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初マラソンの想い出*2011年(当時は17歳!高校2年生)

【初マラソンの想い出】
ふと自分の歴史について振り返る。
初マラソンの想い出について。

僕が初めてランニングと関わる
試合に出場をしたのは小学5年生の時。
10月「神戸市リレーカーニバル」
だった気がする。
もしくは小学6年生の時、
4月「兵庫リレーカーニバル」。
どっちかかな。

当時100m走と4×100mRに出場。
100m走は15秒10だった記憶がある。

ロードレースに出場したのは
中学2年生の1月の時。
「六甲シティマラソン 3kmの部」
そんなに速くはなかったけど、
一生懸命走った記憶がある。
参加者の半分より速かったらOK。
それくらいで自分は満足していた。

初めてのフルマラソンは
高校2年生の3月の時。
「第33回大阪42.195kmフルマラソン大会」
長居公園を15周回する老舗の大会でした。

【なんで長距離走に挑戦したの?】
高校時代は陸上競技部に所属。
短距離走やマイルリレーについては
当時は全国大会に出場をしていたが
僕が挑戦した長距離走は実績がなく
弱小と呼んでもウソじゃないレベル。

県大会にも出場経験がないんだから。
神戸市の地区予選で敗退するのが常連。
自分も県大会進出なんて夢の世界でした。

そんなレベルの学校でしたが
同級生に新生が現れたんですね。

入学当時、校内1500m走では
たった1秒しか実力差が無かったが
彼はぐんぐん実力を伸ばしていき
高校の全国大会に勝ち進んでいき
順天堂大学に進学。
さらには大学4回生の時には
大学の全国大会800m走で優勝🏆️
そして実業団のある会社に入社した。

そんな彼と高校時代共にできた。
(僕にとって幸せな時間でした)

当初僕は800m志望してたけど
走れる枠がなく5000mを選んだ。
そんな長い距離走ったことないよ!
けど試合に出れるのは5000mしかない。

初出場は高校1年生の6月。
「神戸市立高校対抗 陸上競技大会」
神戸市立の学校だけが集い合う大会。
初レースは最後尾からスタートをした。
けど2kmを越えると、みんなが失速。
抜き去るのが段々と楽しくなっていき
最終的に17分05秒くらいだったと思う。
これが速いのか遅いのかわからない。
5000mなんて見たこともなかったし。
基準がわからない。
個人的にはゆっくりスタートしたし
きっと遅いタイムだろうなと思った。

高校3年の先輩。僕は入部初日にその先輩から「挨拶は‼️」と怒られて以来、怖くて避け続けていた。だけど、その背中はカッコ良くて近付きたい!とも思っていた。会話するのが怖くて、けど認めて欲しくて。こんなに成長したよ!って。そんな姿を見て欲しかった。この大会がたしか引退試合。もう一緒に練習できないのか…と思うと寂しい気持ちも抱いた。

そんな先輩から初めての5000mを走り終えた後、「松井ー!やるやん!」って初めて褒めて貰えた。そして初めてコミュニケーションが取れた。それが、めちゃくちゃ嬉しくて。もっと速く走りたい‼️もっと速く走れるようになって、カッコ良い先輩に自慢したい‼️再び褒めて貰いたい‼️そんな気持ちが沸いた。

【顧問の先生は2人】
1人はメイン。十種競技出身の先生で、めちゃくちゃ怖かった。厳しさある先生で、グランドで姿を見るだけで背筋がピン!と張り、全員が真面目に練習をする。やり投げと400m走の指導は特にピカイチ。怖さもあって、入部してから約半年間は何か会話をした記憶がない。

もう1人は中長距離担当。800m走出身者で僕にとっては癒しでもあった。キツイメニューを組むけど、楽しかった。特にペースメーカーを任された時には、自分で大丈夫かな?と不安しかなかった。けどペースメーカーを何度も努めるうちに、なんとなくリズム感が掴めた。グランドは1周約430mで、1周2秒誤差以内に納めるのが得意になった。なんで、そんなことができるか僕にも理解不能。でも、なんとなくな感覚を頼りに、その感覚を磨いた。

【なぜ初マラソンに挑戦したの?】
それは摩耶山階段ダッシュ!という
僕の母校では一番苦しく辛い練習から
学校に帰って来てストレッチしてた時。
僕の中で人生が転換する出来事が起きた。

陸上競技、駅伝シーズンを終えて
冬季練習に入る11月頃の出来事でした。

その中長距離担当の顧問の先生が
先日、フルマラソンを走ってきた!
というお話しを僕たちにしてくれた。
30km以降で足が痛くなったことや、
試合後半でお婆ちゃんに抜かれたこと、
苦しいお話しをしていたはずだけど
それが、なんだか面白く聞こえた。
同時に興味が湧いた。

フルマラソンって何だろう?
自分も一回やってみたい!!

