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サくら&りんゴ #61 夫からの贈り物

頭でわかっていたことが、心でもわかるようになった話。


こんなに美しい灰色があるんだ

夜明けが遅いうえに曇った朝は、なんとも気持ちが落ちる
ガラス戸を開けて
外を見る
すると湖があまりに美しい

空に続く滑らかな水面みなもは濃淡を携えた灰色で
ギースが音もなく軌跡だけを残して横切って行く

それはメイプルの葉の鮮やかな赤や、
湖から昇る満月が放つオレンジや
夜明けの空のカクテル色のような
目を捉える美しさとは全く別の
静かで穏やかな色

灰色ってこんなに綺麗な色だったんだ

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そんな風に見えるのは
たぶん
私の体に絡まっていた紐が
すこし
緩んだせいだと思う


どうしてあの時もっと
I love youと言わなかったのか
あんな風にこんな風に
夫に言葉をかけなかったのか
あの時ああしていたら、
あの時こうしていたら、

あの時もし、

あの時もしこうしていたらの紐が私の体をぐいぐいと締め付けてきた


夫が亡くなった直後の心理カウンセラーのセッションで
そんな私の苦しい思いをシーラは聞いてくれていた

たとえそれが(夫が亡くなることが)明日起こったとしても
あるいは一週間前であったとしても
きっとあなたは同じように思うんですよ
一週間前、後悔しなかったのは
そのとき起きなかったからというだけで

たとえあなたが彼に
I Love you
そう言いつくしていたとしても
やっぱり足りなかったと思うのですよ


そうシーラに言われて
頭では理解できていた

でもずっと私の心は
その本当の意味が
分からないでいたのである


何かがきっかけで突然
私を締め付ける紐が緩んだわけではない
ぐいぐい自分で引っ張って息もできないくらいだったのが
ある時気づいたら
首周りに余裕ができて
少し回りが見渡せるくらいの緩さになっている
無理に引っ張って手首に食い込んでいた紐が
少したわんで
手元にあるもの、目の前にある事象を
つかめるようになっている


そんなとき偶然のようにもしくは必然のように
感謝の妖精がでてきた
この湖畔の家のどこかで箱に入って
彼女がいることはわかっていた
でもずっとそれを思い出すことがなかったのである
かつてはずっと身につけていたこともあったのに

それは
妖精をかたどった
銀色のペンダントである



きみにぴったりのものを見つけたよ


Skypeスクリーンに映しだされる夫が言った

夫は仕事で1週間ほどロンドンに滞在していて
その日はジェイミーオリバーのレストランに連れて行ってもらったとか
そこで何がおいしかったとか
そんな話が続いた後のことである

画面越しにふいに夫は
私の目をじっと見て
そして、そう言ったのである

私はまだほとんどを東京で過ごしていて
別居中の前夫の間での裁判が終盤に差し掛かっていた頃だった

私にぴったりの物って何?

今は秘密だよ、きみが来たときにね

夫はさも意味深そうに、にやりとした


私はその頃、前夫に対してあるいは彼の弁護士が言ってくることに関して
いつもいつも怒っていて、その頃まだボーイフレンドだった夫は
ある時はじっと聞いてくれて
ある時はアドラー心理学の専門家らしく
厳しいことを言ってきたりした

ずっと怒っているということは
そうすることで自分の得になることがあると無意識的に思っているんだよ

そんなものはないと
さらに怒ったものである


その夏、私は長い係争の末の離婚届を出し終えてカナダに向かった
夫は湖畔の家でドライウォールを壁にはめ込んでいた
キッチンではキッチンカウンターが来たばかりで
まだ蛇口から水が出なかった
ガスコンロも設置されていなかった
夫の建てる家はかろうじて住めるという状態だった

ドライウォールの大きさを測る手を止めて夫は
ひょいと鉛筆を額とバンダナの間に刺し
短パンのジーンズのポケットから
小さな箱を取り出した

見ると紙製の黒い箱で
開けると
光る銀色の妖精が入っていた


これは感謝の妖精だよ

私は取りだして
カーテンのない部屋に差し込む陽の光にかざしてみた
羽を広げた妖精が銀色チェーンの先でゆらりと揺れる

ロンドンの通りでおみやげを探していて見つけたんだ
これは今のきみへぴったりの贈り物だと思ったよ


そして夫は続けた

きみはいつもいつも
前の夫ex-husband に対して怒ってるだろう
でも考えてごらん
your exのおかげでできたこともあるんじゃない?
your exに対する感謝を見つけてごらんよ
それが今のきみには足りないんだよ
だからね、感謝ができるようにってね

そう言って夫はペンダントを持って私の後ろにまわった

私は複雑な気持ちになった
前夫に感謝しろってどういうこと
この人は私を愛してはいないのかな
愛してないから
私との間に距離があるから
私が前夫に感謝するという気持ちを勧められるのかな
後ろで留め金がつけられる間、そんな考えが心をよぎった

だから私は、形式ばかりのありがとうのハグを夫に返した


ああ、そう言うことだったんだな
本当の意味が分かったのは
それから半年もたってからである


前夫への感謝
妖精が示唆するように
ひとつ探してみたのである
するとたまたまひとつ見つかって
そうしたら
ひとつひとつと見つかるたび
前夫に対する私の怒りは日を追って
ひとつひとつと沈下して行くのである
私の気持ちは少しずつ楽になり
前夫への怒りを口にすることがなくなっていった
きっと彼はこうしたかったのだろうな
ずっと責めていた前夫の行動に対しても
そんな風にさえ思えるようになったのである


いい人と出会えましたね

前夫との別居が始まった直後から通っていた、東京での心理カウンセリング
そのペンダントの話をしたら、年配のカウンセラーが後に夫となる人の事をそう言ってくれた
そしてそれが最後のセッションとなった


その時私の気持ちはすでに すっかりカナダに向いていたのである


怒りは時として愛情と裏腹で
それを夫は知っていたのだと思う
前夫に感謝をもつことで
怒りは薄れ私の執着もなくなっていく
だから私は再び前を向いて歩くことができた

あるいはさらに
実はそれが夫の戦略だったかもとさえ思う
今になって勝手にそんな風に考える
私は前夫への怒りから解き放たれて
新しい夫へと向かって行けたのだから


その夏からさらに一周した次の年
水無月の最初の日を選んで
私たちは東京で結婚届けを出した



自分で引っ張る紐が少し緩んで、夫とのそんなかつてのことを思い出せるようになった。闘病の夫との最後の1年の事だけが私の心を占めて、ずっとずっとその苦しみから逃れられないでいたのだ

私は黒い箱から感謝の妖精を取り出した
結婚指輪をはめてから妖精は
またこの黒い箱に戻っていたのである
それは決して高価な物ではなく
夫が見つけたのは
ロンドンのどこか観光場所にある小さなお土産屋さんだったに違いない

でも感謝の妖精は私にとって
どんな高価なダイヤモンドとも代え難い物となって
いつもそばにいてくれた
私が紐でぐるぐる巻きになって身動きできなくなっていても
黙って待っていてくれた


紐の緩んだ手で私は
銀の鎖をそっと持ち上げる
ガラス窓から入る陽に照らされて
妖精がゆらりと光る

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この妖精がいたことを思い出したのは
今朝美しい灰色の湖を見たからである
でもそれは湖があまりに美しかったせいではない

今までもあったのに気づかなかった灰色の美しさに気づいたことに

気づいたせいである

日本とカナダの子供たちのために使いたいと思います。