。これからが、彼女にとっての本番だったな。
前の日に約束をした午後七時過ぎになっても、内田君はまだ現れなかった。
「大丈夫だって」と貴一さんは片付けを続ける彼女に声を掛けた。
閉店時間の午後八時が近付いても、まだ彼は現れなかった。
「シャッターはこっちだけ閉めとくよ」
貴一さんはそう言って、窓側のシャッターを下ろした。
彼女は明らかに落ち着きがなくなっていた。
冷静になれと、彼女はグラスに入ったままの黒い石をちらっと見た。
神様は意地悪なものだ。
午後十時になっても、パティスリー・ウエムラの入口は開いたままだった。
有紀子さんは厨房の中で、可愛く包装した小さい箱を見つめていた。
その目は潤んでいるように見えた。
「やっぱり駄目かな……」
彼女がそう呟いて、手にした箱をゴミ箱に入れようとしたその時。
入口の外から急ブレーキと、バタンと何かが倒れる音が聞こえた。
彼女は慌てて電気を消した店内へと駆け寄った。
横倒しの自転車の前には、息を切らせた内田君が、両膝に手を付いて肩を上下に揺らして立っていた。有紀子さんは電気を切った自動ドアを両手で引いて開けた。
「ごめんなさい、遅れてしまって……」
彼の作業服は、いつも以上に全体が黒く汚れていた。
「どうしたんですか?そんなに汚れて…」
「最終便に機材トラブルがあったんです。明日のフライトに間に合わせないとって、手間取ってさっきまで…もう間に合わないかと…でも、もしかしたらと思って……」
息を切らせながらようやく言い終わって初めて、内田君は気が付いた。
彼女の表情が我慢し過ぎてひどい顔になっていることを。それでもどうしても滲み出てしまう涙を。
「もう……本当ですよぉ……もう少しで私が飛んでいっちゃうところでしたよぅ……」
「えっ!?」
封じ込めていた想いが溢れて、彼女の声ももうグズグズだ。
ここまでさせるまで気付かないなんて、幸の言葉を借りると、男っていうのはどこまでダメなんだろう……いや、まさか彼はまだ気付いていないのかも。
彼女は泣きべそのまま薄暗い店内に立つ内田君の前に歩み寄り、ギュッと目を閉じてピンクの包装に赤いリボンの小箱を差し出した。
「受け取ってください。これが私の気持ちです」
僕に似た、いやそれ以上に鈍感らしい彼でも、彼女のその仕草と言葉でさすがに事態が飲み込めたようだった。
彼はとっさに手を作業服で拭いたが、手に付いた油汚れは全く取れない。
「気にしないでください」と彼女は促し、ようやく彼は小箱を受け取った。
「ここで開けても、いいですか?」
緊張した彼の言葉に、彼女は黙って頷いた。
彼女はイートインスペースの上だけに灯りを付けた。
二人はテーブルを挟んで座った。
彼が箱を開くと、そこにはカラフルなマシュマロが幾つも入っていた。
「これが苺で、これが葡萄。それとこれは栗です。昨日お好きだって聞いたんで」
彼女はそう言って、黄金色のマシュマロを摘んで彼の手のひらに載せた。
作業油で黒ずんでいることなど気にせず、彼はそのマシュマロを口に入れた。
噛むと中からは、栗のソースがじんわりと染み出てきて、彼は思わず笑みを浮かべた。
明日もまた仕事の筈なのに、二人はいつまでも小箱を囲んで囁き合っていた。
静寂に包まれた凍えるアーケードの中で、その空間だけはほんのりと暖かい別世界になっていた。
内田君、まるでドラマみたいな展開じゃないか。
どうも神様の意地悪は、単なる悪意だけのものではなかったようだ。
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