すぐさま出場できる大会を探して
エントリーをした。

だが僕の母校の陸上部の練習は
めちゃめちゃ追い込み練習が多く
(そういう印象が残ってる)
入部初日にも
うちは合宿並みに練習してるから。
朝練も日曜練習も合宿もしない。
と言われていたことを思い出す。

きっと 量 < 質 という本筋を
すでに見抜いていたからだと思う。
それと量を増やせば怪我人が増える。
質を高めれば、速い人が誕生する。
(集中力とエネルギーの問題)

そんなこともあって
練習+個人で試合に出る!
というのは御法度な雰囲気。
部員も誰もそんなことはしてなかった。
それでも試合に出たい!と思って
自分は顧問に内緒で
ハーフマラソン、フルマラソンと
2種目にエントリーをした。

【はじめてのハーフマラソン】
練習で走る学校~神戸空港RUN
(往復で約20km) が人生最長距離。
それでも脚が痛くなる経験があり
それ以上の距離は一度も走ってない。
高校の部活の練習オンリーで、
どこまで走れるんだろう??
というワクワク感もあった。

はじめてのハーフマラソンは
「神戸バレンタインラブラン」
2011年大会、当時17歳(高校2年生)

結果は1時間16分くらいでした。
順位は入賞🏆️景品をもらえた。
前半から攻めの走りを展開して
後半失速したことが気がかりで。
フルマラソンって、これの倍⁉️
ウソやろ。ほんまに大丈夫かな。

結構、ハーフでもキツいで。
けど、もうエントリー済みやから。
出場するしかない。覚悟を決めた。

神戸バレンタインラブラン2011

【はじめてのフルマラソン】
2011年3月 17歳(高校2年生)
第33回大阪42.195kmフルマラソン大会
大会最年少での出場を果たした。

いざスタートダッシュ。
とりあえず先頭集団に付いていこう。
ペースが全くわからないから。
自分は初めてだし、みんなは玄人だろう。
フルマラソン知った人と走っていれば、
きっとなんとかなる。完走もできる。

でも先頭集団のペースはゆっくりで
ジョギングをしている感覚でした。
こんなんで良いの?余裕あるよ。
目の前を走るのは大学生のお兄さん。
服装がちゃんとユニフォーム着用して
身体付きが大人。きっと速い人だろう。
きっと強い人だろうと思っていたが…

何周目だったかな?4周目?5周目?
大学生のお兄さんが後ろに下がった。
実はハイペースだったんだと思うけど
ウソやろ。自分は初マラソンやで。
自分がペースメーカーなんて無理無理。
後ろに付くとか止めてー。
しかも自分より年上やろ。
年下を使うとかありえない。
けど、負けたくない!早よ離れて欲しい。

レースはその大学生のお兄さんと
高校生の私と1番、2番争いとなり
2人で切磋琢磨し次第にペースアップ。
すると大学生のお兄さんは8周目で
ペースダウン。やっと後ろから離れた。
よっしゃ!ここからいくぞ!!

長居公園は15周回で42.195km。
何周回走ったか?だけを意識。
自分が何km地点なのかなんて
何一つ考えず、キロ何分とかも
何一つ考えずにゴールを目指した。

先頭で単独走。こんな心地良いのか‼️
幸せを感じた。しかし長続きしない。
9周目の途中で、急激に脚が重くなり、
10周目には脚(ふともも)が痛くなり、
11周目には脚(ふくらはぎ)が攣って、
もう意識朦朧。ナニコレ。

初フル挑戦までの最長距離は約23km。
走る距離が未知の領域に突入してから
ヤバい。
スポーツドリンクを頭から被ったり
スポーツドリンクを脚にぶっかけたり
今なら勿体無い!と思うような贅沢を
なんの壁も感じず、行動をしていた。
早くこの苦しみから解放されたい。

人生でも経験したことのない苦しさ。
こんな苦しいのか。フルマラソンは。
もう二度と走りたくない。走らない。
一生涯分、すべてを尽くしてる。
もう嫌だ。嫌だけど。
人生の未知にチャレンジしている。
この苦しさから解放されるために
途中棄権する?それはもっと嫌だ。
なぜ?
もう1回挑戦しないといけなくなるから。
すでに30kmを越えてる。完走する。

なんとなく覚えているのは28km地点まで。
それ以降、ゴールするまで記憶がない。
走った記憶がほとんど飛んでいる。
苦し過ぎた。
覚えているのはラスト2周回(残り約5km)
そこまで先頭を守り続けていましたが
さぁーっと抜かされた瞬間だけかな。

あともうちょいだったのに。悔しい。

初フルマラソンの結果としては
2時間55分51秒。
第4位/参加者500名程

【フルマラソン完走直後】
初フルマラソン完走した瞬間、
もう身体が動かなさ過ぎて。
応援しに来てくれていた両親。
両親に多大な心配を掛けました。

きっと両親もTVの世界だけの知識で
フルマラソンを舐めていたと思う。
まさか、こんなことになるとは。

ゴール直後、もう脚に力が入らなくて
2時間くらい休憩したけど動かなくて。
人生はじめて両親の肩を借りて歩いた。
歩いたというより引きずってもらった。
自分の力では全く立てず歩けずで。
本当の限界。ボロボロになった。

これがフルマラソンか…

もう二度と走りたくない。
けど、結果が4位なんだよ。
どこか悔しさが心に残った。

【初フルマラソンを終えて】
フルマラソンを走った翌日。
月曜日。顧問に黙って出場をした。
明らかに脚がおかしい。動かない。
けど許可を得ずに勝手に出場した。
その責任は重い。練習はしなきゃ。
しばらく何度走っても最下位になり、
出力の出し方、走り方を忘れていた。
みんなが、ぜぇはぁ苦しんでいても、
自分はなぜかケロッとしている。
スピードを失い、体力が付いた感じ。

【ゴールゲートの向こう側の世界】
あんな苦しい世界があったのか!
とはじめて経験した苦しい領域は、
他の何よりも苦しみ、キツかった。
それ以来、テスト勉強も資格勉強も
陸上部での練習も全く辛さを感じない。
同級生たちはフルマラソンを知らない。
あの苦しさを味わってない人と比べたら
自分は最強になれる。変な自信が付いた。

これがゴールゲートの向こう側の世界か。

学校という小さいコミュニティの中、
電気情報工学科という120人規模で。
猛勉強に耐えられる精神力が向上し、
中学時代は中の下で本質アホな自分が
神戸高専を受験するような賢い方々と
張り合い、切磋琢磨し、成績を争えた。

これは完全にフルマラソンのおかげ。
ほんと苦しかったけど挑戦して良かった。
本気で思った。文武両道を実現できた。

【味わって欲しいこの感覚】
フルマラソンに挑戦する前後では
明らかに人生観、世界観が変わった。
どう変わったのか?説明は難しい。

その答えはぜひみなさんが挑戦し
感じた感覚や、見えた景色について
共有して欲しいなと僕は思う。

こちら側の世界は努力ができる世界。
いや努力するのが当たり前な世界。
当たり前過ぎて努力と呼んでいた事が
努力と呼ばなくなる世界でもあります。
人生の次元が上がる。景色が変わる。

とんでもなくキツいけど。
本気で挑んだ先、壁を越えた向こう側。

【次なるゴールを目指して】
『ゴールゲートの向こう側に行きたい!!』
『向こう側の景色を見て見たい!!』
『向こう側の世界に何が待ってるんだろう?』

ゴールした先にある未知なる世界。
自分が知らない世界。想像の外。
その世界に僕は興味があります。
そして、その世界に飛び込みたい。

【人生2回目のフルマラソン】
それは、ちょうど1年後のこと。
2012年3月。高校3年生(18歳)。
「第34回大阪42.195kmフルマラソン大会」
再び長居公園のスタートラインに立った。

あんなけ走らないって決めたのに…
時間と共に苦しさは忘れていき、
人生の充実感と後悔の念が増大。
昨年は4位。1位とは約5分差。
練習したらいけるんじゃない??
優勝したい。そう願って出場した。

… to be continue … … …

骨髄バンク


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